チャプター44
〜ルーヴェンライヒ邸 一階書斎〜
「あんたー! 今まで何をしていたのか、洗いざらい吐いてもらうよ!」
それこそ竜の咆哮を思わせるような激しい怒号に、おじさんだけでなく、この場にいる全ての者が恐れおののいていた。
ただ一人、エルリッヒを除いて。
「わ、分かったから静かにしてくれ。みんなが驚いてるだろう? ほら、見てみろ」
「あ、あら、オホホホホ!」
周囲を見回したおばさんが、辺り一面と呼ぶのにふさわしいほどの勢いで周りのみんなが固まっている様子に気づいて、慌てて取り繕った。
世間知らずのお嬢様であるエルザが驚くのなら無理もないが、歴戦の勇士である伯爵や、人生経験豊富なハインツ、そして街の外で魔物や狼と戦っているはずのフォルクローレでさえも驚いていたのだから、恥ずかしい。
唯一、隣に住んで二人の夫婦喧嘩を聞き慣れているエルリッヒだけが、平気な顔をしていた。それはそれで、ありがたい事とは言い難いのだが。
「はー、驚いたー。エルちゃん、よく平気な顔をしてられるねぇ」
「ま、隣に住んでるからね」
隣に住んで聞き慣れているから。本当はそれだけが理由ではなく、竜の王女として、自身も耳をつんざく咆哮を放つ事ができるから、という理由もあった。聴覚が発達しているという事は、何も遠くの音を聞きつけるという事だけではなく、より大きな音にも耐えられる、という事も意味していた。自身の咆哮で鼓膜が破れていては、笑い話にもならない。
そんなエルリッヒが、勢いも音量もすごいと認めているのが、このおばさんの怒号なのだ。並の人間が驚くのも無理はない。
「話してくれるから、ここに呼んだんだろう? だったら、さっさとお話しよ。わざわざ貴族様のお屋敷まで借りてるんだ、きっちり話してもらうよ」
「あぁ、分かってるよ。今までさんざん心配させて、怒らせちまったんだ、その償いはできないかもしれねぇが、せめて、俺がなんでこそこそしてたのか、それだけは話させてくれ」
おじさんは真摯な面持ちで語り始めた。この表情こそが、エルリッヒの知る「名うての家具職人」のおじさんだ。力強くて、頼もしくて、安心する。
「な、なんだい新たまって。でも、そのために来たんだから、しっかり聞かせてもらうよ。でもね、もしその理由が納得できないもんだったら、分かってるね?」
再び炎が揺らめくような気迫が湧き上がっていく。この気迫を全身でを感じ取ることができるのは、おそらくエルリッヒと伯爵くらいだろう。それでも、他の三人も声色だけで十分に伝わっていた。
「あの、エルリッヒさん」
夫婦喧嘩モードに切り替わりつつあるおばさんの様子を横目に、傍に立つエルザがエルリッヒに耳打ちをしてきた。
「ん、なんですか?」
「エルリッヒさんは、いつもこのような声を聞いているのですか? おばさまという方は、いつもあのように怖いのですか?」
その表情は真剣そのもので、おばさんの様子に心底驚いているようだった。純粋培養のような箱入り娘のエルザには、さぞ恐ろしく映っているのにちがいない。
「いつもじゃないですよー。でも、あの二人の夫婦喧嘩は、コッペパン通りの名物みたいなものだから、あれが止んじゃうとね、寂しいんですよ」
「そういうものなのですね。わたしは、滅多にこのお屋敷からは出ませんから……」
「はぁ、貴族の娘は大変なんですねぇ。あたしも色んな貴族のお屋敷に出入りする事があるけど、そういう話を聞くと、羨ましいって素直には思えなくなっちゃいます」
この町の娘で、フォルクローレほど自由な者はおそらくいないであろう。大好きな研究に没頭し、寝食を疎かにするほどのめり込み、自由な時間に起き、そして眠り、街の外にも自由に行き、それでいて職人通りの住人からも一定の信頼を得ている。そして、近隣住人だけでなく、貴族や富豪からも指名で依頼が来ている。あまつさえ、王族からも内密に依頼が来ているという噂すらある。普段の生活が質素な事もあり、生活費にも苦労していない。
