混濁の神殿と過去の亡霊
荒れ狂う砂煙が、容赦なく四人の視界と体力を奪っていく。
背後に迫る「紅い光」のプレッシャーに急き立てられながら、足の沈む砂地をひたすら進む。風の音だけが支配する灰色の世界の中で、高瀬はまるで時間が止まり、永遠にこの地獄を歩き続けているかのような錯覚に陥っていた。
二つほど小高い丘を越え、肺が焼けるような痛みに耐えながらさらに歩き続けた、その先。
分厚い砂煙の向こう側に、煌々とただならぬ威容を放つ、巨大な建造物のシルエットが浮かび上がった。
(あれが……ピラミッド……?)
だが、近づくにつれて、高瀬はその異様さに息を呑んだ。
それは単なる四角錐の遺跡などではなかった。巨大な石積みの土台の上にそびえ立っていたのは、ローマ神殿を思わせる荘厳な大理石の円柱。そしてその奥には、インドの古代寺院のように、無数の神々や悍ましい群像がひしめき合う緻密な彫刻が施されている。
まるで様々な文明と宗教が衝突し、無秩序に融合したかのような、圧倒的でグロテスクなキメラ建築がそこにあった。
「なんですか、これ……」
高瀬は圧倒され、乾ききった唇を震わせた。
「宗教ごとに価値観は違いますが……」
佐藤が砂埃を目元から払いながら、忌々しげに頭上の異形な神殿を見上げる。
「日本で言うなら、人柱や即身仏のような……神官たちが狂気的な信仰で作り出したものらしいですよ」
「先を急ぎましょう」
佐藤の説明を遮るように、榊が冷徹な声で言った。彼は目の前の歴史的な狂気など全く意に介する様子もなく、紅い光に裂かれた右腕の傷と、自身の血で汚れたシャツの袖口を忌々しげに一瞥すると、巨大な石階段をスタスタと登り始める。佐藤と立花も、慌ててその後を追った。
最後尾を歩いていた高瀬が、遅れて一段目の石段に足をかけようとした、その時だった。
不意に、階段の脇にある石柱の濃い影の中から伸びてきた手が、高瀬の口を背後から力強く塞いだ。
「んっ……!?」
悲鳴を上げる間もなかった。首に腕を回され、強烈な力でそのまま神殿の暗がりへと引きずり込まれる。紅い光の巨人に追いつかれたのかと、高瀬の心臓が恐怖で激しく跳ねた。
だが、必死で抵抗しようと身を捩る高瀬の耳元で、その男は低く囁いた。
「騒ぐな。落ち着け、俺は刑事だ」
神殿の薄暗がりの中、拘束が緩んだ隙に振り返った高瀬は、その男の顔を見て息を呑んだ。
名乗られるまでもない。忘れるはずがなかった。
その顔を認識した瞬間、高瀬の網膜の裏側に、三年前のあの凄惨な光景がフラッシュバックする。熱い怒りと、どうしようもない涙が、胸の奥からどろりと込み上げてきた。
男の名は緒方。高瀬の妻、真由美が殺害された事件の担当刑事だった。
――およそ三年前。
結婚二年目を迎えていた高瀬恒一は、いつものように玄関で真由美に見送られて出社した。
『私、今日夕方買い物行ってくるから。あなたの好きなハンバーグ作って待ってるわね』
その言葉が嬉しくて、その日の高瀬は今の荒んだ働きぶりとは天地の差で、逃げるように職場を後にして急いで帰宅した。
夕方、十八時頃。
玄関の扉は完全に閉まっておらず、少しだけ隙間が空いていた。中に入ると、生活の明かりはどこにも灯っていない。
『まゆみー?』
何かサプライズでも企んでいるのかと、高瀬は声高らかに靴を脱いだ。リビングへ向かおうと廊下へ足を踏み出し、階段の手前まで来た時だった。
――ヌチャ。
靴下越しに、なんとも冷たくて気持ちの悪い感触がまとわりついた。
ふと足元に目をやると、無造作に転がったスーパーの袋から、玉ねぎとひき肉のパックが散乱しているのが見えた。
