(2)
アリスには、憧れている人がいた。
いや、憧れというよりも、目標だった。
いつも穏やかに笑っている、たおやかな女性。
自分に向けられる悪意や陰口など、気にもとめずに受け流していた。
あんなふうになりたい。そう夢見ていた。
でも、夢見れば夢見るほどに、わかってしまう。
アリスは、あんな女性にはなれないのだと。
自分の感情の起伏に過敏だし、他人から向けられる悪意には、さらに過敏。
嫌いなものへの反応は鋭くて、過剰に拒否反応を示してしまう。
感覚が、子ども並みなのだ。
それを隠そうにも隠しきれず、ずるずると引きずって生きてきた。
(でも、これでもう終わり……)
アリスは、チョークでリビングの床に魔法陣を描いた。
捨て去るから。
嫌いな自分をこの身からひき離して、夢に見た理想の自分になるのだ。
アリスは、魔法陣の中心に立った。
魔力を解放する。
アリスの体が、青白い光で包まれる。
左手に持っていた魔導書が、意思を持っているかのように、ひとりでに開いた。
「我に巣食いし悪しき魂……」
詠唱に、魔法陣が呼応して光を放つ。
「疾く、この身を解放せよ。我が身から離れ、天に召され、大いなる慈悲の下、魂の救済を求めよ」
詠唱が終わると、魔導書が閉じて、光がはじけた。
悪魔祓いの儀式の応用。
自分の中にある、幼い感受性を悪魔に見立て、浄化させる。
聖職者の専門分野なので、魔法理論に置き換えるのに苦労したが、正常に作動してくれた。これで安心だ。
光が治まると、床に描かれた魔法陣は消えていた。
アリスは、両手を握ったり開いたりして、体に変化が無いか、たしかめてみた。
「なにかが変わったような感じはしないけれど……」
魔法は失敗していないのだから、これで儀式は完了したはずだ。
ところが、手ごたえというものが、まるで無い。
不気味なくらいに、魔法の効力を実感することができない。
「しくしく……」
「!?」
「しくしくしく……」
暗がりから、すすり泣く声が聞こえる。
「誰!?」
アリスは周囲を警戒した。
「わたしを悪魔に見立てるなんて、ひどいよ」
「貴女は……!?」
闇が蠢き、闇が集合し、一つの形を成していく。
「わたしは、あなたなのに」
少女が持っていた魔導書が開く。
刹那、どす黒い光が立ち昇った。
※
黒い光の柱は、博麗神社からも視認することができた。
「なにが起こってるの……?」
霊夢は事態が飲み込めていなかったが、それでも、あの光の異質さを感じることはできる。
「藍。行くわよ」
「御意!」
「おい待て。どうするつもりだ」
紫と藍のまえに、魔理沙が立ちはだかった。
「ひとまずは、魔法の森を結界で囲うわ。場合によっては、森ごと封印する」
「なにっ!? あそこには、私の家もあるんだぞ!」
「魔理沙さん。そんな細かいことを気にしている状況ではありませんよ……」
紫に詰め寄っている魔理沙を、文がなだめた。
「家の中には、大事な魔導書や魔具があるんだ! 持てるだけでも持ち出させろ!」
「好きになさい。でも、ぐずぐずしていたら、結界の中に置いて行くわよ」
紫は、魔理沙の返事を待たずに飛び立った。
慌てて箒にまたがった魔理沙は、紫と藍を追い越していった。
「大事な……って」
事態が急展開だったせいで、霊夢は魔理沙にツッコミを入れ損ねた。
大事だとか言うわりには、魔導書も魔具も、雑に保管しているくせに。
「あれじゃないですか? 奥さんが離婚を申し出てきて初めて、妻の大事さに気づかされた旦那。みたいな」
「あー、なるほど。……って、あんたはずいぶんと落ち着いてるわね」
いつもどおりにあっけらかんとしている文に、霊夢は、半分感心して、半分呆れた。
なんせ、カメラを構えて、魔法の森を撮影しているのだから。
事態がどう動くかわからないというのに、呑気なものである。
