モーニングと、墨の匂いの訪問者
ガタン、ゴトン。……チン、チン、チーン。
朝もやを切り裂くように、始発の路面電車が通り過ぎていく。その音は、昨日の夕暮れ時とは違い、これから始まる一日を鼓舞するかのような、少しだけ張りのあるリズムを刻んでいた。
翌朝。「喫茶 すみのえ」には、既にまぶしいほどの朝の光が満ちていた。 店の東側の窓、樹齢千年の楠の葉の間から差し込む光は、店内の舞う埃さえも金色の粒子に変えてしまう。大阪の朝は、東京のそれとは違う。人々が足早に行き交う鋭利な空気ではなく、どこか寝ぼけたような、焼きたてのパンのようにふっくらとした空気が流れている。
あかりは、いつもより一時間早く店に来ていた。エプロンの紐を結ぶ手も、どこか落ち着かない。 視線の先にあるのは、もちろんカウンターの隅、レジの横に置かれた小さな菓子折りの空き箱だ。
「……おはよう、チビ。生きてる?」
恐る恐る、本当に恐る恐る、あかりは箱を覗き込んだ。 タオルに埋もれるように丸まっていた小さな塊が、人の気配を感じてモゾリと動く。 「ピィ……」 蚊の鳴くような声だが、確かに生命の響きがあった。
「あぁ、よかった……」 あかりは膝から力が抜け、カウンターに手をついた。 昨夜、店を閉めた後の記憶は慌ただしい。商店街の端にある、薄暗いペットショップに駆け込み、無愛想だが人の良さそうな店主から練り餌とスポイトを入手した。「保温が命やで。冷えたら終わりや」という言葉を反芻し、夜中に何度も店に戻って様子を見た。 ケンタが電話口で一方的に「名前は『チビ』な! 絶対チビな!」と叫んでいたのを思い出し、あかりは苦笑する。安直すぎる名前だが、この小さな命には妙に似合っていた。
「えらいなぁ、チビ。一晩、よう頑張ったなぁ」 その産毛の残る頭を、小指の先でそっと撫でる。指先に伝わる体温は、昨日よりもほんの少し、強くなっている気がした。
カラン、コロン。
その温もりに浸っていたあかりの背後で、古びたドアベルが乾いた音を立てた。 時計を見ると、まだ開店時間の七時を五分過ぎたところだ。
「……おはようさん」
低く、少しこもった、けれど腹の底から響くような男の声。 あかりが慌てて振り返ると、そこに立っていたのは、背筋をピンと伸ばした老人だった。 年季の入ったツイードのハンチング帽を目深にかぶり、仕立ての良い、しかし着古した麻のジャケットを羽織っている。手には竹の節が美しいステッキ。
武田さんだ。 この近所で書道教室を開いている、界隈きっての「偏屈」で有名なお爺さんである。 祖父の代からの常連で、あかりが店を継いでからも、毎朝判で押したようにこの時間に現れる。
「あ、武田さん。おはようございます。すみません、今看板を出そうと……」 「ええ。開いとるのは気配でわかる」 武田さんは短くそう言うと、あかりの返事も待たずにいつもの定位置――カウンターの一番奥、窓から離れた少し薄暗い席へ向かった。 そこは、店全体を見渡せる場所でありながら、誰の視線にも晒されない、彼だけの聖域のような席だ。 「いつもの」 「はい、モーニングのBですね。ブレンドで」 「ああ」
武田さんは椅子に重そうに腰を下ろすと、懐から読みかけの文庫本を取り出した。あかりが水とおしぼりを出すまで、視線ひとつ動かさない。 あかりは身を引き締め、厨房へと戻った。 武田さんは、あかりの祖父とは将棋を指す仲だったらしいが、孫のあかりに対しては、まだ「審査中」といった態度を崩さない。 「……東京の水は、もう抜けたんか」 半年前に店を再開した初日、コーヒーを一口飲んで言われた言葉が、今でもあかりの胸に棘のように刺さっている。
トースターに分厚い食パンを入れる。チリチリとパンが焼ける音と共に、香ばしい小麦の香りが漂う。 サイフォンのロートに湯が上がり、竹べらで撹拌する。 大阪の喫茶店文化である「モーニング」。コーヒー一杯の値段で、トーストとゆで卵、サラダが付いてくるこのサービスは、あかりにとって毎朝の戦場だ。焼き加減、卵の茹で具合、コーヒーの温度。武田さんは何も言わないが、その無言こそが一番の重圧だった。
「お待たせしました。モーニングBセットです」 あかりがトレーを置くと、武田さんは文庫本に栞を挟み、「ん」とだけ喉を鳴らした。 バターが染み込んだ厚切りトーストに手を伸ばす。その所作一つ一つに、書道家らしい無駄のない美しさがある。
その時だった。静寂を破る音が響いた。
「ピ……ピィ! ピィ!」
