おせっかいな商店街と、豪華すぎるランチ
その日の午後。「喫茶 すみのえ」には、昼下がりの独特な倦怠感と安らぎが漂っていた。
学校の終わりを告げるチャイムが、住吉大社の杜の向こうから微かに風に乗って聞こえてくる。 あかりは、グラスを拭く手を止めて、少しそわそわと壁掛け時計を見上げた。 カウンターの隅、特等席に鎮座した紙箱の中では、チビがタオルの窪みにすっぽりと収まり、時折小さな寝息のような音を立てている。今朝、武田さんに「喉の奥」へ餌を入れてもらって以来、その表情(といってもクチバシと目だけだが)は驚くほど穏やかだ。
(あの子、ちゃんと来るかな。忘れて野球行ってないかな)
あかりがそう思った、まさにその時だった。
ガラガラガラッ!! 午前中の静寂を粉々に打ち砕く勢いで、店の引き戸が乱暴に開け放たれた。
「あかり姉ちゃん! チビ! 腹減って死にそうなんちゃうか! 餌、持ってきたで!!」 台風のように飛び込んできたのは、案の定ケンタだ。ランドセルは家に放り投げてきたのか、身軽なTシャツ姿である。 しかし、その泥だらけの両手には、スポイトも練り餌も握られていない。あろうことか、近所の神社の湿った土の匂いと共に、何やら茶色く細長いものが数匹、うねうねと蠢いていた。
「け、ケンタ!? あんた、手ぇ洗ったん!?」 あかりは、カウンター越しに身を乗り出し、思わず悲鳴に近い声を上げた。 ちょうど昼下がりの名物「ミックスジュース」を飲みに来ていた、向かいの八百屋のおかみさん・キヨさんが、その蠢く物体を見て「ひぃっ!」と喉を詰まらせた。
「アホ! ケンタ! あんた、そんな気色悪いもん、どこでほじくり返してきたん!」 キヨさんが、丸々とした体躯に似合わぬ俊敏さで椅子から飛びのき、壁際にへばりつく。
「えー? 何言うてんねん。ミミズやんけ。裏の神社の、一番土がいいとこ掘ってきてんで!」 ケンタは悪びれる様子もなく、むしろ自分の手柄を誇示するように、元気のいい太いミミズをあかりの鼻先に突き出した。 「だって、図鑑に書いてあったもん! 鳥は虫食べるって! 元気出る思うて!」
「あかんあかん! 無理無理!」あかりは必死で顔を背け、手を横に振る。「気持ちは嬉しいけど! まだこんな赤ちゃんなのに、そんな生々しいもん食べられへんわ!」 「えー、なんや。せっかく一番太いやつ選んだのに」 ケンタは唇を尖らせて、手の中のミミズを見つめる。 「ほな、これどないすんねん」 「どないする言われても……。そこの、住吉さんの境内の、土が柔らかいとこに返してき! 今すぐに!」 「ちぇー。大人はわかってへんなぁ」
ケンタが不満たらたらで店を出ていこうと振り返った、まさにその瞬間。 入れ違いに入ってきた人物の太い足に、危うく激突しそうになった。
「おわっ!」 「おっと。……なんや、ケンタ坊主。店の中でロケットみたいに飛び出しよって。太鼓橋から転げ落ちるで」
低い、ダミ声。そして、店内に漂うコーヒーの香りを一瞬で塗り替えるような、強い潮の香り。 入ってきたのは、商店街の魚屋「魚政」の大将、政さんだ。 ねじり鉢巻がトレードマークで、年中ゴム長靴を履いている。顔は怖いが、時代劇を見ては号泣するほど涙もろく、この界隈では有名なお人好しだ。
「こんにちは、政さん。今日は中休みですか」 「おう、あかりちゃん。まいど。……ちゅうか、ケンタ、お前その手ぇのなんや。うわ、ミミズかいな! 食事時に気色悪い!」 「チビの餌や! 今から返しに行くとこや!」 「チビ?」
政さんは、きょとんとした顔で、あかりと、まだ壁際に退避しているキヨさんを交互に見た。 ここぞとばかりに、キヨさんが口を開く。 「政さん、知らんの? この店、昨日から雀の雛、預かってんねんで。そらもう、こーんな(と指でほんの数センチの幅を作り)豆粒みたいなちっこいのん」 「ほう、雀? あかりちゃん、あんた、そんな酔狂なことしてんのか」 「酔狂て……。なりゆきです。ケンタが拾ってきて、トメさんが手当てして」 あかりが苦笑いしながらカウンターの隅を指差すと、政さんはその大きな体を器用にかがめ、ゴム長靴を軋ませながら箱の中を覗き込んだ。
「……うおっ、ほんまや。ちっさいなぁ。こら、まだ目ぇもろくに開いとらんのとちゃうか」 「そうな。ほんでな、ここだけの話やけど」キヨさんが声を潜める。「今朝はあの武田の爺さんが、手ずから餌やったらしいで。あの墨汁みたいな顔した爺さんがやで」
「なにぃ!? あの偏屈武田が!? 雀に!?」 政さんは、今日一番の大声を出した。 「そら、明日は住吉さんの反橋がまっすぐになるわ! いや、雪が降るかもしれん!」
