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喫茶すみよし  作者: 花曇り


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7/8

鬼の仮面と、本当の優しさ

重苦しい沈黙が「喫茶 すみのえ」を支配してから、三日が過ぎた。 夏の日差しは日増しに強くなり、外を歩く人々の影を濃くしていたが、店内の空気は湿った梅雨のように重かった。

ケンタは、あの日以来、学校が終わっても店に顔を出さなくなった。いつもなら店中に響き渡る彼の声がないと、チビのさえずりだけが、やけに虚しく、そして場違いに明るく店内に響いている。

あかりも、どうしていいか分からないまま、ただ時間だけが過ぎるのを待っていた。 チビは、そんな大人の事情など知る由もない。あかりの手が空くたびに「チュン!」と甘えた声を出し、止まり木から飛び立って指先に乗ろうとする。 あかりは、それを振り払うこともできず、かと言って前のように素直に撫でてやることもできず、引きつった曖昧な笑顔で指に乗せ、すぐに巣箱に戻す、という中途半端な行動を繰り返していた。

「……あかりちゃん」

その日、モーニングの客が引けた昼前の店内で、トメさんが静かに切り出した。いつもよりさらに低い、腹の底から出るような声だった。 「あんた、決めたんか。どないするか。……時間は、待ってくれへんで」

あかりは、カウンターを拭く手を止めた。 「……わからんのです。トメさんの言うことも、武田さんの言うことも、頭では痛いほど分かってます。でも……」

でも、この小さな温もりを手放すのが怖い。 自分の指を親だと信じて疑わないこの純粋な信頼を、裏切るのが怖い。 そして何より、あの危険な外の世界――カラスが飛び交い、猫が徘徊し、凍える雨が降る世界に、この無力な子を押し出すのが、たまらなく怖かった。それはまるで、自分の子供を戦場に送り出すような恐怖だった。

「そうか」 トメさんは、それ以上何も言わず、勘定をカウンターに置いて店を出ていこうとした。 その背中は、あかりの優柔不断さに失望したのか、いつもより小さく、寂しげに見えた。

(あかん) あかりの心臓がドクンと大きく打った。 (私が逃げたら、この子はどうなる? 籠の中の鳥として一生を終えるんか? それが私のしたかったことなんか?) (私が決めな、誰も決められへん)

「トメさん!」

あかりは、カウンターから飛び出し、店を出ようとするトメさんの背中に声をかけた。 「……やります。私、チビを……住吉さんの森に、返します」

トメさんは、ゆっくりと振り返った。その顔に、いつもの冗談めかした笑みはない。厳しい、師匠のような眼差しだった。 「……そうか。……そら、あんたがチビを飼い続ける言うより、何倍も難しい、いばらの道やで。自分が傷つく覚悟は、ええな?」 「はい。傷つきます」 あかりは、まっすぐトメさんの目を見て、頷いた。

「よし」 トメさんは、店に戻ってくると、再び定位置にどっかりと腰を下ろした。 「ほな、今日から『チビ野生復帰プロジェクト』の始まりや。……まず、あのバカちん、ケンタ呼び。あいつがおらな始まらん」 「え?」 「あのアホ、どうせ公園で一人でいじけて地面掘り返しとるわ。あの子が拾ってきた命や。最後まで責任取らせな、男が廃る」

トメさんに言われ、あかりが近所の公園に行くと、案の定、ケンタがブランコに座って、足元の砂場に木の枝で何かを描いていた。よく見ると、それは拙い雀の絵だった。

「ケンタ」 「……姉ちゃん」 「お店、来いひんの? チビ、寂しがってるで」 「……行かへん。どうせ、チビ、どっかやるんやろ。大人はみんなそうや」 ケンタは顔を上げず、拗ねた声で言った。

「どっかやらん。帰すんや。チビの本当のおうちに」 あかりは、ケンタの隣にしゃがみこんだ。 「せやけど、私一人じゃ無理や。ケンタが手伝ってくれな、チビは帰られへん。あの子の親代わりは、あんたと私だけやろ?」

ケンタの手が止まった。しばらく無言で俯いていたが、やがて泥のついた手でぐいと涙を拭うと、立ち上がった。 「……わかった。わい、やるわ。チビのためなら、なんでもやる」

店に戻ると、武田さんも、どこで聞きつけたのか、それとも気配で察したのか、いつもの席で難しい顔をして腕組みをしていた。 「世話係代表」のトメさんと武田さん、そして「発見者」のケンタ、「保護者」のあかり。 あの長い夜を共にした四人が、再びカウンターを囲んでいた。

「ええか」 トメさんが、軍司令官のような厳しい口調で切り出した。 「今日から、チビを甘やかすのは一切禁止や。あかりちゃん、あんたもや。指に乗せたり、撫でたり、名前呼んでかまったりするんは、今この瞬間から終わりや」

「……はい」 「チュン!」 まるで、その言葉が分かったかのように、チビが巣箱からあかりに向かって飛び立とうとする。 あかりは、胸が引き裂かれそうになるのをこらえ、ぐっと唇を噛んでチビから目をそらし、背中を向けた。 チビは、あかりが応えてくれないことに戸惑い、空中でバランスを崩して着地すると、「チュン? チュン?」と悲しそうな、問いかけるような声を上げた。 「なんで? なんで遊んでくれへんの?」と言っているようだ。