カウンターの隅から、今までになく大きな声が漏れた。空腹を訴える、生命の叫びだ。 武田さんの手が、トーストを持つ形のまま、ぴたりと止まった。 ゆっくりと首を回し、音のした方を睨む。その眼光の鋭さに、あかりは心臓が跳ね上がった。
「……なんや、今の音は」 「あ……」あかりは、しまった、という顔で立ち尽くした。「すみません、うるさかったですよね。あの、昨日、近所の子供が拾ってきて……」 「鳥か?」 「は、はい。雀の雛で……」 「喫茶店に、野鳥か」 武田さんは眉間に深い谷を刻んだ。ただでさえ厳格な顔立ちが、さらに険しくなる。 (怒られる。不衛生やとか、商売を舐めとるとか、絶対に言われる) あかりが身構えた瞬間、武田さんは無言で席を立った。
カツ、カツ、と革靴の音が店内に響く。 武田さんは箱の前に立つと、ハンチングのつばを少し上げ、老眼鏡越しにじっと中を覗き込んだ。 チビは、大きな影に驚いたのか、それとも餌を期待したのか、黄色い口を大きく開けて「ピィ!」と鳴いた。
「……アホやな」 武田さんは、吐き捨てるように呟いた。 「誰が拾うてきた。トメさんか」 「いえ、ケンタです。あの、よく野球帽かぶってる……」 「ああ、あの騒がしいガキか。……ほんで、どないする。飼うんか」 「い、いえ、店で飼うわけにはいかんのですけど、とりあえず元気になったら……」 「なるかいな。こんなもん」 武田さんの言葉は、冷徹な響きを持っていた。 「巣から落ちた雛いうんはな、淘汰されたんや。人間が手ぇ出して、生きられるほど自然は甘ない」
その言葉は正論だった。けれど、必死に口を開けているチビを見ていると、あかりの奥底から、かつて自分を守ろうとした時のような熱いものが込み上げてきた。 「……でも、まだ生きてます」 あかりは、武田さんの目を真っ直ぐに見つめ返した。 「可能性が低くても、ここで見捨てるわけにはいきません。この店は、そういう場所でありたいんです」
武田さんは、少し驚いたように目を見開いた。数秒の沈黙の後、口元がわずかに歪む。 「……ほう。死んだ祖父さんに似て、頑固な目ぇしとるな」 武田さんはフンと鼻を鳴らすと、興味を失ったように背を向けようとした。 ああ、やっぱり呆れられた。そう思った矢先。
「そのスポイト、よこしてみ」 「え?」 「ええから。あと、餌。あるんやろ」
あかりが呆気にとられながら、湯煎しておいた練り餌とスポイトを差し出す。 武田さんは、ステッキをカウンターに立てかけると、その無骨な手を伸ばした。指先には、洗っても落ちきらない墨のあとが染み込んでいる。 しかし、その指の動きは驚くほど繊細だった。筆を持つ時のように、スポイトを軽く、柔らかく握る。
「……あかりちゃん。あんた、さっきチラッと見たが、やり方が雑や」 「え……」 「鳥の舌はな、人間が思うよりずっと短い。あんたみたいに正面から突っ込んだら、気管に入って肺炎起こす」 武田さんは、左手でそっとチビの頭を固定した。その手つきは、壊れ物を扱うよりも慎重で、かつ迷いがない。 「くちばしの端、ここや。ここを刺激すると、反射で口が開く」
ツン、とスポイトの先で触れると、チビがパカリと口を開けた。 「開けたら、舌の上やのうて、その奥。喉の入り口に一滴、落とすんや。……ほれ」
武田さんの指先から、黄金色の餌がポタリと落ちる。 チビは、ゴクリと喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。
「……すごい」 あかりは思わず声を上げた。昨夜、あんなに苦労したのが嘘のようだ。 「わしも、昔な……文鳥を何羽も育てた。墨を磨る時間より、餌作る時間のほうが長い時期もあったわ」 「へぇ……武田さんが」 「忘れたわ、そんな昔のこと」 武田さんは照れ隠しのようにぶっきらぼうに言うと、さらに二滴、三滴と手際よく餌を与えた。 チビが満足そうに目を細めると、武田さんは「ふん」と小さく笑い、あかりに道具を返した。 「もう、今日はこれくらいにしとけ。やりすぎは、消化不良のもとや。そのうが膨らんどるか、よう見とくんやで」
「あの、ありがとうございます、武田さん! すごいです!」 「……礼には及ばん。わしは、冷めたトーストを食う羽目になっただけや」 武田さんは席に戻り、冷めてしまったコーヒーを一口すすった。 その横顔は、店に入ってきた時の「偏屈な老人」の仮面が少し剥がれ、どこか懐かしむような、柔らかな陰影を帯びていた。
ガラガラガラッ! バタン!
