初めての飛翔と、大人たちの重たい会議
あの夜の、三途の川のほとりまで行ったような峠を越えてから、三週間が過ぎた。 大阪の夏は、いよいよその本性を現し、容赦ない日差しがアスファルトを焼き尽くしていた。チンチン電車が通り過ぎるたび、その車体の向こうに陽炎が揺らめいて見える。
そんな外の酷暑とは裏腹に、「喫茶 すみのえ」の店内は、古いクーラーの涼やかな風と、それにも増して賑やかな「新しい音」で満ちていた。
「チュン! チュン! チュン! チチチッ!」
もはや、あの「ピィ」というか細く頼りない鳴き声の面影はない。 カウンターの隅、政さんが特製した木製の巣箱の隣には、あかりが割り箸と麻紐でこしらえた、不格好だが愛情たっぷりの「止まり木」が置かれている。 チビは、もうすっかり雀らしい茶色の羽毛に覆われ、くちばしの周りの黄色い部分も薄くなっていた。黒曜石のような瞳を好奇心いっぱいに輝かせながら、巣箱と止まり木の間をぴょんぴょんと、バネ仕掛けのおもちゃのように元気に跳ね回っている。 あの夜、冷たくなって消えかけた命が嘘のように、その小さな体は今、「生きる力」でパンパンに膨れ上がっていた。
「チビ、ほんま元気になったなぁ。お腹空いたんか?」 昼下がりの客足が途切れた時間、あかりはカウンターを磨きながら、止まり木で一心不乱に羽繕い(はづくろい)をするチビに微笑みかけた。 すっかり人馴れしたチビは、あかりの声に反応して「チュン!」と短く応え、彼女が差し出した小指に迷わず飛び乗ってくる。 その小さな爪の感触と、確かな重み、そしてドクドクと速く打つ心臓の鼓動。それらがあかりにとっては、何物にも代えがたい精神安定剤になっていた。
「喫茶 すみのえ」の「看板雀」。 商店街のキヨさんや政さんが、嬉々としてそう触れ回るものだから、最近では「あの幸運の雀の子、見せて」と、わざわざ遠くから店を訪れる客もいるほどだった。あかりは苦笑いしながらも、チビがみんなに愛されていることが誇らしかった。
ガラガラガラッ!!
「ただいまー! あかり姉ちゃん! チビ! 腹減った!」 今日も今日とて、ランドセルを放り投げる勢いで、ケンタが風のように駆け込んできた。 すっかり習慣になった手洗いを店の外の水道で済ませ、ポケットのハンカチでごしごしと手を拭きながら、一直線にカウンターに向かう。その一連の動作は、もう儀式のように身についていた。
「おう、チビ! 今日も男前やな! 顔色がええわ!」 ケンタが指を差し出すと、チビは待ってましたとばかりに、あかりの指からケンタの指へと軽やかに飛び移る。
「ええか、チビ。今日は大事な特訓の日や。男なら、空を飛ばんとな!」 ケンタは最近、チビに飛ぶことを教えようと必死だった。図書室で借りてきた『鳥の生態図鑑』を片手に、独自のトレーニングメニューを考案していたのだ。 「ほら、こうや! 風を感じろ! バタバタって!」 ケンタは、チビを乗せた人差し指をエレベーターのようにゆっくりと上下させ、反対の手で自分が鳥になったつもりで羽ばたく真似をしてみせる。
「チュン? チュン!」 チビもそれに応えるように、小さな翼を広げ、精一杯ばたつかせた。 これまでは、その場で羽ばたいて数センチ浮くか、せいぜいホバリングして着地するのがやっとだった。
「そうや! 羽の角度がええ感じや! いける、チビ! 今日こそ大空へテイクオフや! いけー!」 ケンタの熱血指導員のような声援が、店内に響く。
その時だった。
チビは、ケンタの指先を、その細い脚でグッと強く蹴った。 そして、これまでに見せたことのない力強い羽ばたきで、重力に逆らって宙に舞い上がった。
「「あ!」」 あかりとケンタの声が重なる。
チビは、まだ不安定な軌道ながらも、確かに「飛んだ」。 カウンターを越え、昼下がりの静かな客席の上空を横切り、そして――。
ピト。
いつもの定位置、窓際の一番奥の席で、難しい顔をして新聞を読んでいた武田さんの、そのお気に入りのツイードのハンチング帽のてっぺんに、ふわりと着地した。
店内が、一瞬で凍りついた。 ガタン、ゴトン。……チン、チン、チーン。 外を走るチンチン電車の音だけが、やけに大きく、間の抜けたBGMのように響く。
「……た、武田さん……! す、すみません!」 あかりが、慌ててカウンターから飛び出す。 「チビ! こら! 爺さんの頭に乗ったらあかん! 神聖な場所やぞ!」 ケンタも、真っ青になって叫ぶ。
武田さんは、石像のようにぴくりとも動かない。 コーヒーカップを持った右手が、空中で静止している。 そして、新聞を音もなくゆっくりと畳むと、その厳しい目を、自分の頭上の不届き者に向けようと、そろりそろりと、限界まで上目遣いになった。
チビは、そんな武田さんの緊張も、店内の緊迫した空気も知らず、初めて見る高い景色にご機嫌な様子だ。 ちょこんと首をかしげ、自慢げに「チュン?」と鳴いた。 「ここ、眺めええで?」とでも言いたげだ。
「………………」
武田さんの大きな手が、ゆっくりと上がる。 あかりは、思わず目をつぶった。(叱られる! 「不衛生や!」って怒鳴られる!)