「アホ、政! 大声出すな! 雛がびっくりしてひっくり返るやろが!」
店の奥から、よく通るしゃがれ声が飛んだ。 いつの間にか入ってきていたのか、それとも最初から気配を消していたのか。トメさんが、定位置の窓際の席にどっかりと座っていた。手には、商店街の福引券の束が握られている。
「げ、トメさん。いつの間に」 「あんたらがミミズだの爺さんだの騒いどる間に、とっくに来とるわ」 トメさんは呆れたように溜息をつき、あかりに「いつもの」と目で合図を送る。
「しかし、トメさん。大変なこと引き受けたな、あかりちゃんも」 政さんが、腕組みをして真剣な顔で唸った。 「こないな小さいのん、育てるんは至難の業や。わし、昔インコ飼うてたけど、雛はほんまに温度管理が難しいで」 「せやねん」とキヨさんも、壁際から戻ってきて心配そうに頷く。 「うちの死んだ婆ちゃんが言うてたわ。野鳥は、一度人が触ったら人間の匂いがついて、もう親は寄ってこん、て。あかりちゃん、これ、元気になったとしても、自然に返す言うても……もう無理なんとちゃうか」
「……え」 サイフォンを拭いていたあかりの手が止まる。
(親は寄ってこない。仲間には入れない)
その言葉が、重く胸に沈んだ。 元気になれば、空へ帰せると思っていた。でも、一度人間の世界で育ってしまったこの子は、もう鳥の世界には戻れないのだろうか。 それはまるで、東京の絵の具に染まりきってしまい、大阪のこの下町の空気にも、東京の洗練された空気にも馴染めなくなってしまった、自分自身のように思えた。 どこにも居場所がない孤独。この小さな雛も、それを背負うことになるのだろうか。
「な、なんや、姉ちゃん。顔色悪いで。どないしたん」 ミミズを返して、手を洗って戻ってきたケンタが、あかりの暗い顔を不思議そうに覗き込む。
「……キヨさん。あんた、いらんこと言うて、若い子脅したらあかんわ」 トメさんが、運ばれてきたばかりの熱いコーヒーを一口すすって、静かに、けれどドスの効いた声で言った。
「え、わ、わて、そんな悪気は……」 「ええか。無理かどうかは、チビが決めるこっちゃ。外野の人間が勝手に限界決めて、先に諦めてどないすんねん」
トメさんの言葉に、キヨさんも政さんも、ぐっと黙り込む。店内の空気がピリッと引き締まる。
「大体な、」トメさんは続ける。「あんたら、心配するふりして、ほんまは面白がっとるだけやろ。『あの店で雀飼うてるらしいで』いうて、井戸端会議のネタにしたいだけちゃうんか」 「そ、そんなこと!」 「ないとは言わんけどな!」 政さんとキヨさんが、同時に否定し、同時に白状する。
「まったく、この町内の野次馬根性は、昔から変わらんなぁ」 トメさんは、やれやれと首を振った。 「ほんで? 政。あんた、魚屋やのに、雀の餌のことなんか知っとんのか。偉そうに講釈垂れる前に、なんか知恵出さんかい」 「いや、雀はさすがに専門外やけど……。せや!」 政さんが、突然ポンと大きな手を打った。 「こういうのは、栄養つけなあかん! 病人は精のつくもん食うて治すんが一番や! 栄養いうたら、魚や! 大阪の魚や!」 政さんの目がギラリと光った。 「よし、あかりちゃん、ちょっと待っとれ! すぐ戻る!」
「え、ちょ、政さん!? 何する気ですか!?」 あかりが止める間もなく、政さんはゴム長靴をドカドカと鳴らし、「魚政」の暖簾をくぐって自分の店へ走っていってしまった。
「……あのお人好し。また暴走しよったで」トメさんが呆れたように呟く。
数分後。 「待たせたな!!」 政さんが、店の売れ残りを入れるような発泡スチロールのトレイではなく、なんと店の奥から引っ張り出してきたであろう、漆塗りの立派な小皿を持って、息を切らして戻ってきた。 皿の上には、真っ白な身が、まるで雪のように輝いている。きれいに湯がいて、丁寧に骨を取り除き、すり鉢でこれでもかというほど細かくすり潰された、極上の鯛の身だった。
「どや! 鯛や! 明石の天然物やで! 住吉さんのおめでたい鯛や! これ食うたら、どんな病人も裸足で逃げ出すわ!」 政さんは鼻の穴を膨らませて胸を張る。
「……政さん」あかりは、その湯気の立つ、あまりにも高級そうなすり身を見て、言葉を失った。「これ、売り物じゃ……」 「アホやろ、あんた」 トメさんが、今度は本気で呆れた声を出す。 「こんな生まれたての雛に、鯛のすり身? 喉詰まらせて殺す気か。消化できるかいな!」 「えっ!? あかんの!? 鯛やで!? 魚の王様やで!?」 「王様だろうが将軍だろうが、鳥は魚食わんわ!」
「うわーん、せっかく骨抜いてすり潰したのに!」 政さんが、ねじり鉢巻のまま、カウンターに突っ伏して本気で泣きそうな顔をする。その巨体が小さく見える。
