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『断絶のプラットホーム 〜遮断機の向こう側〜』  作者: ユタカ
『断絶のプラットホーム 〜遮断機の向こう側〜』

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3/16

湿った影の底

どれほど歩いただろうか。鉄錆と乾いた埃の匂いが消え、代わりにじっとりと肌にまとわりつくような湿気と、青臭い泥のような匂いが闇の中に混じり始めていた。

 二人は、巨大な砂の壁のような急斜面を登り切った。そこから見下ろした光景に、高瀬は息を呑んだ。

「……何だ、あれ」

 すり鉢状に深く窪んだ広大な地形の底に、鏡のように滑らかな、青白い巨大な水たまりが広がっていた。それはまるで、血の気を失った巨大な死体の肌のように、周囲の暗闇からぼんやりと不気味な光を放ちながら浮かび上がって見える。

 榊は窪地の底へは降りず、小高い丘の頂、視界がもっとも開ける岩場に留まった。彼は高瀬を見ることさえせず、ただじっと、自分たちが歩いてきた背後の闇――あの**「赤い光を放つ巨人」**が追ってきていないか、その一点だけに意識を集中させている。

「私はここから動きません。周囲を監視します」

 榊は背中を向けたまま、静かに言い放った。

「高瀬さん、あなたは一人で下まで行って、あれが飲めるかどうか確かめてきてください」

「えっ、僕が……一人でですか?」

「あのお爺さんも、あれを飲んでいたのでしょう。なら死にはしないはずです。……行ってきてください」

 この異常な世界で生き延びるためには、目の前の男の言葉に従うしかない。高瀬は怯えを押し殺し、生真面目に小さく頷くと、一人、急な砂の斜面を滑り降りていった。

 青白い水の際までたどり着き、高瀬は震える手でその液体を掬い上げる。意を決して、それを口に含む。

 ――甘い。

 暴力的なまでの甘みが広がった直後、鋭い鉄の味が舌を刺した。まるで口の中いっぱいに鮮血を含んだような、生々しく不快な金属臭。

 だが――奇妙なことに、体がそれを拒絶しなかった。

 味覚としては決してそそられない最悪の味なのに、胃の腑に落ちた途端、干からびた細胞がスポンジのようにそれを吸い上げていく。不思議と嫌な感じはせず、むしろ内側からじんわりと熱を持ち、「もっと欲しい」と本能が歓喜するような、おぞましい矛盾。

「……っ、ごふっ」

 高瀬は鉄の味に咽せながらも、体が求めるがままに、何かに急かされるように数口それを飲み込んだ。

 その直後だった。目の前の青白い水面が、こぽこぽと不気味な音を立てて泡立ち始めた。

 高瀬が息を呑んで見つめる前で、水面がゆっくりと重い渦を巻く。青白い液体はどろりと不快な粘り気を持ち、周囲の水をずるずると吸い寄せながら、中央へと高く盛り上がっていく。

 それはまるで、無数の肉片が互いを貪り食って一つに癒着していくような、悍ましい光景だった。液体の表面がひきつるように蠢き、太い四肢を捻り出し、最後にのっぺりとした不気味な頭部を形作る。

 やがて、高瀬の肩ほどもある雪のように白く柔らかな「顔のない人型」が、水面からどろりと剥がれ落ちるように立ち上がった。大人の人間に迫るほどの質量を持った無垢な異形たちは、水底から産み落とされた直後のようにのっそりと歩き出し、高瀬の靴を撫でるように通り過ぎていく。

「……っ、う、あ……!」

 高瀬は声も出せず、腰を抜かした。

 自分のすぐ傍を、音もなく通り過ぎていく白い肉塊。

「……う、っ、おえっ……!」

 高瀬はその場に膝をつき、胃の中の液体を激しく吐き出した。

 細胞の隅々まで染み渡ろうとしていたあの奇妙な充足感が、一転して悍ましい悪寒に変わる。自分がたった今飲み込んだのは、水などではない。目の前で蠢くこの化け物たちの「肉」や「体液」そのものを、直接胃の腑に流し込んでしまったのだ。