ケンタが、思わず「チビ!」と手を差し伸べそうになる。

「ケンタ!!」

武田さんの、地響きのような一喝が飛んだ。店内のグラスが震えるほどの声量だ。 「その手ぇが、チビを殺すんやぞ、言うたやろ! 野生はな、人間に甘えたらそこで終わりや! 死ぬんやぞ!」 「……っ!」 ケンタは、ビクッと肩を震わせ、泣きながら手を引っ込めた。

「次」とトメさんは冷徹に続ける。「餌や。あんたがペットショップで買うてきた、栄養満点の練り餌も、今日で終わり」 「え、ほな、何を」 「虫や。土の中におる、小さい虫。それから、猫じゃらしの種とかや。そういうのを、自分で探して、見分けて、食えるようにならな、あの子は生きていかれへん」

「虫!? やった!」 ケンタが、ようやく自分の出番だとばかりに目を輝かせた。 「まかしとけ、トメばあちゃん! あの時のミミズ、バケツ一杯捕まえてくるわ!」 「アホ。ミミズはでかすぎるわ。もっとちっこい、アブラムシとか、青虫とかや」

「う……」あかりは、思わず顔をしかめた。虫は大の苦手なのだ。 武田さんが、そんなあかりを見逃さず、鋭い視線を投げた。 「……あかりちゃん。あんたが『気色悪い』思うてるうちは、無理や。それも、チビが生きていくための『飯』や。生きるためのかてや。親鳥は、それを口移しでやるんやで。あんた、親になる覚悟はあるんか」 「……はい。すみません。やります」

あかりとケンタは、その日の午後、店の裏庭のプランターや、住吉大社の森の入り口の茂みで、必死になって小さな虫を探した。 あかりは、最初こそ悲鳴を上げそうになりながら指先で摘んでいたが、「チビのため」と念じるうちに、最後は泥だらけになって草の葉をひっくり返し、芋虫を素手で捕まえられるようになっていた。なりふり構ってはいられなかった。

店に戻り、その「獲物」を皿に入れて巣箱の前に置く。 チビは、最初、それが食べ物だと分からず、遠巻きに眺めているだけだった。いつもあかりがくれる、黄色くて甘い匂いのする練り餌を待っている。 「チビ、食べ。おいしいで」 ケンタが小声で促しても、首をかしげるばかり。

「あかん。食べへんわ。虫が動くの怖がってる」 「……しゃあないな」 あかりは、可哀想になり、スポイトの練り餌を用意しようと立ち上がった。

「待て」

武田さんが、その太い腕であかりを制した。 「腹が減ったら、食う。食わんなら、それはまだ死ぬほど腹が減ってへんだけや。人間の都合で、可哀想やからいうて餌の時間決めたらあかん。餓えを知るのも、訓練や」 非情にも聞こえる言葉だった。 だが、それが野生のルールなのだ。親鳥がいなければ、自分で獲らなければ飢え死にする。その厳しさを、今ここで教えなければならない。

結局、チビは、その日、あかりたちが閉店するまで、その皿に口をつけることはなかった。 夜、一人残った店内で、あかりは巣箱から聞こえる「チュン……チュン……(お腹すいた、ご飯ちょうだい)」という弱々しく哀れな鳴き声を聞きながら、カウンターの陰で耳を塞ぎ、声を殺して泣いた。 (ごめんね、チビ。ごめんね。私が鬼にならな、あんたは生きられへんの) (これで、ほんまにええんやろか。私がやってることは、ただの虐待なんとちゃうやろか)

翌日。 あかりが重い足取りで店の戸を開けると、巣箱からチビが弾丸のように飛び出してきた。 そして、昨日あれだけ無視していた、少し干からびかけた虫の皿に、文字通り飛びつき、夢中になってついばみ始めた。

「……食べた」

空腹が、眠っていた野生の本能に火をつけたのだ。 あかりは、嬉しさと、そして「もう私の手から離れていく」という何とも言えない切なさで、胸がいっぱいになった。

次の訓練は、「外」だった。 店の裏庭に巣箱ごと出し、外の世界の空気、風、音、光に慣れさせる。 チビは、最初こそ広すぎる空と、聞き慣れない音に怯えて巣箱から一歩も出なかったが、三日もすると好奇心が勝り、裏庭の地面をぴょんぴょんと跳ね回り、土をつつくようになった。

「ええ感じやんか! 結構いけるで!」 ケンタが、それを見て喜んだ。あかりも、少しだけ、ほっとしていた。これならいけるかもしれない。

その時だった。

「カァ―――ッ!!」

鋭い、金属を擦り合わせたような濁った鳴き声が、頭上の空気を引き裂いた。 見ると、隣の家の屋根のアンテナに、一羽の巨大なハシブトガラスが止まり、その漆黒の眼球で、じっとこちらを見下ろしていた。

「「あ!」」 チビは、その声と殺気だった視線に、凍りついた。 生まれて初めて感じる、DNAに刻み込まれた捕食者への「恐怖」。 小さな体は、恐怖で羽を逆立たせ、石のように固まって動けなくなっている。

「チビ! 逃げて!」 あかりが叫ぶ。 カラスが、屋根を蹴って、黒い矢のように低い軌道でこちらに向かって滑空してくる! 速い!

