頼みごと
オリジナル版の新しい巻の公開が始まりました。
これからも書き続ける励みになりますので、ぜひこちらの作品とオリジナル版の応援もよろしくお願いします。
部屋に入ると、カエリアンはルビーの机の上にある本に目を留めた。
「何か邪魔しちゃった?」
「別に。寝台に座っていいよ」
カエリアンが腰を下ろすと、ルビーは向かい合うように椅子を動かして座り、口元に小さな笑みを浮かべて尋ねた。
「どうして会いに来たの? ふふ、私のこと考えてた?」
「まさか。実は、ちょっと助けが必要でね」
ルビーは身を乗り出して聞いた。
「助け? 傷が開いたの? 回復はどう?」
「平気だ。何の違和感もない。治してくれて、改めてありがとう……」
彼は指で頬をかきながら視線を逸らし、そのまま続けた。
「……正直、最初は君が治療師なんだと思ってたよ」
ルビーは小さく気まずそうに笑った。
「治療師?……違うけど……医術や解剖学、植物学の本はたくさん読んでるよ。実際、君が来たときも薬草の本を読んでたし」
「その辺りは詳しくないけど、僕を助けてくれたとき、初心者には見えなかった」
ルビーは肩をわずかにすくめた。
「うん、まあ、それは少しだけ慣れてるからかな。時々、客が店の子たちを乱暴に扱うことがあるから、治してあげるんだ 。ときどきは、道で傷ついた動物を拾って、良くなるまで世話することもあるし」
それから人差し指を立て、笑った。
「でも、娼館の外で人間を診たのは君が初めて。それに、戻ってきてくれたのも君が初めて……」
「……ああ、それなんだけど、ちょっと頼みがあるんだ」
***
ルビーは椅子から立ち上がり、腰に手を当てた。
「……できるけど、数日はかかるかな」
カエリアンもすぐに立ち上がる。
「ほ、本当に?」
「うん。でも、ひとつ答えてくれる?」
「……もちろん」
「どうして私に頼んだの? ほかの人じゃなくて」
彼女をまっすぐ見て答えた。
「君しか知らないし、それに、かなり上手そうだったから」
ルビーはゆっくり首を傾げ、唇を引き結んだ。カエリアンはその表情をどう受け取ればいいかわからず、一歩下がった。だがルビーはすぐに身を乗り出し、顔を近づけて真剣な顔で言った。
「嘘つき」
そう言いながらも、離れずに笑った。
「この街には仕立て屋なんていくらでもいるでしょ。誰にでも頼めたはずなのに、私のところに来た。ふふ、それってつまり、私のこと考えてたってことでしょ」
カエリアンは少し赤くなり、目をそらした。
「そんなことない。ただ、僕の服を上手く縫ってくれたのを思い出しただけだ……それだけだ」
ルビーは頬を膨らませて言った。
「はいはい。照れてるときの君、すごく可愛いね、弟くん」
「そう呼ばないでくれる?」
「ふふ、必要なものはちゃんと用意しておくよ。三、四日後にまた来て」
カエリアンはため息をついて言った。
「改めて、ありがとう」
アンバリアンが、ノックも前置きもなく部屋に入ってきた。
「Shonyu, ルビー, shimushuyu mupev」
そのまま出ていったが、ルビーはため息をついて言った。
「なんで、よりによって今なのかな」
カエリアンは後頭部に手をやった。
「え? 何て言ったのか、わからなかった」
「ああ、客が来たって言ったんだよ」
「まあ……じゃあ、そろそろ帰るよ」
その瞬間、ルビーは振り向いて、少し残念そうな表情で彼を見つめた。
「もう行くの?……もう少し話していかない?」
「……仕事しなくていいのか?」
「うん。でも、すぐ戻るよ。あんまり待たせないから。どうかな?」
カエリアンは考えた。
(ちょっと気まずいな。あまり長くここにいたくはないけど、親切に助けてくれるって言ったんだ。これくらいはしてあげないとな)
「まあ……もう少しだけ残るよ」
