火花
洞窟の中では、火の球がゆっくりと空気を奪っていく。それでも、その光が視界を保っていた。錨はずるずると這い寄ってくる。
「危険な戦法ね。戦闘経験もないのに、空気より先にナリスが尽きるかもしれないわ」
遺産が言った。
「膝を最初の落下で痛めた……炎を使うのは最後の手段にする。生き残ったとしても、それはそれで厄介だ」
錨は口の中に歯の列を生み出しながら接近する。
カエリアンは岩の杭を放つが、錨はそれをかわす。
「あまり多くの物質を作っていない……だからナリスはまだ十分に残っている。けど……感覚魔術の方法で土の魔術を使い続けたら、長くはもたない……」
錨が跳びかかってきたが、カエリアンは地面から岩の杭を突き上げ、錨を天井に打ちつけた。しかし錨は蔓を生み出して爆発させ、その先端をカエリアンに向かって撃ち出した。
「なっ……!?」
彼は分厚い岩の板を作り出して防ぐが、壁際まで吹き飛ばされる。
衝撃を抑えるために壁から石の支えを伸ばし、その下を這って避ける。
炎の球は半分ほどの大きさになっており、彼が立ち上がろうとすると膝の痛みで再び倒れ込む。
「……くそ……もっと酷い痛みだって我慢してきただろ……!」
彼は自分に言い聞かせる。
錨が四肢を使って杭を破壊し、地面へと降りる。その直後、無数の蔓を生み出し、カエリアンに向かって突進させた。地面の一部を砕きながら迫るそれらに対し、カエリアンは再び岩の足場を生み出して身を跳ね上げ、空中へと逃れる。
その瞬間、両側から巨大な二本の蔓がカエリアンめがけて襲いかかるが、カエリアンは天井から二本の杭を生み出してそれらを貫いた。 地面を這っていた蔓たちはすぐに進行方向を変え、今度は上空へと伸び上がる。その動きによって地面から大量の砂塵が巻き上がり、洞窟の空気を濁らせた。
「くそっ……うまくいってくれ」
カエリアンは両手を広げ、周囲にナリスを展開し始めた。空気中に漂う塵や鉱物の粒子を集め、それらを幾重にも凝縮させていく。やがて、その手の前に巨大な岩の杭が形成されるが、刃は鈍く、形もかなり歪んでいた。
「土属性の技術魔法! やっとだ!」
遺産は何も言わなかったが、その驚きが伝わってきた。
カエリアンは岩の杭を錨に向かって放つ。しかし錨は跳び上がってそれを避けるが、蔓を後退させざるを得なかった。
カエリアンは着地のために再び水の泡を生み出した。
「これでナリスの節約にはなる……けど……酸素が、もう……」
炎の球が消え、空間は完全な闇に包まれる。錨が突進してくる音が響き、カエリアンはナリスを地面へと伸ばした。まるでそのナリスが型のように、地中から鋭い岩を引き抜き、錨の足音が聞こえる方向へ次々と撃ち放つ。しかし一つも命中せず、やがて錨の気配が途絶える。
次の瞬間、目の前に着地する気配を感じたかと思うと、蔓が彼を掴み上げ、口元へと運び始めた。肺に残っていたわずかな空気が、掴まれた衝撃で一気に抜けていった。
その間、カエリアンは心の中で思った。
「……く、そ……」
彼は最後の手段として、地面から杭を生み出した。それは錨の一肢に突き刺さり、わずかに体勢を崩させる。しかし、それでも錨の口へと運ばれるのを止めるには足りなかった。
「カエリアン! 錨のナリスがもうほとんど残っていない」
遺産が言った。
その瞬間、カエリアンは錨の内部のどこかに、周囲とは異なる微かな反応を感じ取った。先ほどまで膨大なナリスに覆われて感知できなかったもの。
「核だろう!」
カエリアンはそう確信する。
彼は壁や天井の湿気を可能な限り集め、残ったナリスを注ぎ込んでそれを水へと変えた。そして下方から全力で高圧の水柱を放った。その水柱は核に正確に命中し、錨の身体を貫通して洞窟の天井に激しく衝突した。数秒で岩盤を突き破って地上へと抜け、噴水のように数メートル吹き上がった後、やがて雨となって降り注いだ。
錨はゆっくりと崩れ始め、カエリアンを地面に落とした。
彼はすぐに息を吸おうとした。
「ゴホッ、ゴホッ……」
咳き込みながら、深く息を吸い込む。視線の先で、錨の残骸が消えていくのを見つめた。
開けた穴から、内部に青と紫の雲が渦巻いているように見える球体が落ちてきた。
「それが核……いや、錨そのものだ」