 ――今、自分の腹の奥底で、あの青白い水がゆっくりと重い「渦」を巻き始めているのではないか。

 そんな錯覚が、強烈な精神的嘔吐感を誘発した。高瀬は、内側から這い上がろうとする得体の知れない「何か」を外から必死に押さえつけるように、震える両腕で自身の胃のあたりを強く掻き抱いた。

「……これ、何なんですか、これ……!」

 高瀬が涙目で腹を抱えながら叫ぶと、いつの間にか水辺に立っていた三人の男女が、その滑稽な姿を見てくつくつと喉を鳴らして笑い出した。

「……水だよ。俺たちにとってはな」

 佐藤と名乗った先頭に立つ男は、腹を抱えて震える高瀬を見下ろし、心底愉快そうに口角を上げた。彼らもまた、もはや元の世界の倫理観などとうに失っている側の人間だった。

「そんなに悶えなくても大丈夫だ。自分の腕時計である程度日数を予測して、ノートにメモしてるが……俺たちは一ヶ月以上、これを飲んで生き延びてる。安心しろ、腹を破ってバケモンが這い出てきたりはしないよ」

 嘲笑を含んだその言葉を聞いた瞬間、高瀬の強ばっていた肩からふっと力が抜けた。

 彼らの薄気味悪い笑い声よりも、「当たり前にこれを飲んで生きている人間が他にもいる」という事実が、高瀬を急速な安堵へと導いていく。

 だが、その頃。窪地を見下ろす丘の上の榊は、背後の闇を睨み据えていた。

 あの巨人の圧倒的な気配とは違う、静かで、しかし肌を刺すような明確な視線を背中に感じ取っていた。

 視線の方角――丘のさらに上にある岩陰には、闇に溶け込むような一つの影が、こちらをじっと凝視している。

 榊は、その影に向けて薄く笑うと、ゆっくりと踵を返した。

 彼は急な砂の斜面を、高級スーツの裾に泥ひとつ跳ねさせることなく、悠然とした足取りで下っていく。その視線の先にあるのは、安堵にへたり込む高瀬と、青白い水辺に佇む三人の男女だ。

「榊さん……!」

 高瀬が振り向くよりも早く、コロン、と乾いた音を立てて高瀬の足元に一つの「器」が転がった。

 雑に削り出された、手作りの木製の器だった。

 それを見た瞬間、水辺に立つ三人の男女の表情から、すっと嘲笑の色が消えた。

 彼らの視線は地べたに座る高瀬を通り越し、足元に転がったその器と、背後に立つ榊の姿へと鋭く、探るように突き刺さっている。

 だが、榊は三人の刺すような視線など歯牙にもかけず、氷のように平坦な声で高瀬を見下ろした。

「私の分も、それで汲んできてください」

 たった今、胃の中を吐き散らしたばかりの青白い水辺に、再び手を突っ込めというのか。

 だが、その冷酷な眼差しを前に、高瀬に逆らうという選択肢はなかった。震える手で木製の器を拾い上げると、這うようにして青白い液体を掬い、榊へと差し出す。

 榊は泥に汚れた高瀬の手から器を受け取ると、一切の躊躇いなく、一気にそれを口に含んだ。一口、二口、三口。喉を鳴らして飲み干していく。

 飲み終えた榊の口端には、青白い滴が一筋垂れていた。彼の瞳に浮かんでいるのは嫌悪感などではない。

 ――恍惚。

「……悪くない。私は、好きですよ。この味」

 満ち足りたような、穏やかな声が響く。

 つい先ほどまで安堵しかけていた高瀬は、その異様な液体を美味そうに舐めとる男の横顔から、もう目を逸らすことができなかった。

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