「もう、あんたら、見てられんわ。男の人は大雑把でかなわん」 今度は、八百屋のキヨさんが立ち上がった。 「鳥いうたら、やっぱり青菜やろ! 自然界のビタミンや! うちの店に、今朝入ったばかりの上等な小松菜あるさかい! それ、すり潰してジュースにしたる! 待っとき!」 「キヨさん! やから、そんなんまだ早いて!」 あかりの制止も聞かず、キヨさんもまた、お尻を振って店を飛び出していく。
「喫茶 すみのえ」の店内は、一気にカオスに包まれた。 カウンターには、高級料亭のような香りを放つ鯛のすり身。 奥の席では、トメさんが頭を抱えて天井を仰いでいる。 入り口では、ケンタが「大人はすげえな……」と呆気にとられている。
「……な、なんや、みんな。チビのために、必死やん」 ケンタが、ぽつりと漏らした。
その言葉に、あかりは、はっとした。 やっていることは、めちゃくちゃだ。ミミズに、天然の鯛に、小松菜ジュース。 どれもこれも、今のチビには毒になるかもしれないし、見当違いも甚だしい。 でも。
(みんな、優しいんやな)
不器用で、お節介で、声がでかくて、やかましい。 でも、その根底にあるのは、間違いなく「優しさ」だ。 自分とは何の関係もない、小さな命を、なんとかしてやりたい。その一心で、自分の売り物を犠牲にしてまで走り回っている。 東京で感じていた「無関心」という冷たさが、ここでは「過干渉」という熱さに変わっている。その熱さが、今は少しだけ心地よかった。
あかりは、深呼吸をして、政さんに向き直った。 「政さん。その鯛、ありがとうございます。……チビにはまだ早すぎてあげられへんけど、今日の、私のお昼ご飯にします。こんな上等なもん、もったいないから」
「ええ……。あかりちゃん……」 政さんは、パッと顔を上げて、目をうるませた。「食べてくれるんか? わしの愛の結晶を」 「愛かどうかは知りませんけど、いただきます」
そこへ、キヨさんが青汁一歩手前の、鮮やかな緑色の液体が入ったコップを持って戻ってきた。 「持ってきたで! 特製小松菜生搾りジュース! 苦いで!」 「キヨさん、それも……」
「それも、あかりちゃんが飲み」 トメさんが、きっぱりと言った。 「あんたが、看病疲れで倒れたら、元も子もない。政の高級鯛と、キヨの特製青汁で、あんたが栄養つけとき。それが一番、チビのためや」
「……はい」 あかりは、笑いをこらえるのに必死だった。 目の前には、白いご飯もないのに鯛のすり身。そして、強烈な匂いを放つ小松菜ジュース。 なんとも言えない組み合わせの「モーニング」ならぬ「スペシャルランチ」だ。
「もう、しゃあないな」 トメさんは、ポケットから出した百円玉をテーブルに置くと、重い腰を上げた。 「あかりちゃん。あんた一人じゃ、この情熱過多な野次馬どもは抑えきれん。今日から、わしがチビの『後援会会長』になったる」 「え? 会長ですか?」 「文句あるか。武田の爺さんにも、今度会うたら言うとくわ。『あんたは副会長や』て」
トメさんは、そう高らかに宣言すると、キヨさんと政さんを鋭く睨みつけた。 「ええか、会員諸君。チビへの差し入れは、今後一切禁止や。勝手なもん食わせたら除名処分にする。餌は、あかりちゃんが買うてきた、専用のやつだけや」 「「は、はーい……」」 大の大人二人が、トメさんの迫力に押されて小さくなる。
「その代わり」とトメさんは続けた。 「『チビ見舞い』として、毎日店のコーヒー飲みに来い。あんたらが金を落とせば、あかりちゃんが潤う。あかりちゃんが潤えば、チビもいいもん食える。それが、あかりちゃんとチビへの、一番の応援や。わかるな?」
その言葉に、政さんとキヨさんは顔を見合わせ、そして、ニヤリと破顔した。 「なるほど! さすがトメさん、商売上手やな!」 「せやな! ほな、わて、ブレンドもう一杯おかわりや! チビのために!」 「わしもや! レイコー(アイスコーヒー)頼むわ!」
あかりは、鯛のすり身を一口食べながら、涙が出るほど笑った。 淡白で上品な鯛の味が、なんだかとても温かい味がした。
ガタン、ゴトン。……チン、チン、チーン。
午後のチンチン電車が、賑やかになった店を祝福するように、陽気な音を立てて通り過ぎていく。 カウンターの隅で、チビが「ピィ!」と、これまでで一番元気な声で鳴いた。それはまるで、「ごちそうさま」と言っているかのようだった。
「はいはい、今度はチビの番やね」 あかりは箸を置き、スポイトを手に取った。 このお節介で温かい街の真ん中で、あかりとチビの新しい生活は、まだ始まったばかりだ。




