リリの見送り
「この者を踊り子として雇う事にした」
「かしこまりました」
たったそれだけの会話だったというのに、その上級使用人の男性は、バラの命じている事が何か、大体理解した様子であった。
というのも、彼はどこかに行こうとするバラに頭を下げて、お見送りなのか、そういう体勢になって、バラが去って行くのを見守ろうとしたのだ。
しかし、リリは彼がどこで何をして、自分はどうしたらいいのか全く理解できていない状態だったので、とっさにバラのマントの裾をひっつかんだ。
本当に無意識の行動である。ちなみにマントをつかむという足止め方法は、本番前に団長を捕まえる時によくやっていた行動である。
身に染みついた行動は、なかなか改善されないし、とっさに出てきてしまうものである、問題だが。
「!!」
いきなりマントの裾をつかんだ事に、まず、男性の上級使用人が息をのんだらしい。
だが、リリの方は右も左もわからないところで、雇い主に説明なしに放り投げ出されるのは御免被る事だったので、彼が足を止めて振り返ったのをいい事に、こう言った。
「どこに行くんですか、私を置いて! 説明してください、こちらの方はどなたで、私はあなたがここに戻ってくるまで、どういう扱いになるんですか」
「……説明していなかったか?」
「されていません!!」
リリの力強い断言に、バラはしばし黙った後に男性使用人の方を示して、こう言った。
「この男は家令のジョージ・ロッキングだ。この本宅の管理を任せている使用人だ。俺は仕事に戻らなければならないが、お前は当面の部屋でゆっくりしていてかまわない」
「いつ戻ってくるんですか」
リリからすれば、踊り子として求められていて、そして踊りをみたいと久しぶりに自分の生きがいを求められているわけで、いつ戻ってきてくれるのだろうと心から楽しみだった。
そのためその言葉はごくごく自然に、何の迷いもなく出てきたわけだが、これにジョージの方は無礼だのという事を何も言わなかった。
そして、戻ってくるのはいつになるのだと言われたバラの方も、目を瞬かせた。
「……そういう事を言ってくる女は、初めてだな」
「男も女も関係なくですよ! いつこっちに戻ってくるんですか!」
「夕食は妻ととる事になっている。もっとも、妻が了承してくれればの話だが。それが終わったら一度こちらに戻って時間を潰さなければならない。その時にでも、お前が本物だという証を見せてもらおう」
「わかりました! 入念に準備運動をして待ってますね!」
よし、今日の時点でもう踊りをみたいと言ってくれている。本当に久しぶりの舞台……一人だけに向けるものだが……にリリはにぱっと笑い、うんうんと弾むように頷き、彼のマントの裾から手を離した。
「それじゃあ、お仕事頑張ってくださいね、私はここで待ってます!」
仕事が目の前にあるのだから、その相手が戻ってくるのを待つ事なんて簡単だ。それはリリにとっては当たり前の、舞台が迫っているなら待つのは簡単だ、という感覚と同じ事だった。
その言葉に、バラは目を少し伏せて、何か考えたような顔をした後に、リリの方を見てから、ジョージの方を見やってこう言った。
「もう少し、踊りが映える見た目になっておくとなおいいだろう」
「仕事着の用意はありませんので、今日は勘弁してください。でも踊りは、バラ様の期待を裏切らないようにはします」
リリは仕事のためなら落ち着いて話す事など簡単だ。そのため、今は手元に自分が踊る踊りのために必要な仕事着がないという現実も言い切り、仕事に戻っていくバラを見送ったわけであった。
そして残されたのは、リリとジョージである。リリはジョージの方を見てから、頭を下げて
「踊り子として本日より雇われました、リリと申します。至らない部分も多くありますが、よろしくお願いいたします」
そう、丁寧に挨拶をしたのだった。少なくともお姫様の離宮の住人達と違い、主のバラが直々に雇ったとジョージの前で断言しているので、いらない苦労はしなくてすみそうだった。
ジョージはしばしリリを見つめて、自分の目を疑ったように眼鏡を外して拭いて、目をこすり、どうやってもリリがその場から消えない事を確かめて、こう言った。
「リリさんは……あの方を見ても、なんともならないのでしょうか」
「数週間ぶりに舞台を所望されているので、とてもやる気に満ちていますが」
なんともならないと聞かれたならば、緊張とやる気と喜びに満ちている。体をどうこうする接待を求められたのではなく、踊り子として正しく求められているわけだ。
これで踊り子であるという自認が強いリリが、やる気にならないわけがない。
「それだけですか」
「はい! あの、何か私は皆さんに迷惑がかかる行動や言動を?」
「……いいえ、知らないままでいる事を、あの方が望んでいらっしゃるならば、あなたに何も言う必要はありませんね。知るべきならば、あの方がご自身で伝えるでしょう」