高瀬は咄嗟に、横にあった壁のスイッチを叩いた。
パッと照らし出された廊下。足元の違和感の正体は、大量の血痕だった。そのべっとりとした赤黒い染みは、階段の上の方まで点々と続いている。
『真由美ッ!!』
高瀬は声を荒らげ、階段を駆け上がった。
二階の寝室に広がっていたのは、言葉を失うほどの酷い惨劇だった。
衣服を剥ぎ取られ、裸のまま仰向けで横たわる真由美が、血の海の中で完全に息絶えていた。
藁をも掴む思いで救急車を呼んだが、救急隊や警察が到着した頃には、もう全てが手遅れだった。
『もう少し早く帰れていれば……いや、今日仕事を休んでいれば……』
高瀬の頭の中を、無意味で残酷な後悔ばかりが堂々巡りした。
翌日。警察に事情聴取を受けた高瀬は、その場で血液検査まで求められた。
理由は無情だった。夫であり第一発見者である高瀬自身が、最も疑わしい容疑者として扱われていたのだ。
そして、担当刑事から告げられた真実は、高瀬の精神を完全に破壊した。真由美の遺体は、死後に犯人によって陵辱されており、体内から精液が検出されたというのだ。
その悍ましい事実を聞かされた瞬間、高瀬は怒りと絶望で視界が明滅し、ろくに食事も摂っていなかった胃袋から激しく嘔吐した。
『……すみません、一応ご主人様にはご報告しておいた方が良いと思いまして』
後日、そう言って頭を下げたのは、目の前にいる緒方だった。
『DNA鑑定の結果、ご主人様のものとは別人のものでした』
当たり前の事実に、高瀬は膝の上でギリッと拳を握りしめたが、怒りをぶつける先もなく、ただゆっくりと手のひらを撫で下ろすことしかできなかった。
――その、絶望のどん底にいた日から、時計の針が現在へと乱暴に引き戻される。
「高瀬さん……奥さんのこと、お悔やみ申し上げます」
薄暗がりの中、緒方が静かに口を開いた。
その言葉に、高瀬は奥歯を噛み締め、低く震える声で吐き捨てた。
「……お前らはいつだってそうだ。お悔やみだの、申し訳ありませんだので済まそうとする」
高瀬の怒りを正面から受け止め、緒方は深く顔を歪ませた。
「いえ……本当に、頭が上がりません。ですが高瀬さん、聞いてください。俺は今、その犯人を追ってましてね」
「……何?」
予想外の言葉に、高瀬が顔を上げた。
「あの『榊』という男。彼と一緒にいましたね」
緒方は、階段の上へと消えていった榊たちの足音を気にしながら、切迫した声で言った。
「こういう状況なので、はっきりお伝えします。彼が、奥さんの事件の第一容疑者です。……高瀬さん、どうかお気をつけください」
「……高瀬さん。こんなところで何を?」
石階段の上から、冷え切った声が降ってきた。
榊が、高瀬が遅れていることに気づき、数段だけ階段を降りてきていた。その鋭い視線が、物陰で高瀬と対峙している緒方の姿を捉える。
「誰ですか? その人」
高瀬は喉の奥に詰まった心臓を飲み込み、努めて冷静な声を絞り出した。
「……緒方という方らしいです。最近この世界に来て遭難していたところ、僕らを見かけて、声をかけてくれたみたいで」
榊は無言で数歩歩み寄り、緒方の姿を検分するように見つめた。
その時、榊の目は見逃さなかった。緒方の胸元の内ポケットから、無造作に、しかし隠しきれずに覗いている警察手帳の端を。その瞬間、榊の脳裏に、オアシス付近の丘の上で感じたあの「不快な視線」が重なった。
「ほぅ」
榊は短く一言だけ漏らすと、口元に薄く、意味深な笑みを刻んだ。それ以上は何も追及せず、神殿の奥を指差す。
「とりあえず、中に入りましょう。外で紅い光に焼かれるよりはマシでしょうから」
