小さな命と、三世代の長い夜
チビが「喫茶 すみのえ」の、そしてこの商店街の新しい家族になってから、一週間が過ぎた。
カウンターの隅に置かれた仮住まいの紙箱は、いつの間にか立派な「邸宅」に変わっていた。 「おう、あかりちゃん。これ使うてくれ」 ある日の昼下がり、魚屋の政さんが持ってきたのは、使い込まれた木製の鳥の巣箱だった。 「うちの裏の納屋にな、昔ツバメが巣ぅ作っとったんや。もう空き家になって久しいから、タワシでゴシゴシ洗って、日光消毒もバッチリや。紙箱より、ずっと落ち着くんとちゃうか」 その顔は、あの鯛のすり身事件の時の情けない顔とは違い、どこか誇らしげだった。中に敷き詰められた藁も、八百屋のキヨさんが「一番柔らかいやつや!」と選んできたものだ。
そして、店の壁の目立つところには、トメさんが武田さんの書道教室から半ば強引に拝借してきたらしい半紙に、見事な筆文字で書かれた『チビ当番表』なるものが貼り出されていた。
『朝・七時 あかり(開店準備前・清掃)』 『朝・九時 武田(モーニング・健康診断)』 『昼・十二時 あかり(昼休憩・給餌)』 『夕・四時 ケンタ(学校帰り・遊び相手)』 『夜・八時 トメ(散歩がてら・夜回り)』 『夜・十一時 あかり(就寝前・保温確認)』
「……トメさん、武田さん、ようこれ許してくれましたね。ご自分の名前まで書かれて」 あかりがその達筆すぎる、まるで神社の寄進者一覧のような当番表を見て呟くと、トメさんは「ふん」と鼻を鳴らし、不敵に笑った。 「あの爺さん、『わしは知らん、勝手にせぇ』言いながら、わしが半紙取りに行ったら、一番ええ高い墨、すって待っとったわ。おまけに筆も新品おろしよって。ほんま、素直やない生き物や」
その言葉通り、武田さんは毎朝九時きっかりに店に現れるようになった。 以前のようにすぐに新聞を開くことはない。モーニングのトーストをかじる前に、まず無言で巣箱を覗き込み、懐からマイ・ルーペを取り出して観察し、おもむろにスポイトを手に取るのが日課となっていた。 「……ん。昨日より、風切羽のツヤがええな。栄養が行き届いとる証拠や」 「フンの色も、悪うない。緑がかってきたんは、青菜が効いとる」 ぶっきらぼうに呟くその診断結果が、あかりたちにとっては、どんな獣医の言葉よりも心強いものになっていた。
ケンタも変わった。 あれほど泥だらけの手で飛び込んできた野生児のような男の子が、店に入ってくる前に、まず必ず店の外の水道で手を洗い、制服の袖ではなく、ポケットから出したくしゃくしゃのハンカチで丁寧に拭いてから入ってくるようになったのだ。
「姉ちゃん、今日の分の餌、買うてきたで」 ある日の放課後、ケンタは息を切らせて駆け込んできた。その手には、ペットショップの小さな袋が握られている。 「あれ、ケンタ。餌、まだ店の残り、あったはずやけど」 「ええねん! これは、わいのお小遣いやから!」 ケンタは、毎月のお小遣いを前借りして、チビの餌代に充てているらしかった。 「そっか。……えらいなぁ、ケンタは」 「べ、別に。……わいが拾ってきたんやから、親代わりみたいなもんやろ。当たり前や」 照れくさそうに頭をかき、真っ赤な顔をするケンタ。その横顔は、ミミズを振り回して怒られていた一週間前より、ずっと頼もしい「お兄ちゃん」の顔に見えた。
チビは、そんな三世代の愛情と、商店街の人々の温かい野次馬根性に見守られ、すくすくと成長していた。 差し入れはトメさんに厳禁されたものの、キヨさんは毎日「今日は小松菜安いわ! ビタミンたっぷりでっせ!」と店の野菜を宣伝しにくるふりをして様子を見に来るし、政さんは「チビ、元気かー、わしのこと忘れとらんかー」と配達のついでに必ず顔を出す。
弱々しかった銀色の産毛は抜け落ち、雀らしい茶色い羽毛が生え揃い始めていた。くちばしを大きく開けて餌をねだる声も、「ピィ」という頼りない音から、「チィ、チィ!」という、生命力に満ちた張りのあるものに変わってきていた。
「このままいけば、もしかしたら……」 あかりは、サイフォンでコーヒーを淹れながら、巣箱の中で丸くなって眠るチビを見て、口元を緩めた。 東京での張り詰めた生活、結果を出さなければ価値がないと思い詰めていたささくれた心が、この小さな命の世話を通じて、ゆっくりと、でも確実に解されていくのを感じていた。 完璧でなくてもいい。ただ、今日を精一杯生きる。 この町で、もう一度、ぼちぼちとやっていけるかもしれない。 そんな淡い希望の灯火が、あかりの胸に灯り始めていた。
その日の夕方までは。
