リリの名乗り
「お前の姓を聞いていなかったが、何という名前だ? 踊り子」
「リリ」
リリは細切れ肉を口の中に適量入れて咀嚼し、飲み込んだ後にそう答えた。口の中に何か入っている状態で、喋ってはいけない。それは基本中の基本の所作である。
団長は、意外とそういった所作には厳しかった。どうして厳しいのかはわからなかったが、とにかく、踊り子や歌姫や、人目に触れる団員には、とにかくそういったみっともない、といわれがちな所作をとらないように、きつく言って聞かせる人間だった。
多分それは、金のやりとりが発生する団員の所作が悪ければ、それ以降の収入が減るという観点からの注意だったのだろう。
と、リリは今ではわかっている。
団長は、団員の価値を無駄に下げないように、色々気遣ってくれていたわけである。
自分の団の人間だからと言う以上に、その先の生活に役立つあれこれを、団長は惜しみなく団員達に教えていたとも言えた。
「リリ? それ以外にないのか」
「ありません。もっと長い名前があるとも聞いていないですし、うちの団の人の名前って大体、団長が適当に短くわかりやすくをモットーにつけていたので、こんな物ですよ」
「ほかの団員達は?」
「親からもらった名前がない子達は、そうですね、マックとか、ジョンとか、エラとか、とにかく団長が呼びかけてわかりやすいの、という扱いでした」
「同じ名前が被った時はどうするんだ」
「小マックとか。大マックとか」
「……名前というのも何か違ってきていないか」
「私も、リリっていう占い師のばあちゃんがいた頃は、ちびリリでした」
バラはしばし黙った。思わぬ考え方で呼び分けられていたからであろう。
リリにとっては普通の事でも、他の人からしてみれば普通ではない、なんて話はありふれている。
リリは彼が黙っている間に、パンを一つ籠からとると、それを二つに割って、バターをたっぷりと塗りたくった。しかし、この茶色いバターは、お乳の味がしないのだが、油を感じる。何なのだろう。
粘度は暖かいところに置いたバターのような感じだが、黄色いバターとはえらい違いがある。
しかし、毒を盛られているわけでもないリリは、それを気にしないで塗りたくる。遠慮は無用だ。食事に誘ってきたのはバラの側であり、リリは招かれた側なので、リリが遠慮しいしいご飯を食べる選択肢は、今のところリリにはなかった。
招かれた時にご飯を残す。それは招いた側のご飯がまずかったという事を暗に語る、失礼な振る舞いと団長から聞いているので、残す事はしない。
だが。
リリはパンを咀嚼しながら、意外だな、と思っていた。
このパン、白いパンじゃないのだ。普通の観点で言うと、パンは白い方が特権階級の食べ物と言われている。茶色いパンは二級品。黒いパンは三級品。
そのため、お金持ちはめったな事では、自分の食卓のパンを茶色くしないものなのだ。
だが、バラの前に用意されたお昼ご飯は、茶色どころか黒いパンで、そして食感からも、ふわふわになる小麦よりも、そのほかの麦や雑穀や豆を粉にして混ぜた割合の方が大きいと、リリでもわかった。
食べ慣れた味でもあるし、リリは食べられれば不満を言わない方なので、何も聞いたりしないのだが、室内の調度品などは、リリの審美眼などないに等しい目でも、立派だとわかる分不思議だった。
この立派な調度品の持ち主が、こんな粗末……というのか、何というかなパンを食べている事が。
スープというよりもどろりとした煮込みは、これも肉を食べられる庶民の食べ物とそっくりで、お貴族様はかたまり肉を食すると聞くリリは、これもちょっと不思議だった。
だがじっくり煮込まれた細切れ肉も、野菜の味がたっぷりしていて甘くておいしい煮込みも、大歓迎の味なので、何も文句はない。おいしいしちゃんとお肉もお野菜も食べられる、万歳。
「……踊り子、お前は本当に贅沢な暮らしと縁のない団だったのだな」
「答えに困る問いかけですね。うちの団は、腕のいい歌姫も踊り子もいましたけれど、規模は中規模でしたし、団長はお人好しで、広く芸を人々に見せたいって言う考えの団員を集めていたんです。だから、料金は……多分同じ規模の団の中でだったら、国一番の安さでした」
「経営がよく回ったな」
「だから歌姫も踊り子も、納得している人はお客をとる事をしました。団長が結構予約とかいろんな事を処理してくれていたので、体調が悪い時はやらなくてよかったですし」
「お前も客を取る側だったのか?」
「ご想像にお任せいたします」
リリはパンにまた手を伸ばす。この豆の粉入りのパン、やけにおいしい。リリの知っている豆の粉入りのパンとは歯切れの良さもしっとりとした食感も大違いだ。上等の豆粉入りパンである。
お金持ちだから、材料も格の高い物を使っているのかもしれない。
「それが好きか」
「おいしいです。豆の粉が四割入っていて、これだけおいしいのはめったにないです」