一行は、異様な重圧を放つ神殿の内部へと足を踏み入れた。
そこには、博物館に並ぶ考古学的遺物のような、土や大理石でできた無数の彫像が立ち並んでいた。ローマの神々、インドの憤怒相、あるいは正体不明の土着の偶像。それらが無秩序に配置された空間は、何を示しているのかも分からず、ただ見る者の精神を摩耗させる。
ホールの中心には、青白く濁った水が湧き出す、小さな手水鉢のような噴水があった。
「これ、オアシスの水と一緒。飲めるわよ」
先に着いていた立花が、退屈そうに指差した。
極限の空腹と渇きの中、精神力だけでここまで辿り着いたのであろう緒方は、迷わず湧き出る水に口をつけた。
勢いよく飲み干すと、彼はその場に力なく横たわり、顔をしかめた。
「……まずい。けど美味い、いや、やっぱりまずいな。この鉄の味はどうにも合わん」
高瀬は「そうですよね」という無言の共感を込めた眼差しを緒方に送り、自身も一口だけ水を口に含んだ。
立花は壁側の大理石に腰掛け、虚空を見つめながらおもむろに話し始めた。
「この場所、最初に見つけたのはあの先生なの。いつからかは知らないけど、先生は奥さんと考古学の研究をしてたんですって。……強盗に入られた時にね、揉み合いになって、息子を事故で刺殺してしまったのよ。それを取り返したい、なんて……でも理論と現実は違う。ここは無慈悲な生命の循環が行われてるだけの場所。息子なんて、どこにもいやしない」
彼女は嘲笑うように鼻を鳴らした。
「まぁ、私はそんなお伽話信じてないし。何なら、ここは地獄だと思ってるのよ」
そう言って、彼女はポケットから最後の一本となったタバコを取り出し、火をつけた。
「タバコだってこれでおしまい。笑っちゃうわよね」
高瀬はその言葉を素通りできず、疑問をぶつけた。
「……気味の悪い場所なのは確かですが、なぜそこまで言い切れるんですか。ここが地獄だって」
立花は深く煙を吸い込み、天井に向けて紫煙を吐き出した。
「だって、あの村で食われた先生も、息子を殺した人だったんでしょ? ……あの龍崎だって言ってたわよ。昔オヤジ狩りで人を殺しちまった、なんて笑いながらね。……私だってそう。向こうじゃ結構な金持ちなのよ? 保険金目当てで何人か片付けたわ。まだバレてないけどね」
彼女の告白には、罪悪感の欠片もなかった。
「あとあそこの佐藤くん? 彼も今は大学生で澄ましてるけど、小中高とイジメで三人も自殺に追い込んだってさ。ここにいるのは、みんな揃いも揃って極悪人ってわけ」
立花は、高瀬の左手の薬指に光る指輪を、下世話な勘繰りを含んだ意地悪な眼差しで小馬鹿にするように見つめた。
「そういうアンタもさ、いっちょ前に未練がましく結婚指輪なんかしてるけど。……本当は奥さんか子供あたり、自分の手で殺しちゃったクチなんじゃないの? ここにいるってことは、そういうことでしょ?」
「……っ!」
図星を突かれたわけではない。だが、下世話な当てずっぽうから飛び出した『妻を殺した』という言葉が、鋭利な刃となって高瀬の胸を抉った。
激しい動悸と屈辱、そしてやり場のない悲しみに呼吸が乱れる高瀬の肩を、緒方が強く支えた。
「その辺にしておけ」
緒方は低く制止し、右手で腰のあたりを探った。手錠――。だが、今の自分たちの状況と数的不利を考え、それが無謀であることに即座に気づき、動きを止めた。
その異様なやり取りの光景を、榊は佐藤とこの先の移動ルートについて話し合いながら、まるで見世物でも眺めるかのように、呆然と、しかし冷徹な瞳で見届けていた。