異変が起きたのは、夕方のラッシュアワーを知らせるチンチン電車の音が、いつもより忙しなく、そしてどこか不安げに店の前を通り過ぎていく頃だった。
「ほな、姉ちゃん、また明日な! 明日は算数のテストやから、チビに応援頼んどいて!」 ケンタが当番の餌やりを終え、元気よく野球の練習へと飛んでいった。 あかりは微笑んで見送り、夕飯の仕込みでもしようかとカウンターの中に入った。
チビは、いつもなら餌を食べた後、満足そうに羽づくろいをして、それから寝息を立てる時間だ。 しかし、その日は違った。
巣箱の中から、衣擦れの音一つしない。 あまりにも、静かすぎる。 店内の古時計の音だけが、やけに大きく響く。 あかりは、得体の知れない胸騒ぎを覚え、洗い物の手を止めて巣箱を覗き込んだ。
「……チビ?」
返事はない。 チビは、ぐったりと藁の中にうずくまっていた。 いつもならあかりの顔を見ると寄ってくるのに、目を閉じたまま動かない。呼吸が浅く、不規則で、小さな胸が苦しそうに上下している。
「え……? どないしたん、チビ! さっきまで元気やったやん!」
あかりは慌てて巣箱に手を入れ、小指でそっと体に触れた。 指先に伝わってきたのは、温もりではなかった。 冷たい。 いつもならカイロのように温かいはずの小鳥の体温が、急速に失われているような、恐ろしい冷たさだった。
「嘘……なんで……!?」
あかりは震える手で、ぬるま湯で溶いた練り餌をスポイトで吸い上げ、口元に持っていく。 「チビ、ご飯やで。おいしいよ」 だが、チビは口を開けない。クチバシを固く閉ざし、ぴくりとも反応しないのだ。 本能が、食事を拒否している。それは、生き物が死に向かう時のサインだと、どこかで聞いたことがあった。
「いやや、なんで……! チビ! 起きて!」
あかりの声は、客のいなくなった夕方の薄暗い店内に、虚しく響いた。 どうしよう。どうしたらいい。 思考が真っ白になる。 武田さんは? もう書道教室を閉めて帰宅している時間だ。電話番号も知らない。 トメさんは? 家は知っているが、高齢の彼女をこんな時間に呼び出していいのか。 病院は? この辺りに鳥を診てくれる獣医なんてあるのか?
あかりは、パニックになりそうになる頭を必死で振った。足が震えて立っていられない。 (落ち着け、わたし。あかり、しっかりしろ。あんたがパニックになったら、この子は終わる)
「まずは、保温……そう、温めなきゃ」 あかりは、厨房から使い捨てカイロをありったけ取り出すと、タオルに何重にもくるみ、巣箱の底と周りに敷き詰めた。 そして、椅子に座り込み、自分の両手でチビの小さな体を包み込むようにして持ち上げた。 「冷たい……」 あかりは、祈るようにそっと息を吹きかける。 「チビ……。頑張って……。お願いやから……」 自分の体温を全て分け与えるつもりで、じっと動かずに温め続ける。 涙が溢れてきて、視界が滲む。 東京で祖父の訃報を聞いた時の、あのどうしようもない喪失感が蘇る。また、私の手からこぼれ落ちていくのか。
ガタン、ゴトン。……チン、チン、チーン。 電車の音が、やけに遠くに、寂しげに聞こえる。 窓の外では、住吉大社の森が深い藍色の夕闇に飲み込まれていく。 あかりは、時計がカチコチと無機質に時を刻む音を聞きながら、ただただチビを温め続けた。一秒が、一時間が、永遠のように感じられた。
どれくらいの時間が経っただろうか。 店の「営業中」の札を「準備中」に変えるのも忘れ、店内は暗いままだ。 あかりがカウンターの中でうずくまっていると、ガラガラ、と店の戸が遠慮がちに開く音がした。
「……姉ちゃん? まだ店、開いてるん? 電気消えてるけど……」
声の主は、ケンタだった。 もうとっくに家に帰ったと思っていたのに、野球のユニフォームのままだ。膝には新しい土汚れがついている。
「ケンタ? どないしたん、忘れ物?」 あかりが顔を上げると、ケンタはギョッとした顔をした。あかりの目が赤く腫れていたからだ。 「ちゃう。……なんか、練習してても集中できんくて。胸騒ぎしてん」 ケンタは、吸い寄せられるようにカウンターに近づいてくると、あかりの手の中を覗き込み、息を飲んだ。 「……チビ!? どないしたん!? 死んでるんか!?」
「わからん……。急に、体温下がって、餌食べへんようになって……」 あかりの声は、震えて途切れ途切れになった。 「ごめん、ケンタ。私が、ちゃんと見てなかったから……」
「謝るなや!」 ケンタは叫ぶと、自分のユニフォームの袖でごしごしと涙を拭った。 「あかん。姉ちゃんの手ぇ、冷たなってるやんか!」 ケンタは、あかりの手の上から、さらに自分の両手でチビを包み込んだ。 「わいは子供やから、体温高いねん! 姉ちゃんより温かい! わいが温める!」