「チビ―――ッ!!」

ケンタが、とっさにそばにあったプラスチックのバケツを掴み、カラスに向かって投げつける勢いで叫んだ。 「あっち行け!!」

その瞬間、チビは、我に返った。 そして、パニックになりながらも羽ばたき、店の開いていた裏口に向かって、文字通り、転がるように飛んで逃げ込んだ。

バサッ!と音を立てて、カラスは裏庭に着地したが、獲物が店の中に消え、人間が騒いでいるのを見ると、つまらなそうに「カァ」と一声鳴き、再び悠々と飛び去っていった。

あかりとケンタは、腰が抜けたように、その場にへたり込んだ。 心臓が、耳元でドラムのように鳴っている。足の震えが止まらない。

店の中を覗くと、チビは「喫茶 すみのえ」の一番奥、あかりの厨房の、冷蔵庫と壁の隙間に逃げ込み、小刻みに震えていた。 もう、二度と外には出たくない、ここが一番安全だ、と全身で訴えているようだった。

「……あかん」 ケンタが、顔面蒼白で呟いた。 「……あんなん、無理や。あんなでかいの、勝てるわけない。チビ、外に出たら、絶対、殺される……」

あかりも、言葉が出なかった。 自分たちの手で、チビをあんな危険な目に遭わせてしまった。 「野生に返す」ということが、どれほど残酷で、無謀で、命がけのことか。 それを、今、骨身に沁みて思い知らされた。テレビで見る「感動の放鳥シーン」とはわけが違う。そこには、常に死の影があるのだ。

その夜。 閉店後の店で、落ち込んでいるあかりの元に、トメさんが現れた。 「……昼間のこと、大騒ぎやったらしいな。キヨさんから聞いたわ」

トメさんは、あかりが淹れたコーヒーを一口すすると、静かに言った。 「……そやから、言うたやろ。生半可な覚悟でできることやない、て。外の世界は、綺麗事やないんや」

「……トメさん。私、間違ってたんかもしれん」 あかりは、うつむいたまま言った。 「あの子、もう外が怖うて、冷蔵庫の裏から出てこようとせんのです。……このまま店で飼うほうが、チビにとっては、幸せやったんかもしれん。安全で、ご飯もあって……」

あかりの目から、また涙がこぼれ、テーブルに落ちた。

「……あかりちゃん」 トメさんは、コーヒーカップをカチャリと置いた。 「あんたは、自分の『優しさ』で、自分が傷つくんが怖いだけや。違うか?」

「え……」 あかりが顔を上げる。

「カラスが怖いのは、当たり前や。死ぬかもしれんのも、当たり前や。それが、外で生きるっちゅうことや。……わしら人間かて、一歩外に出たら、車に轢かれるかもしれん。病気になるかもしれん。人に裏切られるかもしれん」 トメさんの目が、あかりを真っ直ぐに見つめる。 「そやけど、それが怖いから言うて、一生、鍵かけた安全な部屋に閉じこもっとるんか? それが『生きる』っちゅうことか?」

トメさんの言葉が、あかりの胸に深く突き刺さる。 それは、チビのことだけではない。東京で傷つき、逃げるようにこの店に閉じこもっていた、自分自身に言われているようだった。 傷つくのが怖くて、安全な場所に逃げ込んだ自分。 でも、それで本当に生きてると言えるのか。

「……ほんまの優しさっちゅうのはな、時々、鬼みたいに厳しい顔しとるもんや。可哀想や、可哀想や言うて、相手の可能性を奪って安全な鳥カゴに閉じ込めとくのは、それは優しさやない。ただの『支配』や。『自己満足』や」

トメさんは、立ち上がると、まだ厨房の奥で震えているチビの気配に向かって、声をかけた。 「チビ。あんたもよう聞け。あんたの故郷ふるさとは、そんな狭い冷蔵庫の隙間とちゃう。……あの、住吉さんの、広い森やで。そこであんたは、風に乗るんや」

あかりは、トメさんの言葉を聞きながら、窓の外の闇に浮かぶ、住吉大社の森の黒いシルエットをじっと見つめた。 怖い。でも、あそこには自由がある。仲間がいる。

(私は、鬼にならなあかん) (チビが、自分の力であの森で生きるために。そして、私自身も前に進むために) (私が傷つくことを、嫌われることを、怖がったらあかん)

あかりは、涙を袖で乱暴に拭うと、冷蔵庫の隙間に向かって、これまでチビにかけたことのない、低く、強い、決意のこもった声で言った。

「チビ! いつまでそんなとこおるん! 甘えるな! 出てき!」

その声に驚いたのか、チビが隙間から顔を出した。 あかりは、もう迷わなかった。鬼の仮面の下で、誰よりもチビを愛しながら、最後の特訓を始める覚悟を決めたのだ。


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