未完の終止符
電車のドアが閉まる直前の、あの不快な警告音。それが、高瀬にとっての日常の最後に聞いた音だった。
三年前、ある日突然、最愛の妻を理不尽な形で喪ってから、高瀬の時計は止まったままだった。毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗り、くたびれた安物のスーツに袖を通す。それは「生きている」というより、死に損なっている自分を隠すための、ただの習慣に過ぎない。
ふと、視界の端が揺れた。強烈な立ちくらみに、高瀬は一度だけ目を閉じた。
――音が、消えた。
次に目を開けたとき、世界は一変していた。
眩い蛍光灯も、人の熱気も、スマートフォンの光さえも消滅していた。足元には、数秒前まで存在したはずの点字ブロックが粉々に砕けて散らばっている。線路の先は、墨をぶちまけたような濃い暗闇に飲み込まれていた。肌を刺すような冷気と、鼻を突く鉄錆の匂いだけがそこにあった。
その静寂を破り、闇の奥から「それ」が姿を現した。
身長は2メートルをゆうに超え、肌は抜けるように白い。大理石の彫刻のように滑らかな、白磁の巨躯を持つ人型。だが、その頭部にはあるべきはずの「顔」がなく、底の見えない空洞がぽっかりと開いている。その奥底で、心臓のように赤く光る一点が、静かに明滅していた。
高瀬は声も出せず、震える膝をついた。白い巨躯が音もなく近づき、高瀬の肩を両手で包み込むように掴んだ。
殺される。そう確信して目を閉じた高瀬の肩に触れたのは、予想だにしない感触だった。
その掌は、驚くほど柔らかく、温かかった。三年前、最後に触れた妻の温もりを思い出し、高瀬は抵抗する気力さえ失った。
白き異形は、抵抗できない高瀬をゆっくりと自分の方へ引き寄せた。顔の空洞が大きく広がり、その奥にある赤い光が、高瀬の視界を塗りつぶしていく。
「……チッ、またお前かよ」
暗闇から、湿り気を帯びた、酷く荒々しい声が響いた。
直後、空洞に吸い込まれかけていた高瀬の襟首が力任せに掴まれ、乱暴に後方へ引き抜かれた。
「……う、あがっ!」
冷たいコンクリートに背中から叩きつけられた高瀬の視界に、一人の男の背中が割り込んできた。
自分と同じ、スーツ姿の男だ。
だが、妻を亡くして以来、ただの抜け殻として着潰してきた高瀬のヨレヨレの生地とは、何もかもが違う。男が身にまとっているのは、深い闇の中でもシワ一つ許さず、刃物のように鋭いシルエットを保った漆黒のダークスーツだった。
男は高瀬を引き飛ばした勢いで片膝をつきかけながらも、床を蹴って体勢を立て直した。その手には武器一つない。ただ、赤い光を鋭く睨み据え、いつでもその場から離脱できるように重心を落としている。激しい動きの中でも、その上質な生地は不快な音一つ立てない。
高瀬は、荒い息を吐くその男のスーツの袖が、深く切り裂かれていることに気づいた。切り口は新しく、まるで巨大な獣の針のような爪で引き裂かれたかのようだ。破れた袖口から覗く重厚な銀の高級腕時計が、狂った世界の暗闇を嘲笑うように、冷たく光っている。
男の瞳には、初見の驚きではなく、幾度目かの対峙に対する憎悪と、「正面からは決して戦わない」という冷徹な判断が浮かんでいる。この男は、すでに一度この化け物に襲われ、ギリギリのところで逃げ延びてきたのだろう。
(……この人は、この化け物を知っているのか?)
白い巨躯は、武器を持たず、ただ静かに逃走の殺気を放つ男を一度凝視した。そして、赤い光を一瞬だけ強く明滅させると、手出しは無用と判断したのか、獲物を諦めて闇の中へと消えていった。
男は巨躯が消えた闇をしばらく見据えていたが、やがて乱れた呼吸を整え、ゆっくりとこちらを振り返った。そして、氷のように平坦な敬語で高瀬に声をかけた。
「……生きる気があるなら、付いてきてください。あなたには、確かめなければならないことがある」
今しがたの獣のような荒々しさは完全に霧散し、ひどく丁寧で事務的な口調に戻っている。その急激な温度差と、得体の知れない高級感に、高瀬は言いようのない恐怖を感じた。言葉の意味も、相手の素性すらも分からぬまま、高瀬は泥に汚れたバッグを握りしめ、縋り付くようにその男の後に続いた。




