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喫茶すみよし  作者: 花曇り


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5/8

夜明けのコーヒーと、命の鼓動

「喫茶 すみのえ」の壁掛け時計が、カチ、カチ、と無機質で正確なリズムを刻んでいる。 その音だけが、深夜の静寂に満ちた世界を支配していた。 もう何度、コーヒーを淹れ直しただろうか。カウンターの中は、濃すぎるほどのマンデリンの香りと、三人の張り詰めた息遣いだけで満たされていた。

店の外は、まだ深い闇に包まれている。 時折、遠くを走るトラックの走行音が聞こえるだけで、住吉の町は死んだように眠っていた。

「……チビ、チビ……」 ケンタは、とうとうユニフォームのまま、カウンターに突っ伏してうとうとし始めた。子供の限界を超えているはずだ。しかし、深い眠りに落ちそうになるたび、ビクッと体を震わせて飛び起き、「チビは!? 生きてるか!?」と叫ぶ。その繰り返しだった。

「……ケンタ。あんた、もう帰り。お母ちゃん、心配してんで」 深夜二時を回った頃、トメさんが低い声で言った。その言葉には、普段の棘はなく、孫を気遣う老婆の優しさがあった。 「いやや! わいが帰ったら、チビ、死んでまうかもしれん! 一人にするなんて絶対いやや!」 「アホ。あんたがここにおっても、わしらがおっても、死ぬときは死ぬ。そら、もうチビの生命力次第や」 「それでも! わいはここにいたいんや! わいが見つけたんやから!」

ケンタの瞳は、疲労と寝不足で充血していたが、その奥には、昨日のミミズを自慢していた少年とは比べ物にならないほど、強い意志の光が宿っていた。 トメさんは、それ以上何も言わず、ふいと顔をそむけた。 「……勝手にし。明日のテスト、0点取っても知らんで」

あかりは、黙って新しいコーヒーを三つのカップに注いだ。 自分でも、もう何杯飲んだか分からない。大量のカフェインのせいで脳の芯は妙に冴えているのに、体は鉛のように重かった。指先の感覚が鈍い。

(もし、このままチビが……)

最悪の想像が頭をよぎるたび、胸が冷たい手で握りつぶされるように痛んだ。 東京で失敗したプロジェクト、離れていった友人、そして亡くなった祖父。自分の手からこぼれ落ちていった全ての記憶がフラッシュバックする。 この小さな命まで、私は救えないのか。

あかりは、トメさんに言われた通り、三十分おきにスポイトで一滴だけ、砂糖水をチビの口元に運んだ。 反応は、ない。 ただ、トメさんが巣箱に入れた湯たんぽ代わりのペットボトルのおかげで、チビの体温が、これ以上下がることはかろうじて防げているようだった。

「……昔、うちでもな」

重苦しい沈黙を破ったのは、トメさんだった。 「戦争が終わって、大阪中が焼け野原で、食べるもんもろくにない頃や。兄貴が、どっからか鳩の雛、拾うてきてな」

あかりとケンタは、スポイトを握ったまま、トメさんの横顔を見つめた。普段は決して自分の昔話をしないトメさんが、遠くを見るような目をしている。

「食べるために拾うてきたんやない。飼うんや、言うてな。家族みんな、自分の食うサツマイモ、ほんのちょっとずつ分けて、すり潰してやったもんや。……自分らの腹も減ってペコペコやのにな」 トメさんは、コーヒーカップの縁を指でなぞった。 「けどな、三日で死んでもうた。栄養失調や」 「……」 「兄貴な、ええ年した男が、わんわん泣いとったわ。わしが死んだほうがマシやった、言うてな。……命っちゅうのは、そういうもんや。必死こいても、祈っても、手のひらからこぼれ落ちる時は、あっさり落ちよる」

トメさんは、自分の皺だらけの手のひらを、じっと見つめている。 その手は、多くの命を見送り、多くの別れを経験してきた手だ。 「せやから、あかりちゃん。ケンタ。……もし、あかんかっても、自分らを責めたらあかんで。あんたらは、ようやった。チビも、よう頑張った。それだけは、ほんまや」

あかりは、こらえきれず、目から涙がこぼれた。 トメさんの言葉は、残酷なほどリアルで、そして優しかった。 トメさんは、あかりを慰めるでもなく、ただ、冷めかけた苦いコーヒーを、もう一口すすった。

静寂が、再び店を支配する。 時計の針が、四時を指した。 窓の外、住吉大社の森の輪郭が、ほんの少しだけ、漆黒から濃紺に変わり始めている。夜明け前の、一番暗く、一番寒い時間だ。 新聞配達のバイクのエンジン音が、遠くの路地で聞こえた。

ケンタは、ついに限界を迎え、カウンターに突っ伏したまま、深い寝息を立て始めていた。小さな背中が規則正しく上下している。 あかりも、もう立っているのがやっとだった。視界が揺れ、意識が途切れそうになる。

(……もう、あかんのかな)