遺産が言った。
カエリアンは痛みに耐えながら、核のもとへと歩み寄る。
「……こんなに小さいものが、あんな力を……?」
「君にも同じことが言える」
「これ……どうすればいい?」
「破壊することも、再び封印することも、中を確かめることもできる」
カエリアンは洞窟の入口があった方向を見やる。
「……壊す力なんてもう残ってない。外に出るのも無理だ」
彼は錨の前に腰を下ろした。
「……ずぶ濡れだし、寒い……ナリスが少しでも戻らないと、ここから出られそうにない……それに傷や打撲もある」
両膝に肘を置き、手のひらで顔を覆いながら深く息をつく。
そして、ふと何かを思いついたように姿勢を変え、シャツの襟元に手を入れる。
そこから、今は首飾りとなったナエヴィアの石を取り出した。
「遺産! 錨を……ナエヴィアの魂の器にできると思うか?」
「……器に? 理論上は可能だろうけど、前例はないね」
「じゃあ……俺は……!」
「彼女を蘇らせたい気持ちは分かる。でも錨についてはほとんど研究されていない。望む結果になるとは限らないよ」
カエリアンは息を吸い込む。
「確かめる方法は一つしかない……けど……彼女の魂で実験するなんて、俺にはできない」
「それが賢明だね」
カエリアンはナエヴィアの石を見つめた。
「ごめん、ナエヴィア……もう何年か待っててくれ」
そう言って首飾りをシャツの中にしまう。
そして、手を核の方へと伸ばした。
「核のナリスを使えば、ここから早く出られるかもしれない」
彼は石を手に取り、残ったわずかなナリスをその核へと伸ばす。
だが次の瞬間、意識が錨と繋がったような感覚に襲われ、その中に眠る“錨の記憶”を見た。
記憶の中には、細身で紫色の髪と瞳をした女が映っていた。先の尖った大きな帽子をかぶり、前に大きく開きのあるゆったりしたドレスを着ていて、長い手袋をはめ、腕と背中を通るように一枚の布が垂れていた。石には封印が刻まれていたのと同じ森の光景だ。
「……あんたを手に入れるのにどれだけ苦労したか分かってないだろ、ふん。いない間、あんたの存在がモンスターを遠ざけてくれるといいけど……念のため封印に力を与えて何年も持つようにしておくわ。戻ったらあんたを壊すわ」
場面は暗く、黒い物質が蠢く場所へと移り、それから一瞬、緑の野原と全てを消し去る光の断片が映る。
カエリアンは取り乱した状態で意識を取り戻した。
「一体なんだったんだ、あれは!!」
「錨の記憶だ……たぶんね」
遺産が言った。
「女は……リオラに似ていた」
「あの女は……いや、ランマラ・ガーミストだった……あの記憶は百年前のものかもしれない」
「百年も……そんなに長く死んでいたなんて思わなかった」
「正確な年代ははっきりしないが、どこでどう死んだかは分かっていない。だがどうやら、錨を取り出す前に姿を消したらしい」
「なんのためにあんなものを置いたんだ?」
「昔はもっと多くのモンスターがいた。臨時の防衛策として錨を残したんだと思う。モンスター自体よりも危険な措置だった」
「それが彼女の最高の防衛策だったのか? 最高だな、間違いなく」
「信じられないかもしれないが、錨の存在が炎を求める他のモンスターを遠ざけていたんだ。つまりランマラは間接的に、この長い間君がそうしたモンスターに目を付けられるのを防いでくれていたんだよ」
「じゃあこれ、護符代わりに取っておくよ」
「封印は周囲にその存在を部分的に広げていたらしく、護符としてはあまり意味がない。それに、また作動するかもしれない」
核からはかすれた声が聞こえた。
「……意……志……名……」
「名前を欲しがっているらしい」
「え、そう思うのか!? 封印に戻すなんて言ったのを取り消す。むしろ作動する前に壊したほうがいい」
「待て、錨は存在でありながら存在でないって言ったよな?」
「そうとも言えるし、違うとも言える。自分自身のナリスを使って破壊するんだ」
「考えはあるが、気に入らないだろう」
カエリアンは目を閉じ、再びナリスで錨と接続した。錨の記憶を視覚化し、それを即座に追い出す。
「なにをしているんだ!?」
遺産が叫んだ。
「……浄化しているんだ。まるでそれを真っ白なキャンバスに戻しているみたいだ」
錨は完全に空っぽになった。