「私は何か、バラ様に秘密をもたれていると?」
ジョージの含みのある言葉にリリは問いかけたが、家令はそれ以上の事を言わず、彼女にこう言った。
「あの方はあなたの部屋を増築する予定を立てているご様子ですが、しばらくの間生活するための部屋にご案内しなければなりませんね」
「その改築なのか増築なのかを、やめるという選択肢は」
「あの方があのように積極的な姿勢になるのも、珍しい事ですので、少し見守りたく思っております」
「うわー」
リリは思わず本音の声が漏れた。たぶんバラは仕事以外に興味のない人種だったのだろう。
しかし面白そうな踊り子の小娘が現れた事で、少し人間味が出てきたのだろう。
人間味の出てきた相手を、見守る姿勢になる関係者という者を、リリもよく知っている。朴念仁が恋を覚えた時に、皆で見守って、結ばれた時にお祝いしていたのは、楽しかった。
バラがこちらに恋愛感情だのなんだのを覚えるわけはないが、仕事人間がほかの所に目を向けたというだけで、ジョージは安心したのだろう。
そんな風に、リリは捉えたのであった。
「ジョージさん」
リリは真顔で呼びかけた。
「はい」
「このお部屋、明らかに待遇が立派すぎませんか」
「リリさんはお客様ではないので、客間にお通しする事もありません。それにこの部屋は、誰も使わないお部屋です」
「いや……誰も使わないお部屋を、こんなに今すぐ使えるように手入れしておくのが普通なんですか」
「バルトロメイ様は、こちらにリリさんを入れるようにと指示を出しておりました故」
「……あの短い会話のどこにそんな単語や命令が」
リリはそのまま連れてこられた部屋に度肝を抜いていた。というのも、その部屋はリリがお姫様の離宮で使っていた一人部屋とは世界の違う豪華な場所で、何でもそろっていて、一人部屋という単語が明らかに崩壊しそうな位に見事だったからである。
「この本宅で、今すぐにご用意が出来る女性のためのお部屋というのはここになりますので……バルトロメイ様が、リリさんに部屋を用意しろとおっしゃった時点で、リリさんをここに滞在させる事をあの方が決めたのは間違いのない事です」
「なるほど……」
バルトロメイ、つまりバラは家の管理や状態そのほかを、しっかり認識しているしっかり者の男性で、ジョージとも本宅のあれこれを共有しているために、あの会話で意思疎通が出来たという事なのだろう。
お互いによくわかっているというのは、あんな会話でも速やかに言いたい内容が伝わるという事なのだ。
たいした物である。リリは団でも言い聞かされていた報連相が、ここでも真価を発揮していたんだなと思った。
「リリさんの服などですが……それは後ほどバルトロメイ様が指示を出されるかと思います」
でしょうねえ。リリはその点に関しても納得した。雇われ踊り子は、雇い主の好みの衣装で踊るべきで、雇い主の好みとのすりあわせが必要最低限の事なのである。
彼の不在の間に、リリが誰かを通じて自分の衣類を用意する事はあり得ないのだ。
「部屋着などはこちらに入っているはずですので、ご確認の方をよろしくお願いしますね」
「はい?」
部屋着というのはある程度の大きさを調整する物なのだろうか。
普段は誰かのお下がりを着ているリリには、お金持ちの部屋着の感覚がわからなかったが、そんな物だろうと思う事にした。
「四時になったらお茶の時間になりますが、お茶の用意をいたしますか?」
「いただけるのなら」
リリは落ち着いて答えた物の、お茶の時間と聞いて心は躍った。団では練習をし続けていると、お茶の時間になって、お茶の時間だと仲間が呼んだりしてくれて、皆で干しぶどう入りのパンを食べてお茶を飲んで、わいわいがやがやとおしゃべりをするのを聞いていたのだ。
リリは会話のネタがない方だったため、大体聞き役だったが、皆とのそれが好きだった。
そのためお茶の時間にはいい感情があり、用意してもらえるなら喜んで、というわけであった。
「ではそのように手配させていただきます。何かございましたら、こちらの呼び鈴を鳴らしてお呼びください。誰か来られる者が来ますので」
「はい。いろいろありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。リリさんのおかげで、あの方にもようやく……」
ようやくなんなのだろう。暇つぶしの趣味が出来そうだとか、そういう話だろうか。
確かに観劇や踊りを鑑賞するのは、悪い趣味ではない。女優や踊り子に貢ぎすぎると、悪い趣味と言われる事もあるが、観劇も舞台鑑賞も、恥ずかしくない趣味である。
あの人本当に、趣味の一つもない様な仕事漬け人間だったんだろうな。
リリはそんな風に捉えて、ジョージが去って行った後に、まずは準備運動だと、広い部屋で身体をほぐして、激しい踊りにもついて行けるように、体を戻し始めたのだった。