そして何より、貴重品である書物を多数所有している。フォルクローレという娘は、そういう、稀有な存在だった。
「そっか、フォルちゃんは朗らかなおばさんしか知らないんだよね。そうだよ? おじさんといる時は、週に一回はああして怒鳴ってたね。もっとも、普段はおじさんも負けてないし、もっとずっとくだらない理由だけどね」
そう言いながら零したエルリッヒの笑みには、日常を懐かしむ寂しさが混じっていた。たかだか数日前の事なのだが、思えば随分遠い昔のように感じられた。
「……頑張れ、おじさん」
ぽそりと、エールを送る。
「とりあえず、そこに座ってくれ」
「そうだね。それじゃ、失礼しますよ。って! なんだいこのソファ。ふかふかじゃないか! お前さんの作ってる椅子よりも立派なんじゃないかい?」
冗談とも本気とも取れないコメントに、一瞬おじさんはムッとしたが、すぐに表情を変えた。
「お前は、長年連れ添った亭主の仕事も見ていないのか。このソファは、うちの工房で作ったもんだよ。この屋敷には、何度も家具を納入してるんだ」
「という事なのですよ、奥方。少しは、ゲオルグの技量を誇っても良いのではありませんか? それが、今回の件を許す理由にはならない事くらい、重々承知しておりますがな」
穏やかに、しかし自慢げに笑った伯爵からは、友人と認めたゲオルグへの誇りと、素晴らしい家具を納入している自分のセンスへの、強い自信が見て取れた。そして、その二つは、そのままおばさんの自慢の種へと直結するはずのものだった。
「あ、あら、こりゃ悪かったねぇ。そうかい、あんたのとこが作ったのかい。やるもんだねぇ」
「だろう? 俺も捨てたもんじゃないんだぜ? っとと、話が逸れたな。俺がここ最近この屋敷に入り浸ってた理由だが、それは、ある事について、伯爵に相談していたんだよ」
少し恥ずかしそうに表情を歪めたおじさんの肩を、伯爵が軽く叩く。普通に考えたら、こんな名誉な事はない。ただの出入りの家具職人ではないのだ。エルリッヒが聞いていた話は、少しも誇張ではなかったらしい。
友人に肩を叩かれたからか、おじさんの表情からは明らかに緊張の色が抜けていた。おじさんも、まさか貴族とここまで親しくなれるとは、思いもしなかったであろう。
「ある事? ある事って、なんだい。こそこそするくらいだから、さぞかしすごい事なんだろうね」
「まあな。聞いて驚くなよ?」
少しもったいつけた様子なのは、恥ずかしさを隠すためという目的もあるようで、もどかしさが感じられる。
それが、エルリッヒを刺激した。いい加減じれったくなってきたのである。
「おじさん! いつまでもじもじしてるんですか! ここまで来たんだから、はっきり言っちゃってください! スパーンと言っちゃってください!」
「エ、エルちゃん! そうだね、もったいつけてる場合じゃないよな。俺も、覚悟を決めなきゃいけねぇよな。俺がこそこそしてたのは、お前に渡すプレゼントの相談をしてたからだ!」
「プ、プレゼント? なんだってまたこんな日に。あたしの誕生日はまだまだ先じゃないか」
怪訝そうな顔をしたおばさんに、せっかく意気込んで告白したおじさんは、魂を持って行かれそうになった。拍子抜けもいいところである。
顔を手に当てて、がっくりとした様子でため息をひとつ吐くと、改まって話しを再開した。
「お前なぁ。俺がどれだけ意を決したと思ってるんだよ」
「だって、なんの記念日でもないじゃないか。そりゃ、なんでもない日だって、プレゼントをくれるっていうんなら嬉しいけどねぇ。やっぱり、記念日の方が嬉しいだろう? それとも何かい、何かの記念日だって……あ!」
ここへきて、ようやく思い出したらしい。大きな口を開け、自らの手をそこに添える。
「そうだよ、俺たちの結婚記念日だ! ったく、まさか、忘れちまってるとは思わなかったぜ。だったらここまでこそこそしなくてもよかったじゃねぇか……はぁ〜っ!」
おじさんの落胆と安堵のこもったため息が、書斎中に響き渡った。
〜つづく〜