「儀式や呪いの書物では、多くの呪いが“意志”に反応するって書かれている。魔術そのものもそうだ。これは……一種の術式のようなものだ。核の純粋なナリスに“生命”と“形”を与えるよう集中すれば……そうなるはずだ」
「なに? ……いや、確かにそれは魔術の基本理論の一つだ。でも君がやろうとしているのはナリスの自動人形を作るようなものだ、錨ではそれとは違う!」
遺産が言った。
「自動人形? よく分からないけど……違う。これは……見てて」
カエリアンは錨に“人の形”を与えるように集中し、まるで指示を出すかのように思念を送る。すると錨は彼の手から離れ、宙に浮かんで光を放ち始めた。やがてその光が固まり、徐々に人の姿をした輪郭を描き出していく。
「……あとは最後の仕上げだ」
彼は錨に近づき、その脚に手を触れた。内側で炎が燃え上がり、それが腕を伝って錨へと広がっていくように感じた。やがて核と結びつき、“意志”を与えた。
「今のは……」
遺産が言った。
光はゆっくりと薄れていき、地面へと降りていく。そこに現れたのはカエリアンと同じくらいの年頃の少女だった。
白い髪を持ち、地面に座ったまま自分の手を見つめ、やがて顔を上げる。
その瞳は、完全に白く染まっていた。
「白いキャンバスって言葉を、本気で受け取りすぎたかもな」
カエリアンはそう言いながら、慎重に彼女へと近づいた。
「……あな、た……わたしの……お父さん?」
少女が言った。
「ん? いや、俺は君の父親じゃない」
「……あなたは……だれ?」
「俺は……」
カエリアンは言葉を止め、すぐに目を覆った。
「ま、待て……今気づいたけど、君、裸じゃないか!」
「今さら気づいたのかい」
遺産が言った。
「いまの声……だれ?」
少女はあたりを見回した。
「な、なにを言った?」
カエリアンと遺産が同時に尋ねる。
「……だれが……しゃべったのか、聞いたの」
「私の声が聞こえるのかい?」
遺産が問う。
「うん……聞こえる」
少女が答えた。
「どうして彼女に聞こえる?」
カエリアンが尋ねると、遺産はカエリアンだけに語りかけた。
「おそらく炎の影響だ」
「え?……声はどこに行ったの?」
少女が言った。
「これをやってみて」
遺産が言った。
カエリアンは少女に近づき、そっと頭に手を置いた。彼女のナリスを感じ取ると、それを形にして白いドレスを纏わせる。
「君は彼女の形を完全に操れる。好きな姿を与えられるんだ」
少女は自分の姿を見下ろした。
「……わたしは……だれ?」
カエリアンは考える。
「そうだった、名前をつけてなかったな。何かいい名前、あるか?」
「“少女”でいいんじゃない?」
遺産が言った。
「もちろんダメだ」
「じゃあ……“錨の少女”とか?」
「君の名前は火花だ。俺が君を作った」
カエリアンが言った。
「……ヒ...バ...ナ……気に入った! あなたがわたしの創造主なら、命令して」
少女は笑顔を見せた。
カエリアンは顎に手を当てて考える。
「うーん……君には意志を与えたんだから、好きなようにしていい」
「好きなように?」
「そうだ」
「じゃあ……この洞窟から出たい」
少女は閉ざされた出口を指さした。
「俺もだ。でも、エネルギーが戻るまで出られない」
少女は出口へ歩み寄り、ナリスで作った柱を伸ばして通路を開けた。
「もう開いた!」
そう言ってにっこり笑う。
「……ずいぶん強いな」
カエリアンは思った。
「強すぎる。気をつけろ、彼女はもう普通の錨じゃない」
遺産が言った。
二人は洞窟を出た。
「やったー! 外だ!」
少女が甲高い声で言った。
「俺はすぐに家に戻らないと……君を一人にできないから、一緒に来るんだ」
「いいよ! どうせほかにすることもないし、もし許してくれるなら、主さまについていくね」
「主さまって呼ぶな」
「じゃあ……どう呼べばいいの、主さま?」
「俺の名前はカエリアンだ」
「わたしの名前は火花! でもそれはもう知ってるよね、あなたがつけてくれたんだから」
カエリアンは腕を組み、頭をかいた。
「さて……母さんになんて言えばいいんだ? 森から出てきた少女を養ってくれなんて言えないし」
火花が手を挙げた。
「ねぇねぇ! お母さんに、私があなたの従妹だって言ったらどう?」
