(5)
紫は、棚からワインを取り出した。
栓を開けて、コップに注いだ。
ワイングラスでは無く、コップで酒を呑みたい気分だった。
真水を飲むように、喉を鳴らして一気にワインを体の中に流した。
いきなり酒が流れてきたものだから、臓物がびっくりしている。
構わず、二杯、三杯と酒を呷る。
ほんのりと体が火照り、思考がぼやけてきた。
これだから、酒はやめられない。
手間をかけずに、駄目な自分になることができるから。
こうして、酒に酔っている紫は、気張っても威張ってもいないし、尊大でも無い。
ここにいるのは、酒に浸っている一匹の妖怪。それ以上でも、それ以下でも無い。
八雲紫という妖怪を、より大きな存在として演出するために、妖怪の賢者という看板を背負っているわたしのことは、嫌いだ。
本音を吐露することをせず、誰に頼ることも無く、孤独。
それでも気丈に、八雲紫を演出する。
それは、幻想郷の秩序を保つため。
紫が、油断のならない妖怪でいれば、自然、博麗の巫女は、紫と会うときに緊張を強いられる。
紫に、簡単に腹の内を読みとられないように努め、いつしかそれが癖になる。
そうして博麗の巫女は胆力が鍛えられ、ちょっとやそっとのことでは動じなくなっていく。
それが、幻想郷に住まう者たちに安心を与えるのだ。
こんなふうに、常時、やりかたが陰湿。そして、幻想郷のためなら、いかほどでも冷徹になれる。だから嫌い。
紫は、役に徹しているときの自分を、そう評していた。
「盗み酒は、こっそりやっていただきたいものですね」
テーブルの上からワインが消えた。
「藍……」
「あーあー、こんなに減らして。上等のワインだから大事に呑むと、ご自分でおっしゃっていたではありませんか」
「いいのよ」
紫は、藍からワインの瓶をひったくった。
安い酒でも呑むように、良いワインを雑に呑みたいときだってある。このくらいのわがままなら、幻想郷も許してくれるだろう。
「体を壊さないからといって、乱暴に酒を呑むのは感心いたしませんね」
藍は、軽くつまめそうなものを皿に乗せて、紫に差し出した。
紫はそれらに目をくれず、体内に酒を摂り入れていく。
「藍。つき合いなさい」
「かしこまりました」
コップを持ってきた藍に、紫は酌をした。
「さっきね、霊夢に言ってやったのよ」
「ほう」
「博麗の巫女という立場を、返上しても構わないって」
「えっ!?」
藍は、腰を浮かせそうになった。
紫とつき合いの長い彼女でも驚いたのだから、当の霊夢の動揺はいかほどか……。
「そのようななさりようは、初めてではありませんか」
「そうね」
「訳をお聞きしても、よろしいでしょうか?」
一瞬、藍と視線を絡めてから、コップを傾ける。
「私は、霊夢に言ったわ。アリスのことをよろしくと。でも霊夢は、たかだか、一人の魔女のことをもて余している。己の情と、博麗の巫女という立場の狭間で、悩んでいる。役に徹することができない博麗の巫女なんて、必要では無い」
「なるほど。建前としては充分ですか」
藍の口元が緩んだ。
紫も、目元を緩めてふふっと笑う。
「ちゃんと霊夢にも話したわよ。博麗の巫女として不満があるから、こういう話を持ちかけたわけじゃないって」
「そうした配慮をされるのも、初めてですね」
「本当ね」
いつもだったら、建前で本心の守りを固め、本音を隠したまま、事を成そうとするのに。
紫は、それをしなかった。
「どうされましたか?」
それは、紫のほうが聞きたい。
妖怪の賢者が、見せてはならぬ、甘さを露呈させてしまった。
「たぶん、あの娘が惜しくなったのね」
「おっしゃっていることが、矛盾しているようですが……」
霊夢が惜しいならば、ひたすら手の中で飼いたいと思うのが普通ではないだろうか。
「解放してみたくなったのよ」
「ふむ?」
「あの子が、私の手から離れて、博麗の巫女という看板を下ろしたときに、どういう生きかたをするか、見てみたくなった」
心の内を語りながら、紫は思った。
(私は、霊夢に私を重ねているのかしら……?)
紫は、妖怪の賢者という看板を外すことができないから。
だからせめて、霊夢には、肩書きに縛られずに、自由に生きてほしいと思ったのだ。
「もしかしたら、あの子は、私たちが想像している以上に、大きな器を持っているかもしれないわ」
紫は、うっすらと感じていた。
霊夢は、人間として、とても大きなものを持っていると。
もし霊夢が、片手で持つことができる、このコップなどよりも、ずっと大きな容量を持っていたとしたら。
それを、博麗の巫女という檻に閉じ込め、紫の手の中で飼い殺すのは、もったいない。
「我ながら、甘いわね」
紫はチーズを口に放り込んだ。
「というよりも、ぬるいのね」
一個の人間ごときの将来を案じるとは、妖怪の賢者として、あるまじきことだった。
「良いではありませんか」
藍が、紫に酌をすると、血のような赤々とした液体でコップが満たされた。
そのぬるさの根源にあるのは、情だ。
その行動を起こすことで、相手にどのような効果をもたらすのか、相手が良い方向に進んでくれるかはわからない。
でも、大事な人のために、なにかをしたいという衝動を抑えきれず、理屈では説明できない行動に出てしまう。
それが、情。
紫が、血の通っていない、ただの冷徹な妖怪では無いということの、証。
「霊夢には、気の毒なことをしたわね」
博麗の巫女という役に執着している霊夢には、かえって、博麗の巫女として不十分だと告げたほうが、気持ちが楽だったかもしれない。
でも、紫は本音をうち明けたかったのだ。
もしかしたら、霊夢に心の中を見せるは、これが、最初で最後になるかもしれないから。
それは、紫のわがままだった。
「やはり、ぬるいわね。どうかしていたわ」
ふらりと立ち上がった紫は、
「残りはあげるわ」
言い残して、キッチンを去って行った。
藍は、ほとんど中身が残っていないワインの瓶を傾けて、コップに注いだ。
「それにしても、よくよくこじれたものだな」
ここにきて、様々な思惑が交差し始めた。
それぞれの想いが、紐のように絡まっている。
あれで紫は責任感が強いから、アリスのことは、いよいよとなれば、自分でなんとかする気でいるのだろうが……。
ものごとが動くときには、世相の乱れがつきものだ。
絡みあっている思惑は、動乱をひき起こすための導火線になっているのではないだろうか。
(幻想郷は、なにを想うのか)
それは、いかな大妖怪であっても、予知することはできない。