「これでも、霊夢さんよりは長生きしてますからねぇ。いろんなことを見聞きしてきましたから、少しくらいのことじゃ、動じませんよ」
「じゃあ聞くけど、これまで、あんな光を見たことはあるの?」
「無いですねぇ。新聞のネタになるものは無いかと気ままに飛んでいたら、いきなり目に入ってきたので驚きました」
とか言いつつ、ちっとも驚いているようには見えない。
「あの子たちは、どうしたの?」
二体の人形が、拝殿の階段に座っている。
上海と、蓬莱だ。
アリスが、大切な友人のように接しているのを目の当たりにしたせいだろうか。無機物の人形なのに、あの子たち、なんて、人間みたいな呼びかたをしてしまった。
「あの光から逃げるように、森から飛び出て来たんですよ。それで、事件が起きてるなんて言うもんですから、急いで大天狗様と紫さんに通報した次第です」
「人形が、勝手に動いてしゃべったってこと?」
「勝手に動いたかは知りません。誰かから命令を受けたのか、はたまた、別の力が働いたのか……。あと、人形たちはしゃべっていないですよ。表情から、そう汲み取っただけです」
「表情ったって……」
上海と蓬莱は、アリスによって作られたそのときから、表情を変えることは無い。だって、人形なのだから。
「万物には神が宿るって言うじゃありませんか。素材となる思念さえあれば、どんなものでも形を成せます。妖怪だってそうでしょう」
その思念が善いものであれば、善き神や善き妖怪が生まれ、悪しきものであれば、悪しき神や妖怪が生まれる。
それが、旧き世界の理。
外の世界では、すっかりすたれてしまった理。
「そういう意味では、あの人形たちも妖怪と似たようなものですよ。特に人形なんていうのは、人間に似せて作られますから、持ち主の思念が籠りやすい」
「じゃあ、あんたは、人形たちの声を聞いたっていうよりも、思念を読みとって、急変を察知したってこと?」
「人間の言葉で説明するなら、そこらが妥当でしょう」
当たらずも遠からじ。といったところか。
人間には理解できない、妖怪だけが持っている感性レベルの話なのだろう。
「じゃあ、現時点で構わないから、妖怪としての見解を聞かせてほしいんだけど」
「なんでしょう」
「あの光、どう見るかしら」
「見たまんまでしょうとしか。どう転んだって、善いものであるはずがありません」
文は、肩をすくめてみせた。
文からは、まったくもって危機感というものが感じられない。
「もしあれが、幻想郷をおびやかすような存在だったら、どうするのよ?」
紫や藍の様子から察するに、あれは、決して小さくは無い異変だ。
もしも幻想郷の存続を左右するようなものだったら……。
「霊夢さん」
文は、達観した笑みを浮かべた。
「私たち妖怪は、一度、死んだ身です」
外の世界では、科学技術と学問の発達により、妖怪という得体の知れない存在は、論理的に解明できると認知されてしまった。
だから、誰も妖怪を恐れず、信じず、存在意義を失い、幻想郷という箱の中で、ようやく生きていくことができる。
「いまさら消えることになったって、それがなんですか。どうせ消えるかもしれないなら、好きなことをやらせてくださいよ」
そして文は、森に向かってカメラを構えた。
すっとぼけた妖怪だと思っていたが、彼女なりに、信念を貫いて生きてきたようだ。
文だけでは無い。
他の妖怪も、自分たちなりに、いまを生きているのだ。
幻想のような、淡い世界の中で。
人間がいて、妖怪がいる。
時代遅れのこの世界の匂いが、やけに霊夢の五感を刺激してきた。
「奥さんが離婚を申し出てきて初めて、その大事さに気づく……、か」
危機に瀕して、ようやく知ることができる感情だった。
霊夢は、幻想郷が好きだったのだ。




