リリの脱走、のち。
思い切り珍しい通路だ。しっかりと石組みが組まれている通路は、明らかにしっかりと人が手を加えて作った通路である。
そこを、片手を当てながら進むリリは、なかなか無鉄砲と言ってよかったが、彼女は今普段めったに抱かないほど怒りを抱いていたので、それを燃料に突き進んでいた。
踊り子を、娼婦として扱うのはさすがに専門違いなのだ。
確かに踊り子にはそういった側面があるのは、否めない。現実だ。
だが、踊り子は踊る事が本職であり、娼婦のような事は、お金がないから仕方がなく、というやつなのだ。
お金が十分にある団の踊り子は、そういった事をしなくったっていいのを、リリは知っている。
逆に、そう言った事をさせない分、希少価値の高い憧れの存在という者に格上げされる踊り子だっているのを、リリは団長の昔話から知っていた。
団長が知っている大きな団には、神話の乙女のような神秘性を持った踊り子がいて、彼女は絶対にお客をとらない事で有名だったそうだ。
お金がある団だと、そういうわがままが許されるわけである。
だから、経営のために、そこに所属する踊り子や歌姫が、自分でそれを受け入れてお客をとるなら、それはリリだって腹の立つ話にならない。
だが、体を売る事だけを必要とされて、踊り子という職業を軽んじるのは、リリにとっては腹の立つ事でしかなかったのだ。
そういう事がしたいなら、その本職を連れてきた方が、後腐れもないし、相手だって不愉快になる事にもならない。
だいたい、そう言った事をさせたいなら、そういった仕事を初めて行う生娘の踊り子を、買わなくったってよかったはずなのである。
「ああ、いらいらする! そういうのはそう言うの! 餅は餅屋! 踊り子を娼婦さんと勘違いしてんじゃないよ!! ちっぽけだけど私だって矜持があるの! そう言うのを求めて、あんな扱いされるなんて、まっぴらごめん! 外で極貧生活した方が心は自由!」
リリは大声で文句を言いながら進んでいた。その声はわんわんと反響している。
そうして、どれくらいか、体感では一時間も進んでいるうちに、リリは地上に出るのだろう梯子を、発見した。
ここまで分かれ道の一つもない、一本道である。
そのため彼女は、梯子を登り、ぐっと頭上の扉を力一杯押して持ち上げて、地上に出てきたのであった。
出てきた地上は、どこかの庭先で、手入れのされたあれこれのある場所だった。
「どこだろう、ここは……?」
てっきりもっとみすぼらしい場所に出ると思ったのに、思ったよりもしっかりした設備の置かれている場所に出てしまったリリは、あたりを見回した。
だが、この場所の特定は土地勘も場所の知識もないためできず、少し休憩しようとリリはそこに座り込んだ。
「……立派な中庭。つまりどこかの建物の真ん中。……お姫様の離宮からどこかの建物につながっているって、脱走はどういう条件なんだろう」
中庭がある形式の建物という事は、一番簡単に考えれば、ロの字型の建造物という事である。
「中庭から外の道だかどこかに逃げるには、建物の中に入らなくちゃいけなくて……それって明らかに私が不審者になって……」
どのみち突如中庭に現れているため不審者だ。だが、騒ぎをむやみに大きくすると、外に出る事も一層難しい。
「……どうするかな…………あ!」
リリは周囲を見回し、見回し……、中庭から見えた建物のベランダに、誰か使用人のお仕着せの制服が干されているのを発見した。
そして、あまり褒められた行動ではないものの、そのベランダから制服をひったくろうと腕を伸ばした。
そんな時だった。
「誰だ?」
低い声がしたと思ったら、視界が二転三転し、彼女は誰かに放り投げられて転がされた事実に気がついた。
気づいたその瞬間に、受け身をとり、踊り子のみの軽さと柔軟性で、くるくる回転し、勢いを殺して、壁に激突する未来だけは防いだ。
「……驚いたな、あの状況で受け身がとれる程度の能力とは」
「……えっと、その……」
リリはその瞬間に、相手が自分を簡単に放り投げられる程度の身体能力で、喧嘩をしても十割勝ち目がないと判断し、その場に滑り込むように額ずき、大声で言った。
「見逃してください!! 雇い先をなくした踊り子なんです!! 制服があればご飯には困らないと思ったんです!!」