希望が、細い糸のようにプツリと切れそうになった、その時。

巣箱の中から、か細い音がした。

「……ピ?」

空耳かと思った。幻聴かもしれない。 あかりは、弾かれたように顔を上げ、息を止めて巣箱を覗き込む。トメさんも、鋭い眼光で身を乗り出してきた。

「ピィ……チィ……」

チビが、藁の中で、ほんの少しだけ、身じろぎした。 そして、昨日あれだけ岩のように固く閉じていたくちばしを、かすかに、開けようとしている。

「……チビ……?」 あかりが、震える声で呼びかける。

「……チィ、チィ!」

それは、間違いなく、明確な意志を持った声だった。 弱々しいが、昨日までの死にかけた声とは違う。「腹が減った」「生きたい」という、原始的で力強い叫びだった。

「トメさん……!」 「……ああ。……峠、越したな」

トメさんの鉄のような声も、わずかに震えていた。 あかりは、慌ててスポイトを手に取る。今度は砂糖水ではない。ぬるま湯で溶いた、栄養たっぷりの練り餌だ。 震える手で口元に持っていくと、チビは、まだおぼつかない動きで首を伸ばし、スポイトの先に食らいついた。 一滴、二滴。 こくん、こくん、と小さな喉を鳴らして、餌を飲み込んでいく。その動き一つ一つが、奇跡のように見えた。

「……飲んだ……! 食べた……!」

その瞬間、あかりは、膝から崩れ落ちた。 カウンターの椅子に、どさりと座り込む。張り詰めていた糸が切れ、全身から力が抜け、安堵と疲労で、涙が止めどなく溢れてきた。 「よかった……。ほんまに、よかった……!」

「……んん……姉ちゃん? ……うるさい……」 ケンタが、その声で目を覚ました。寝ぼけ眼で周囲を見渡す。 「チビは!? どないなったん!?」

「ケンタ……。見とき。チビな、ご飯、食べたで!」

ケンタは、一瞬、状況が飲み込めずきょとんとしていたが、巣箱の中で首を伸ばして元気に餌をねだるチビの姿を見るなり、顔をくしゃくしゃにした。 「うわあああああん!」 子供のように、いや、子供そのものの声で、大声を上げて泣き出した。 「よかったぁ! チビ! バカ野郎! 死ぬなよ、アホ!」 泣きながら、怒っている。鼻水も涙も垂れ流しだ。

トメさんは、そんなケンタの野球帽の上から、頭を乱暴にくしゃくしゃと撫でた。 「アホはあんたや。……よう頑張ったな、ケンタ」 トメさんの目も、朝焼けの光が差し込み始めた薄明かりの店内で、赤く潤んでいた。

ガタン、ゴトン。……チン、チン、チーン。

始発のチンチン電車が、まだ誰も乗っていない車両を揺らしながら、新しい一日の始まりを高らかに告げて、店の前を通り過ぎていった。 その音は、昨日の悲壮な音とは違い、希望に満ちたファンファーレのように聞こえた。

その音と、ほぼ同時だった。 ガラララッ、と、いつもの時間に、いつものように、店の戸が開いた。

「……おはようさん」

ツイードのハンチング帽に、ステッキ。武田さんだ。 武田さんは、店に入った瞬間、その異様な光景に固まった。

カウンターに突っ伏して泣きじゃくる、泥だらけのユニフォームの少年。 その横で、目をパンパンに腫らして笑っている、髪の乱れたあかり。 そして、定位置で、なぜか夜明けからコーヒーをすすっている、疲れ切った顔のトメさん。 およそ、爽やかな朝の喫茶店の光景ではない。

「……なんや。夜逃げの相談か、それとも通夜の相談か」 武田さんが、低い声で呟く。

「おはようさん、武田の爺さん。……どっちもちゃうわ」 トメさんが、フッと笑った。その笑顔は、十歳ほど若返ったように見えた。 「夜明けの、祝杯や」

武田さんは、怪訝な顔でカウンターに近づき、そして、無言で巣箱の中を覗き込んだ。 チビは、満腹になったのか、今はもうすやすやと穏やかな寝息を立てている。羽毛もふっくらとして、昨日までの死相は嘘のように消えていた。

「……」 武田さんは、何も言わなかった。 ただ、じっとチビを見つめ、それから、三人のボロボロで、しかし輝いている顔を順番に見渡し……。

「……フン。しぶとい奴や。誰に似たんやら」

それだけ言うと、いつもの席にどかりと腰を下ろした。 「あかりちゃん。モーニング。Bセットや。……今日は、トースト、焦げる寸前までよう焼いとけ」

その「よう焼いとけ」という言葉が、武田さんなりの、不器用で最大の「お疲れさん」だということが、あかりには痛いほど分かった。 「はい! 今、すぐ!」 あかりは、涙を腕でぐいと拭うと、この店に来てから一番元気な、腹の底からの声で返事をした。

ケンタは、安心して気が抜けたのか、店の奥のソファで本当に泥のように眠りこけてしまった。 トメさんと武田さんは、いつものように、新聞を広げながら、ぽつり、ぽつりとどうでもいい世間話をしている。 あかりは、トーストを焼き、サイフォンで新しいコーヒーを淹れる。

いつもの朝。 でも、昨日とは何もかもが違う、特別な朝。

あかりは、窓から差し込む、住吉さんの森を照らす柔らかい黄金色の朝日を見つめた。 樹齢千年の楠の葉が、キラキラと光っている。

(私は、この町から逃げてきたんやない) (この、どうしようもなくお節介で、やかましくて、でも、こんなにも温かい人たちがいるこの場所に、私は「帰ってきた」んや)

手のひらからこぼれ落ちそうになった小さな命を、みんなの手で、必死に繋ぎとめた、この長い夜。 この夜明けのコーヒーの味を、きっと一生忘れないだろう。

「お待たせしました! モーニングBセット、特製のよう焼きです!」

あかりは、こんがりと狐色に焼けた熱々のトーストを、武田さんの前に置いた。 その笑顔は、東京で失くしていた、心からの晴れやかな笑顔だった。


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