しかし。 武田さんは、チビを乱暴に振り落とすことはしなかった。 その、いつも筆を握っている墨の匂いがする無骨な指先で、チビの小さな頭を、そっ……と、壊れ物を扱うように撫でた。
「……アホが。ここがどこか、わかっとんのか。天下の武田の頭やぞ」
その声は、怒っているというより、どこかあきれたような、それでいて愛おしむような、深すぎるため息まじりの響きだった。
「すげえええ! チビ! 飛んだ! 爺さんの頭まで飛んだ!」 ケンタが、緊張から一転、爆発するように歓声を上げて飛び跳ねる。 「やったな、チビ! 新記録や!」
「……ケンタ」 武田さんは、頭の上のチビを指に乗せ、そっと自分の肩に移すと、静かに、しかし重い声で言った。 「……飛んだから、あかんのや」
「え?」 ケンタの興奮が、急ブレーキをかけられたようにピタリと止まった。 「なんで? 飛んだら、元気なったってことやんか。すごいやんか」
「そうや。元気になったんや。誰よりもな」 いつの間にか、店の隅の定位置に座っていたトメさんが、冷めきったお茶をすすりながら口を挟んだ。その目は、いつものようには笑っていない。 「元気んなった雀が、いつまでも喫茶店におって、どないすんねん」
トメさんと武田さんの言葉に、あかりとケンタは、顔を見合わせた。 今まで店を満たしていた明るく楽しい空気が、一瞬で鉛のように重たいものに変わる。
「……何言うてんの、トメばあちゃん」 ケンタが、不安そうに、縋るような声で言った。 「チビは、ここの雀やんか。なあ、あかり姉ちゃん! 看板雀やろ? ずっとここにおるんやろ?」
「……そやけど……」 あかりも、返事に詰まる。 ケンタの言う通り、チビはずっとここにいるものだと、心のどこかで当たり前のように思っていた。この小さな温もりを、ずっと守っていくのだと。
「アホ。あんたら、ほんまにこの子のこと、将来のこと、真剣に考えとんのか」 トメさんの声が、一段低くなった。 「雀はな、一羽で生きる鳥とちゃう。群れで生きるんや。仲間と空を飛んで、恋をして、家族を作るんや。あの子に、仲間も作ってやらんで、親にもなれんで、一生この狭い店の中で、ただ人間の見世物にして……。それが、あんたらの言う『優しさ』か?」
「そ、そんなつもり……!」
「それに」と、今度は武田さんが続けた。「ここは、鳥小屋ちゃう。あんたの商売の場所や、あかりちゃん。客商売やぞ。いつまでも、鳥が頭の上、飛んどってええわけがあるか。衛生面でも、保健所の許可でも、問題になる」
正論だった。 ぐうの音も出ないほどの正論だった。 二人とも、チビが憎くて言っているのではない。むしろ、あの長い夜を一緒に越えた「戦友」として、チビの幸せを、未来を、誰よりも真剣に案じているからこその言葉だった。
「……ほな、どないすんねん」 ケンタの声が、震え始めた。 「今さら、外に出したって……。キヨさん、言うてたやん。人が触った鳥は、もう親も仲間も寄ってこんて! 仲間外れにされるって!」 「……」 「それに、チビは、車の音も知らん! カラスの怖さも知らん! 餌の取り方も知らん! トメばあちゃんちの猫かて、おるやんか! 外に出したら、あいつらすぐに食べられてまうわ!」
ケンタは、泣きそうになるのを必死でこらえていた。拳を握りしめ、大人たちを睨みつける。 あかりも、胸が締め付けられる思いだった。 ケンタの言う通りだ。 この、人懐っこすぎる、あかりの指を親鳥だと思っている、何も知らない小さな命を、どうしてあの厳しい弱肉強食の自然の中に放り出すことなどできようか。それは、死ねと言うのと同じではないか。
店の中は、重苦しい沈黙に包まれた。 あの日、鯛のすり身を持って飛び込んできた政さんも、今日は配達の途中で立ち寄っていたが、いつものように茶々を入れることはなく、腕組みをして難しい顔で黙り込んでいる。 キヨさんも、野菜カゴを持ったまま、悲しげな目でチビを見つめている。
(守るために、拾った) (生きるために、必死で看病した) (ほんで、元気になったら……)
(……元気になったら、この子をどうしてあげるのが、ほんまの『愛』なんやろ)
あかりは、武田さんの肩の上で、無邪気に羽繕いを続け、時折武田さんの耳たぶを甘噛みしているチビから目が離せなかった。 チビは、自分の一生を左右する、重たい議論が交わされていることなど、知る由もない。
「……そろそろ、決めなあかん時が来たんや」 トメさんが、静かに、だが、腹をくくったような、有無を言わせぬ響きで言った。 「この子を、このまま一生籠の中で飼い殺して『可哀想なペット』にするか。それとも、リスクを背負ってでも、『幸せな野鳥』に戻れるよう、わしらが鬼になって手を貸すか」
トメさんの視線が、あかりとケンタを射抜く。 「選ぶのは、あんたらや。親代わりの、あんたらの責任や」
ガタン、ゴトン。……チン、チン、チーン。
チンチン電車が、店の前をゆっくりと通り過ぎていく。 あかりは、窓の外に広がる、住吉大社の深い緑を見つめた。 あそこには、たくさんの雀たちが群れをなして飛び交っている。 あそこが、チビが本来いるべき場所。 でも、そこは、今やチビにとって、世界で一番、危険な場所になってしまったのかもしれない。
「……ケンタ」 あかりは、震える声で名前を呼んだ。 まだ答えは出ない。けれど、目を逸らしてはいけないことだけは、分かっていた。