その余韻を打ち砕くように、引き戸が勢いよく開いた。 「姉ちゃん! チビは!? チビ、生きてるか!? オレ、気になって寝られへんかってん!」 ランドセルを背負い、帽子も被らずに飛び込んできたのはケンタだ。髪には寝癖がついたままである。
「こら、ケンタ! 店で大声を出すな!」 あかりが注意しようとした瞬間、それより早く、雷のような怒号が飛んだ。
「やかましい!!」
店内の空気がビリリと震えた。 ケンタが「ひえっ」と声を上げて立ち止まる。 武田さんが、新聞をバサリと広げたまま、その上から鋭い眼光をケンタに向けていた。 「朝っぱらから、なんちゅう騒ぎや。ここは運動場やないぞ」 「げ! た、武田の爺さん……!」 ケンタは蛇に睨まれた蛙のように縮み上がった。トメさんが「口うるさい親戚のおばちゃん」なら、武田さんはこの界隈の子供たちにとって「雷親父」そのものなのだ。
「……なんや、お前が拾うてきたんか」 「う、うん。そやけど……」 武田さんはゆっくりと立ち上がり、ケンタを見下ろした。 「ええか、小僧。命、拾ういうことはな。可愛い可愛いだけでは済まんのや。最後まで責任持つ覚悟、あるんか」 「あ、あるわい! オレ、絶対助けるもん!」 ケンタは涙目になりながらも、必死に言い返した。 その様子を見て、武田さんの目がわずかに細められた。
「……ほう。口だけは達者やな」 武田さんは伝票を掴むと、レジに向かった。 「まあ、ええ。せいぜい気張ることやな。カラスは賢いぞ。人間が油断した隙を狙っとる」 「え……」 「あかりちゃん、釣りはいらん」 武田さんは小銭を置くと、ステッキをついて出口へ向かった。 すれ違いざま、ケンタの頭にポンと大きな手を置く。 「学校、遅刻すんなよ」
カラン、とベルを鳴らし、武田さんは朝日の中へと消えていった。
嵐が過ぎ去ったような静寂が戻る。 ケンタは自分の頭を押さえたまま、呆然としていた。 「……な、なんや今の。爺さん、怒ってへんかった?」 「うん。怒ってへんよ。むしろ、応援してくれたんやと思う」 あかりは微笑んで、箱の中のチビを指差した。 「見とき。チビ、ご飯いっぱい食べて、お腹パンパンやで。武田さんが食べさせてくれたんよ」 「え? ほんまに? あの鬼の爺さんが?」 ケンタが箱を覗き込むと、チビは満腹感からか、とろんとした目でこちらを見返した。
「……ふーん。爺さんも、意外とええとこあるんやな」 ケンタは照れくさそうに鼻の下をこすった。 「あ! やばい、ほんまに遅刻する! 行ってくるわ!」 「気をつけてね!」 ケンタは旋風のように店を飛び出していった。
あかりは一人残された店内で、武田さんが座っていた席の食器を片付けた。 空になったコーヒーカップの底に、小さな砂糖の粒が残っている。 偏屈な書道家のお爺さん。わんぱくな野球小僧。そして、都会から逃げてきた自分。 共通点など何もなさそうな三人を、この小さな、手のひらに乗るほどの命が繋いでくれた。
ガタン、ゴトン。……チン、チン、チーン。
ラッシュアワーを迎え、少し慌ただしくなったチンチン電車が、また店の前を通り過ぎていく。その車輪の響きが、あかりの心臓の鼓動と重なった気がした。
「さて、と」 あかりは背筋を伸ばし、カウンターの中へと戻る。 「今日も、ぼちぼち、やりますか」
サイフォンの火を強める。 まだ始まったばかりの大阪の朝が、コーヒーの香りと共に、ゆっくりと動き出していた。




