沈黙の老人
二人は歪んだ線路の上を歩き続けた。男は名乗ることすら拒み、時折立ち止まっては、背後にいる高瀬をじっと見つめる。その視線は生存を助ける者のそれではなく、未知の検体を調べるような、冷ややかな好奇心に満ちていた。
やがて、荒野の中にコンクリートの廃墟が見えてきた。
男が重い鉄扉を開けた瞬間、奥の暗闇から、砂を噛むような声が響いた。
「……誰だ。二人か。酷く怯えた匂いと……血の匂いがするな」
老人は壁に背を預けて座り込んでいた。両目は無残に抉り取られたような傷跡で塞がっている。
「……あの、大丈夫ですか。お怪我を……」
高瀬が声をかけると、老人は部屋の隅にある濁った水の容器を抱え込むようにして、力なく答えた。
「……あぁ。私が水を汲みに行っている。ここからずっと西の方角だ。お前たちの居場所などない。早く西へ失せろ」
その言葉を聞いた男は、破れたスーツの袖口から覗く腕時計に、ふと静かに視線を落とした。高瀬には、彼がただ時間を気にしているようにしか見えなかった。
その夜、高瀬が泥のような眠りに落ちた頃。暗闇の中で低い囁きが交わされた。
高瀬は意識の混濁の中で、男が老人のすぐ側にしゃがみ込んでいる気配を感じた。
「……おい。何をしている、お前」
老人が、執拗に男を拒絶する。
「……西、ですか」
男は暗がりの中で、微かに嘲るような苦笑を漏らし、再び自分の手首――高級腕時計に視線を落とした。カチ、と金属が擦れる小さな音が響く。
「お爺さん、嘘を吐くのが下手ですね」
「……何だと。お前には関係ない。失せろ」
「この腕時計、最近買ったんですよ。高くてね。……方位磁石までついているんです」
男は、目を持たない老人の顔の前に、わざとらしくその左手首を突き出してみせた。
高瀬は薄暗い中で、その文字盤を見つめた。
精巧な機械が刻む秒針の音に混じって、文字盤の端に組み込まれた方位を示す小さな針が、特定の方向を示すことなく、まるで何かに急かされるようにひたすら狂ったようにぐるぐると回り続けていた。
「北すらとうに死んでいるこんな場所で、どうやって西の方角が分かるんですか。……あなたの言葉は、この時計より信用できない」
「……」
「聞こえんのか。さっさと出て行け、お前のような不吉な奴は……!」
盲目の老人は、突きつけられた真実を見ることができない。繰り返される「お前」という言葉が響くたび、闇の中の空気がピリピリと凝固していくのを高瀬は感じた。
「……さっきからお前お前って……うるさいんですよ」
男の声は、丁寧な口調を崩さないまま、氷のような冷たさを帯びていた。
「あと、榊です。榊勲」
榊と名乗ったその男は、そのまま老人の耳元へ顔を寄せた。高瀬の場所からは、榊の背中が影になり、何を言ったのかは全く聞こえなかった。
ただ、榊は老人の耳元で、それまでの静かな敬語を完全に脱ぎ捨て、あの駅のホームで見せた獣のように荒々しい声でこう吐き捨てていた。
(……少し静かにしてろ)
直後、衣擦れの音と、押し殺したような短い音が一度だけ響いた。高瀬は重い瞼を開けようとしたが、あまりの疲労に再び意識を失った。
翌朝、高瀬が目を覚ますと、老人は昨夜と同じ姿勢のまま、動かずに座っていた。
「あの……おじいさん?」
声をかけたが、返事はない。
「お爺さんですか? ええ……眠いから寝る、後で来いと目を瞑っていましたよ。放っておきましょう」
榊は扉の隙間から外を伺いながら、何事もなかったかのように淡々と言った。
「そう、なんですね。……じゃあ、おじいさん。ありがとうございました。また、あとで」
高瀬は動かない老人の背中に小さく声をかけ、榊の後を追った。
廃墟を離れ、しばらく歩いた頃。小高い丘の途中で榊が不意に足を止めた。
「……榊さん? どうしたんですか」
榊は答えず、じっと前方の一点を見つめていた。その左手首では、小さな針が未だに狂ったように回り続けている。
だが、彼の視線の先、暗闇の底には、あの不気味な「赤」とは違う、極めて微かな人工的な白い光が瞬いていた。さらにその周囲には、風もないのに、重く湿った「何か」がざわざわと植物のように呼吸しながら波打っている。
「……行くぞ」
榊は、老人が言っていた「西」とは全く違う方角へ歩き出した。
「えっ、あ、待ってください! こっちで合ってるんですか?」
高瀬は、何が見えているのかも分からぬまま、必死に足を動かした。