***
カエリアンは机の椅子に座り、どうすればいいのかわからないまま周囲を見回していた。そんな間にも、いくつもの考えが頭をよぎる。
(ルビーはいい治療師になれる素質がありそうだけど。どうして娼婦なんかやってるんだろう……)
彼は椅子にもたれ、天井を見上げた。ほかに誰もいないので、幻影を解くと、髪は再び白く戻った。
(無理やりやらされているのか? 借金でもあるとか……? いや、考えないほうがいい。僕には関係ない。それに、今はそんなことを考えるべきじゃない)
三十秒ほど経ったが、また同じ疑問が浮かんだ。
(お金のためにやってるのか? くそっ、また考えてる。頭を空っぽにするのって、すごく難しい)
数分後、ルビーが戻ってきた。
(毎回……まあ、そういうことのあとで風呂に入るみたいだ。ナエヴィアも香水は高いって言ってたし、ちゃんと稼げてるんだろう)
ルビーは手を合わせ、カエリアンを見て笑った。
「あ、まだいてくれてよかった!」
カエリアンは視線を合わせずに答えた。
「ああ、待つと言ったからな」
「……一瞬、待ってくれないかと思った」
(どうしてここで働いているのか聞くべきか? それとも、戻ってくると彼女のナリスが増えている理由を聞くべきか?)
ルビーは小さな遊びを提案した。1から10まで順番に言うが、毎回ひとつの数字が物に変わるというものだった。二人は床に座り、カエリアンは何か探し物でもあるかのようにルビーを観察しながら、その遊びに付き合った。
「一、二、三、ほうき、五、りんご、花、髪、九、十」
「カエリアン、すごく上手だね!」
彼女は人差し指を下唇に当て、目を閉じて考えた。
「ええと……じゃあ、一をアンバリアンに変えたらどうかな?」
「わかった」
数分後、ルビーは順番を思い出そうとしていた。
「……ええと……アンバリアン、熱、雷、ほうき、空、りんご……」
「間違いだ」
「えっ!? 六はりんごだったはず」
「それはそうだが、二回前の話だ」
ルビーは両手を床につき、言った。
「意地悪だよ。一度も勝たせてくれないなんて」
「君が提案したんだろ。それに、ズルをしてただろう」
ルビーはのけぞった。
「何のこと!?」
「床の木に、爪で言葉の頭文字を一つずつ刻んでたのを見たぞ」
「ふふ、それでも勝てたんだね。思った通り、君はすごく賢い子だ」
「僕はそうは思わないけど」
ルビーはまた笑った。
「もうひとつ何か遊ぶ?」
カエリアンは考えた。
(まだ子ども扱いしてくるな。でも、正直、もう前ほどは気にならない。それでも少し変な感じがする。普通の子どもを演じるのなんて、ずいぶん久しぶりだ。それに、ずっと気になってることがある)
カエリアンはルビーの目をまっすぐ見て尋ねた。
「ルビー、どうしてあの路地で僕を助けたんだ。ヴラドミスティアンだと知っていたのに」
彼女はその質問に驚いたようで、両手を合わせて膝の上に置いた。
「ラグノリスでは、君たちがあまり好かれていないのは知ってる。でも、アンバリアンだってアルケナリスのほとんどの場所で好かれてるわけじゃない。見下されたり、違う扱いを受ける気持ちはわかるよ」
「それでも、見返りなしでそんなことをするのは変だ。人はたいてい、何かをもらうか、裏に理由がないと、そういうことはしないって僕は学んだ。どうして……どうして助けたんだ?」
ルビーはゆっくり床から立ち上がった。
「本当に知りたいの?」
カエリアンも立ち上がる。
「う、うん。知りたい」
「そうね……」
膝に手を当てて笑った。
「すごく無防備に見えたから。私が助けなかったら、他の誰も助けないと思ったの」
(無防備……僕が? たぶん……その通りなんだろう。みっともなく見えたはずだ。でも……生きたいなら、変えなきゃいけない)
腰に手を当てて言った。
「でも、それじゃなぜ1エスカも取らなかったのか説明がつかないぞ」