「食べて比率がわかるというのか?」
「どれだけさみしいパンを食べてきたかの経験が、物を言っている感じです」
そう言って食べ終えたリリは、ナプキンで口や手を拭った。こう言った所作も団長のしつけである。
「……もうけの少ない団でも、それだけ所作を学ばせるとは、意識の高い団長だったのだな」
リリの事を見て、バラは感心したようにそう言ったのだった。
そして続ける。
「俺の食事は大体において、この程度だが、お前はこれをどう思う」
「お腹いっぱい食べられて素敵ですね! それに、考えている以上に手間がかかっている、実は贅沢仕様だと」
「どこからそう思った?」
「お肉は筋だけじゃないみたいですし、パンの材料も上等な物を使ってる感じがしますし、煮込みのお野菜だって、いい物煮込んでますよね。おいしい時期のお野菜を使ってて、少なくとも筋張った薹のたった物でもないって事は、いい材料というわけで」
「なるほど」
「塩も味がつくくらいしっかり振られているというのは、贅沢ですよ。だって塩って、意外とお値段がするって団長が言ってました」
「お前は物をよく見ているし、よく考えて察しているのだな」
バラがリリを感心したように表したので、リリは胸を張った。
「意外と考えてるんですよ!」
「わかったわかった。さて、お前をこれから踊り子として雇うわけだ。お前は自分に金貨何枚の価値があると思っている?」
「いきなり金貨! いやいや、踊りを見ていないのにそんな所から始まるなんて、変じゃないですか」
「お前はそれだけの価値がありそうだからな。で、月に何枚の金貨がほしい」
「……」
しっかりとお給金の話題になった事で、踊り子は結構戸惑った。というのもそういった交渉は団長の仕事で、リリに決定権があった事など一度もないのだ。
それなのに、自分の値段を自分で決めろと言われても、リリは相場がわからない。
彼女は考えた。そもそも金貨というのは銅貨何枚分に値するのだ。この隣国の通貨の常識がわからない。
これが故郷だったらすぐに、金貨一枚で銅貨何枚分か、そらんじられるのに。
「……私、この国の金貨の相場を知らないんです」
「雇われていたといっていたのにか」
「所属していた団の団長に、そういった話が回されて、私は着の身着のままで、この国まで来たんです。多分団には、私一人分の値段を、しっかり支払ったと思ってますが」
「なるほど。身売りか」
「ありがちな話でしょう」
「確かにありがちだな」
バラが納得する様に頷く。旅の踊り子の、ありふれた身の上話の一つだろう事は、ちゃんとわかっているのだ。
ただ、国を渡る事になるところが、普通よりちょっと珍しい程度だろう。
「騎士は一ヶ月あたりに金貨を二十枚支給される。ならばお前もそれくらいという事にしておこう」
「ええっ!!」
「何だ、足りないか」
「違う! 絶対違う! 騎士様と同等のお給金って高すぎませんか!!!」
リリはさすがに叫んだ。思ったよりも大きな声が出たほどに驚いたのだ。
騎士は準貴族である。貴族は職を持たないからこそ貴族と言われるのだが、その次に階級的に高いのが騎士であるのが、大陸の一般常識だ。
貴族よりは下に見られても、平民よりも大商人よりも、騎士は格上の存在なのだ。
その彼らと同じだけのお給金と言われて、目が飛び出そうになるのは反応としておかしくはない。
この人は一体何を非常識なまでの事を言うのだ。
口をあんぐりと開けて固まったリリに、バラがあっさりと言う。
「この状態の俺と食事をともに出来る人間は、ありふれていないからな。その希少性を考慮した結果だ。俺は腫れ物扱いで食事をする事にもう、うんざりしているからな」
「……その状態とは?」
「見ていて何もわからないのか?」
「入れ墨がぴかぴか青く光ってて目立ちますね! 位しかわかりません。だってバラ様、とても穏やかにおしゃべりしていらっしゃるから」
「そういう所だ。誰も俺の印が青く光っている時に、こうして近くに寄ってこない。俺をいつ爆発するかわからない火薬庫扱いだ。そんな扱いをしないお前に、価値を見いだしただけの事でもある」
「……バラ様がそれだけ支払うお気持ちがあるなら、もう私は否定しませんよ。なんかよくわかってませんけど」
「そういう素直な所を褒めてやろう。相手が自分を高く見積もっている時は、自分をここぞとばかりに高く売った方がいいぞ。利益になる」
「はい」
リリが言われた中身もそうだよな、と頷くと、バラはさらに爆弾のようにこう言い放った。
「お前に本宅の居室を一つ用意させよう。……いや、本宅にお前に良さそうな居室は今ないのだから……改築させるか」
お金持ちって考えがすごい規模だ。
リリはもう、相手の感覚について行けなくなりつつ、寝るところが確保できればそれでもういいや、と困る事すら放棄したのであった。