カエリアンは吹き出した。
「はははっ、ユーモアのセンスがあるな」
「冗談で言ったわけじゃないと思うけど」
遺産が言った。
火花は首をかしげ、なぜ笑われたのか分からない様子で、少し遅れて小さく笑った。
「はは……さて、真面目に考えるか。……うーん、物に変えるってのはどうだ?」
カエリアンが言った。
「いいね! それ、いい考えだよ主さ……じゃなくて、カエリアン!」
火花が言った。
「本気か? そうしたら動けなくなるし、息もできない、見えもしない。せいぜい音が聞こえるくらいだ。死にはしないが、短時間でも精神に負担がかかる」
遺産が、火花にも聞こえるように言った。
火花は地面に倒れ込み、後ずさった。
「な、なにそれ!!? いや!! そしたらもうやりたくない!!」
「落ち着け、物にはしない……じゃあ動物にするのはどうだ?」
「動物? そ、それなら……いいかも」
「よし、選べ。狐か猫、どっちがいい?」
「……狐がいい」
「分かった、動くなよ」
カエリアンは火花に近づき、頭に手を置いた。手袋越しでも、わずかな違和感を感じたが痛みはない。火花の体が淡く光り始め、カエリアンはその姿を赤い狐へと変えた。
「キュッキュッ」
火花が鳴いた。
「ふふ、かわいいな。さあ、行こう」
カエリアンと火花は森を駆け抜けた。膝を痛めていてもカエリアンはなんとか走り、火花は先に行っては振り返り、また走る。森の中でも、彼は火花と一緒だと不思議と恐怖を感じなかった。
森の出口に着くと、カエリアンは立ち止まった。
「イレサに、なんて言うつもりだ?」
遺産が言った。
「考えてない……でも怒られるのは確実だな」
「キュッ?」
「そばにいろ、あとは俺に任せろ」
カエリアンは心の中で思った。
「どうか、まだ寝ててくれ……」
家の扉が開き、服を着たイレサが慌ただしく外に出てきた。カエリアンを見ると、すぐに駆け寄ってくる。
「カエリアン!! こんな時間にどこへ行ってたの!!」
「やばい……」
カエリアンは思った。
イレサは膝をつき、カエリアンの顔を見た。
「どこにいたの? 服がびしょ濡れじゃない!」
「お、俺は……」
「夜中に外に出るなんて、どうかしてるの!? カエリアン、いったい何考えてたのよ、くそっ! こんな時間に外に出るなんて危ないでしょ!」
イレサは彼を揺さぶりながら理由を求めた。
「イレサに怒鳴られるのは初めてだ……彼女を救った、皆を救った。でも……どうして自分はこんなに……変なんだ?」
カエリアンは思った。
イレサはカエリアンの顔の擦り傷に気づき、視線を落とし、深く息を吸ってから再び彼を見つめた。
「姿が見えなくなったとき、本当に死ぬかと思ったのよ。すぐに着替えて、皆に捜索を頼もうとしてたの」
カエリアンはうつむいたまま答えた。
「少し外の空気が吸いたくて……外に出たら、この狐を見つけたんだ。服を着て追いかけたら、途中で木の根に足を取られて膝を打って、木にぶつかって……そのとき葉の露で濡れたんだ」
カエリアンの目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい、母さん!」
彼は手の甲で涙をぬぐった。
「ぼ、僕は心配かけるつもりじゃなかった……ご、ごめんなさい」
「キュッ、キュッ」
火花が前足をカエリアンの膝に乗せた。
「君の頭の中にいなかったら、その涙は本物だと思うね」
遺産が言った。
「黙れ、集中できない」
カエリアンは心の中で答えた。
イレサはため息をつき、自分の手でカエリアンの涙をぬぐった。
「もう泣かないで。あなたが泣くなんて滅多にないもの。本当に反省してるのね……でもね、こんなことはもうしちゃだめ。危険なのよ」
カエリアンはうなずいた。
「あなたは賢すぎて、五歳ってことをつい忘れちゃう……でも、考えずに動くのは年相応かもね。さあ、早くお風呂に入りましょ」
イレサはカエリアンの手を取った。
「この狐……飼ってもいい?」
「え? 野生の動物でしょ、森にいた方がいいわ」
「お願い、火花はお利口にするよ」
「もう名前までつけたの……」
その瞬間、火花は家の中へ駆け込んだ。
「まったく……その話はあとでね」
イレサは呆れながら言った。