ルビーは姿勢を戻し、答えた。
「ああ、それね。お金を取らなかったのは、すごく可愛いって思ったから」
「……可愛い!?」
「ふふ、そうだよ」
「そんなに嘘をつく必要はないだろ」
「ほんとに嘘じゃないよ!」
カエリアンは目を細めて考えた。
(それが本当の理由かはわからないけど……もっと英雄的とか、利他的な理由を期待してたのかもしれない)
(ルビーはアンバリアンだ。慈悲の女神じゃない。人間だって、利己的だったり、衝動的だったり、個人的な都合で動くことが多い。その点では、アンバリアンも人間と同じなのかもしれない)
そのときカサンドラが部屋に入ってきた。上品なドレスにヒール、高そうな飾り物を身に着け、髪型も化粧もいつもと違っていた。
「ルビー、お気に入りの耳飾りをなくしたの。ひとつ貸して」
「また? お気に入りの耳飾りって、もともと私のだったけど」
カサンドラは引き出しの中で耳飾りを探した。
「はいはい、あとで別のを買うから。大事な会合に出なきゃいけないの」
ルビーは近づいて探すのを手伝い、耳に付けるのも手伝った。
カサンドラは振り返ってカエリアンを見て言った。
「カエリアン、もう帰ったかと思ったわ。私は行かなきゃいけないけど、またすぐ来てちょうだいね。泊まりたければ、今夜はいてもいいわよ」
「え、ええ……ありがとうございます。でも大丈夫です」
カサンドラがルビーに別れを告げるとき、唇に軽く口づけをした。ほんの一秒だったが、カエリアンと遺産には永遠みたいに長く感じられた。理由も意味もわからないまま、二人とも同じことを思った。
(な、なんだあれ……!?)
それから何事もなかったように離れ、カサンドラは去った。ルビーが振り向いてカエリアンを見ると、彼の眉がこわばり、固まっているのに気づいた。
「どうかした?」
「なんで母親の口に口づけするんだ?」
ルビーはその質問に少し困惑したようで、片手を腰に当てて答えた。
「なんでって、愛してるからに決まってるでしょ」
「……」
「お母さんのこと、愛してないの?」
「そ、そういうふうには……」
「あーあ。説明するね。アンバリアンの文化では普通のことなの。キスは、相手を愛してるって伝える一番の方法なんだよ。君たちにも似た習慣があるのは知ってるけど、親を愛してるなら、どうしてキスしないのかはよくわからないんだよね」
カエリアンは考えた。
(そういえば、僕の世界でも同じ習慣の家族はいた。でも普通ではなかったし、多くの人からはよく思われていなかった。けれど、よく考えれば、口づけなんて二つの体の一部が触れているだけだ。技術的には抱きしめるのと、手をつなぐのと大差ないのかもしれない。意味を与えるのは文化なんだろう。それでも……少し変な感じだ)
ため息をついて聞いた。
「じゃあ、誰にでも口づけするのか?」
ルビーは手を振って否定した。
「もちろん違うよ。すごく個人的で親密なものだし、客にだってしないよ。そんなの、さすがにやりすぎ!」
(口づけはやりすぎで、セックスはそうでもないのか。普通は逆だろ)
カエリアンは立ち上がって寝台に腰を下ろした。
「ところで、さっきのアンバリアンが言ってたのは何だ? ええと……Shimu……yudu?」
ルビーは隣に座った。
「Shimushuyuのこと?」
「ああ、それだ。何の意味なんだ? わからなかった」
「アルケナル語じゃないからだよ。アンバリアン語なの」
カエリアンの目が見開かれ、顔に好奇心が浮かんだ。
「独自の言語があるのか? どうして?」
「実際はサンデルの変種なんだ」
「……サンデル?」
ルビーは身をかがめ、片肘を膝に乗せてじっと見つめた。
「サンデラン(Sanderan)の大部分で話されてる言葉だよ」
「馬鹿だと思ってくれて構わないけど、そこもさっぱりわからない」