嘘八百だ。リリはこういった時に口が回った方が勝ちだと、口八丁の団長の姿勢から知っていた。
微妙に真実を、迫真の演技に混ぜ込むと、信じてもらいやすいとも知っていた。
額ずき微動だにしないリリを、相手は見下ろした気配である。
そして、動いた気配がしたと思うと、相手がリリの貧相なチュニックの襟首をつかみ、彼女の顔を持ち上げさせた。
「驚いたな。この状態の俺を見ても懇願できる肝の太さとは」
「忍び込んですみません!! 今日だって一回もご飯を食べていないんです!!」
「腹を空かした貧乏人か? それにしては頬が丸い」
「クビになったのが昨晩の事なんです! 叩き出されてさまよい続けて……その、こちらの裏口が開いていて……ふらふらと入ってしまって……」
「本当に、俺の本宅だとも知らずに入り込んできたのは確かそうだな。だがここが誰の本宅か知ったら、手練れの盗人すら一人も入らないのだが」
リリは額から冷や汗を流しながら、相手をまじまじと見つめて、心の中で逃げ道を探っていた。
相手は大変に男らしく、頼もしそうな歴戦の武人と言った顔立ちをしていて、顔にいくつもの傷が走っている人だった。
さらに、ほんのりと体に走る入れ墨のような模様が青く光っていて、ものすごく目立つ人に間違いない。こんな特徴の人がいたら、一瞬で記憶に残るに違いない。
「本当に、お許しを……!! 叩き出されて手形も何もなく……!! お見逃しいただけるなら、一週間でも二週間でも、どぶさらいでもおまるの処理でも!」
リリは必死にべらべらと喋っていた。もう必死である。相手が一ひねりでリリ程度は命を奪えるとよくわかるので、こうでもしなければ生き残れない、と団長からそういった姿勢だけは学習したリリは、あの手この手で見逃してもらおうとしていた。
そんな彼女を見て、その男性は何を思ったのか。
「気に入った。よし、踊り子と言ったな。お前は今から、俺のためだけに踊る者になれ。それくらいの娘を雇う余裕がない立場でもない」
「……へ」
傷だらけの顔に、リリにとっては妙に親しみの持てる笑みを作って、その男が言ったのである。
親しみの持てるその笑みの種類を、彼女はよく知っている。
これは、面白い生き物がやってきたぞ、十分に楽しんでやろう、と企む人間の笑顔だった。
そして、この笑みをリリに向けてきた人達は、いつだってリリが踊り子である事だけは考慮してくれる人達だったので、親しみの持てる笑みと、リリが判断しているだけでもある。
「わ、私を踊り子として雇ってくれるんですか! ここに潜り込み、あまつさえ盗みを働こうと魔が差してしまった私を!」
「この状態の俺に、そうもべらべら話す事の出来る心臓の強い娘はめったにいない。そしてこのお方は、踊り子の踊りを非常に好むのだ」
「この方?」
この方と言われても、リリは男性以外に、人そのほかを周りに見つけられなかったのであった。
「ああ、言い方がおかしかったか。俺のあがめる神が、という事だ。神は信じる者の目を通じて、世界をご覧になるのだ」
「そういう宗教的な知識は持ってないので知りませんが……あなたの目を通して、私の踊りを見る事になる神様も、喜んでいただけるように鍛練は積ませていただきます!」
「その、一気に目に炎がぎらつき出すのも珍しい。普通はこわばって動く事も出来なくなるだろうに」
「いやいや、踊りも歌も、原点は神様に捧げる祈りだと団長から教わりました! その原点に返る事に、緊張はあれども、こわばって怖くなるのは踊り子根性が足りません!」
ほっとしたため、べらべらと気の抜けた事を言い出したリリに、男は本当に面白がる顔をして、言った。
「そうか。なら今晩にでも、今の段階のお前の踊りを見させてもらおう。……朝から何も口にしていないと言ったな。ついてこい。俺の食事に付き合ってもらおう」
「ありがとうございます! あ、私はリリと申します。あなたをいかように呼ぶ事が正解ですか」
リリの問いかけに、彼はこう言った。
「バラだ」
「バラ様ですか。精一杯おつとめさせていただきます」
とりあえず、ここである程度働けば、手形を発行してもらえる可能性が見えてきたリリは、こくこくと頷いて、バラの後に続いたのだった。