子供の手のひらの熱さは、確かに強烈だった。生命の熱そのものだ。 ケンタは、小さな命を包んだ手に、必死に「はーっ、はーっ」と息を吹きかけ続ける。 「チビ! 起きろ! 明日のテスト、応援するんやろ! 嘘つきは泥棒の始まりやぞ!」 その必死な横顔は、もうただのわんぱく小僧ではなかった。命を守ろうとする、一人の男の顔だった。
その時、また、店の戸が静かに、しかし力強く開いた。
「……店先が暗いさかい、泥棒かと思うたわ。二人して、通夜みたいな顔して何してんねん」
トメさんだった。 夜の散歩がてら、そして当番表の「夜八時」の約束通り、様子を見に来てくれたのだ。
「トメさん……!」 「トメばあちゃん! チビが!」
トメさんは、二人の尋常でない様子と、ケンタの手の中で動かないチビの姿を一目見て、すべてを察した。 その顔から、いつもの皮肉めいた笑みが消え、代わりに歴戦の医師のような厳しい表情が浮かぶ。
「……あかんか」 「わからん! でも、まだ心臓動いてる! さっきピクッとした!」ケンタが叫ぶ。 「トメさん、どうしよう……。私、怖くて……」あかりは、もう言葉にならなかった。
トメさんは、ステッキをカウンターに置くと、あかりの肩をバシッと強く叩いた。痛いくらいに。 「しゃきっとし、あかり! あんたが泣いてどないすんねん! 諦めたらそこで終わりや!」 その声は、雷のようにあかりの迷いを断ち切った。
「ケンタ、手ぇ、疲れたやろ。代わり」 「いやや! わいが温める! 絶対離さへん!」 「アホ。あんた一人の体温で夜通し保つか。交代で温めな、あんたが先に倒れるわ」
トメさんは、あかりに矢継ぎ早に指示を飛ばす。 「あかりちゃん、ペットボトル! 500のやつや! 熱めのお湯入れて、タオル巻いて即席湯たんぽ作れ! 二本作れ!」 「は、はい!」 「それから、砂糖水や! ほんの少し、甘い砂糖水作れ!」
あかりが厨房で慌ただしく動く間、トメさんはケンタの手からチビを受け取ると、自分の皺だらけの手で優しく、しかし確実に包み込んだ。 「……ほんまや。冷たいなぁ。……でも、まだかすかに震えとる。こいつ、まだ生きる気満々や」
トメさんは、あかりが作った砂糖水を受け取ると、スポイトにほんの一滴だけ吸い上げた。 「弱ってるときは、固形物はあかん。消化にエネルギー使うて死ぬわ。……ブドウ糖や。脳にだけ栄養送るんや」
武田さんがやっていたように、チビのくちばしの端に、そっと一滴、垂らす。 チビは、反応しない。水滴がくちばしを伝って落ちる。 「飲め……頼むわ……」トメさんが低く呟く。 もう一度、垂らす。
その時。 ほんのかすかに、喉元の羽毛が動いた。 ゴクリ。
「……飲んだ!」 ケンタが息を呑んで声を上げた。 「よし……! 生きる気力はある!」
トメさんは、大きく息を吐き出した。 「……今夜が、山場やな。このまま体温上げて、朝まで持ちこたえれば勝てる」 トメさんは、あかりを見た。 「あかりちゃん、すまんけど、コーヒー、一番濃いのん淹れてくれ。マンデリンや。わしもケンタも、今日は一歩もここから動かんぞ」
「……はい! すぐ淹れます!」 あかりは、涙を拭い、サイフォンの火を点けた。 アルコールランプの炎が揺れる。水が沸騰し、コーヒー粉が踊る。 閉店後の静まり返った「喫茶 すみのえ」に、深く、苦く、そして温かいコーヒーの香りが満ちていく。
カウンターを挟んで、三世代が、一つの小さな命を囲んでいる。 ケンタは、母親に電話で「今日はトメばあちゃんち泊まる!」と嘘をつき、真剣な目で巣箱を睨み続けている。 トメさんは、時折チビの体にそっと触れ、その老練な手で体温と脈拍を確かめている。 あかりは、祈るような気持ちで、三つのカップにコーヒー(ケンタにはホットミルク)を注いだ。
(チビ。あんたは、一人やない) (あんたを拾ったケンタも、知恵をくれるトメさんも、明日の朝にはきっと来る武田さんも、お節介な政さんもキヨさんも、みんな、あんたのこと、待ってるんやで) (そして、東京から逃げてきて、あんたに出会って救われた、この私も)
(だから、行かんといて。こっち、戻ってきて)
ガタン、ゴトン。……チン、チン、チーン。
最終電車の警笛が、静まり返った住吉の町を、余韻を残しながら通り過ぎていく。 その音は、まるで「負けるな、朝は来る」と励ます、町全体からの応援歌のように、三人の耳に、そして小さな命の鼓動に重なるように響いていた。
長い、長い夜が始まった。