「ほんとに? 学校に行ってなかったんだろうね。まあ、私も行ってないけど。でも、ルビー先生のちょっとした地理の授業くらいならできるよ」
カエリアンは背筋を伸ばした。ルビーは立ち上がって彼の前に立ち、咳払いしてから腰に手を当てて言った。
「では、カエリアンくん。まずは、ルビー先生と呼んでもらう必要があるかな」
「……それはやらない」
「もう、付き合ってよ。『ルビー先生!』って言ってほしいの」
「ルビー先生」
「もっと大きく」
カエリアンはため息をつき、顔を上げて、遊びに乗ることにした。
「はい、ルビー先生!」
ルビーは指を鳴らし、背を向けて手を上げると、純粋なナリスを放つと、それは空中に漂ったまま動かなかった。
「君が知っているのはアルケナリスだけかもしれないけど、知られている大陸はほかに三つあるんだよ」
説明しながら、ナリスは地図の形を取り、ルビーがそれを少しずつ変えていく。
「この大陸の北にはシッグルディア(Siggurdia)がある。雪だらけで、巨人族が住んでいて、竜王の住処でもある」
(リオラが一度言っていた気がする。でも、竜王のことは何も言ってなかったな)
「南にはベルニア(Bernia)がある。サファル(Safar)の故郷だよ。どんな種族なのかはよくわからないけど、この大陸ではほとんど誰も見たことがない。ただ、何百年も生きることで知られてる」
ルビーがナリスを操る腕前に、カエリアンは驚いていた。そんな使い方をしている人を見たことがなかったからだ。
「へえ……面白いな」
「ふふ、そして最後にサンデラン!私の故郷……まあ、本当は違うけど。私はここで生まれたからね。ベルニアの南西にあって、多くの種族がその大陸の出身なんだ。アンバリアンもそのひとつ」
カエリアンが手を挙げた。
「あ、あの! 質問があります、ルビー先生!」
彼女は腕を組み、目を閉じ、笑顔で答えた。
「どうぞ、カエリアンくん!」
「どうしてあそこに住んでないんだ?」
ルビーは頬をかきながら答えた。
「えっと……あそこにはちょっとした問題があってね……」
カエリアンは寝台に両腕をついて身を乗り出した。
「……サンデランは神によってかけられた呪いの下にあるんだ。昼と夜が永遠に続く大陸として知られていて、東にはずっと昼の砂漠、西にはずっと夜のツンドラがある。あんな場所じゃ、とても暮らしにくいから、ほかの大陸へ移った種族もいる。でも、その大半は他種族にあまり友好的じゃないんだ」
「……でも、面白そうな場所だな」
「でしょ!? 一度でいいから行ってみたいよ」
(ほかの言語を覚えるのも悪くない。たぶん、辞書か何か持ってるはずだ。もっと難しくなる前に、覚えられるだけ覚えておかないと)
「ルビー、サンデル語の手引きはある?」
「手引き? 覚えたいの?」
カエリアンはうなずいて立ち上がった。ルビーは指を唇に当てる。
「持ってないけど、母さんなら話せるよ。教えてもらうといい。私がやれればよかったんだけど、私、話せないんだ。ふふ、というか母さんには、私のアンバリアンは小さい子みたいだって言われるし……私も今、覚えてるところなんだ」
カエリアンは腰に手を当てた。
「……覚えておく。もう行くよ」
彼は扉へ向かったが、開ける前にルビーが先回りして開けてくれた。
「頼まれたものは、できるだけ早く用意するね。二日後に戻ってきて」
カエリアンは少しだけ笑った。
「わかった。改めてありがとう」
一歩踏み出しかけると、ルビーが言った。
「それと、いつでも会いに来ていいのを忘れないでね。いい一日を」
廊下を下りながら、彼は考えた。
(僕は普段、人と一緒にいるのが好きじゃないし、ましてやこんな場所はなおさらだ。でも、今日はかなり楽しかったと認めざるを得ないな……)




