チャプター43
〜ルーヴェンライヒ邸 一階書斎前〜
立派な扉を前に、緊張が走る。
「旦那様、奥方様とエルリッヒ様達をお連れしました」
ハインツが、ドアの向こうにいるであろう伯爵に声をかける。段取りはエルリッヒとエルザの提案で、全て頭に入っていた。もちろん、おじさんが落ち着いて段取り通りに進められるか、おばさんがどのような反応を見せるのかなど、不確定要素もあったが、ある程度のシミュレートはしていた。後は、慌てずに対応できるかどうかだ。
『ああ、お通ししてくれ』
「かしこまりました。さ、どうぞ」
重厚なドアが開かれると、一条の光が廊下に差し込まれる。書斎からの光だ。北向きの廊下に差し込む光は、とても眩しかった。
「お、おじゃまします……」
屋敷に続いて書斎にも、ゆっくりと伺うように足を踏み入れる。そんなおばさんの様子を伺うように、エルリッヒ達も後をに続く。
「ごきげんよう、エルザちゃん。そして、今日はこの書斎を貸していただきまして、ありがとうございます、伯爵様」
目の前にいるおじさんの姿すら目に入らない様子で余所にキョロキョロと室内を見回すおばさんと、その姿を微笑ましく思いながら挨拶を交わすエルリッヒ。フォルクローレとハインツは、対照的な二人の様子を眺めていた。こちらも、穏やかな表情をしている。
「エルリッヒさん、ごきげんよう。まぁ、こちらがおばさまとフォルクローレさんですね? けれど、おばさまは……今ご挨拶しては悪そうですね」
「では、私がご挨拶しようか。奥方、初めまして。私がこの館の主、ルーヴェンライヒと申します。ゲオルグ殿とは、数年前より親しくさせていただいております」
部屋中を見回していたおばさんの視界を遮るように、伯爵が目の前に出て、最高の表情で会釈をした。
かつて、城中の貴婦人の心を奪った笑みである。
「あら! まあ! こ、これはうちの唐変木が……じゃなくて、は、伯爵様! こっ、この度は、こんな立派な場所に呼んでいただいて!」
「奥方、そのように緊張なさらないでください。貴女の目の前にいる私は、あくまでもゲオルグの友人。気負う相手ではないのですから」
まるで口説くような物言いに、おばさんは緊張がどこかへ飛んでしまったかのように、瞳を輝かせ始めた。
「は、はい、失礼をいたしました」
そして、まるで恋する乙女のようなしおらしい物言いに変わっていった。その様子を見て、ついついエルザに耳打ちをしてしまう。
「ねえ、伯爵様って、いつもあんな感じなんですか?」
「若い頃の事は分かりませんが、普段はそのような事はないはずなんですが……なにぶんお城では騎士団勤め、男所帯のはずですし」
「いえ、旦那様は若い頃、城内のご婦人方をことごとく虜にしておいでだったのです。あの物言いで」
伯爵の若い頃を知るハインツ、こっそりエルザたちに耳打ちをしてくれる。
「!!!」
一瞬、エルザの顔が凍りついた。そして、次の瞬間、火をつけたかのように声を上げる。
「お、お父様はなんという事を!」
「エルザ様、お鎮まり下さい。貴族の子息はみなさまそのような感じでございますから、旦那様が特別珍しいわけではないのですよ。もちろん、相手のお心を虜にできるかどうかは、その方の見目や立ち居振る舞いに左右されますが」
「へぇ〜、伯爵様、意外とそういう一面もあったんですねー。騎士団のお偉いさんだし、もっと身持ちの堅い感じかと思ってました。そういうの、ちょっと嬉しいです」
エルリッヒはニコリと微笑む。その言葉と表情に、エルザは戸惑いを隠せない。父親が若いころ軽薄だったというのだから、嬉しいはずもないのに。その気持ちを理解してくれないというのか。
しかし、その表情に気づかないほど、エルリッヒは鈍感ではない。それどころか、そのよような態度を見透かしていたように、怪訝そうな瞳を見つめて囁いた。
「だって、その方が人間っぽいじゃないですか」
「っ!」
思いがけない言葉に、驚きを禁じ得ない。フォルクローレ共々、エルリッヒがなぜこのような事を言ったのか、それが気になった。
友達の価値観というものは、少しでも知っておきたいものである。そして、それが自分の価値観と少しでも一致したら、たとえようもなく嬉しいのである。
「人間的って、どういう事? そもそも人間じゃん」
「ですねぇ」
「も〜、そういう事じゃないよー。さっきも言ったでしょ? もっと身持ちの堅い感じだと思ってたって。身持ちもだけどさ、仕事が仕事だし、厳しくて冷たそうな印象もあるでしょ? でも、軟派だったって話を聞くと、ふわっと広がるでしょ? 人物像が。エルザ様は家族だからいろんな一面を見てるんだろうけど、こっちはこないだ知ったばっかりだからね。人間的な厚みって、好感度に繋がるんだよ」
後ろで穏やかに微笑むハインツの表情が、エルリッヒの意見を肯定していた。人を理解するためには、人を知らなくてはならない。そして、人を知るという事は、今見えている一面以外の面を見る、という事でもあった。真面目であるという事は、確かに素晴らしいことではあったが、そういう、生真面目な一面だけでは、疲れてしまうものである。だから、伯爵が若い頃の話といえど、軟派であったという事は、エルリッヒにとって、むしろ歓迎すべき一面だったのである。
冗談も通じないような相手では、どこか寂しい。
「さ、そんなことより、あっちのメンバーだよ。私らは、今日は脇役なんだから」
「おっと、そうでした。それじゃあ、エルザさん、あたしとの挨拶はまた後でさせてくださいね」
「ええ、是非」
勝手に盛り上がっていた三人だが、おばさんたちの話はまるで進展していなかった。色目を使ったかのような伯爵と、キラキラと瞳を輝かせるおばさん。そして、まるで忘れ去られたかのような、おじさん。
「さあ、奥方、そこのソファにゲオルグがおりますよ。彼は、奥方からの誤解を解くために、今日この場に来ておるのです。声をかけてあげてください」
「え、えぇ。そうさせていただきますわ。おほほほほ」
不気味なほどのしおらしさでもって、ソファの前に向き直る。すると、ようやくでその視界におじさんの姿が入ってきた。この書斎に入ってから、実に10分後の事である。
「よ、よぅ。久しぶりだな」
少し気まずそうに、右手を上げて挨拶をする。これが、いく日ぶりかに会った夫婦の挨拶だろうか。夫婦喧嘩というのは、そういうものなのだろうか。この辺りの感情だけは、未だに理解できなかった。友情よりも強い男女の絆というものは、かくも難しいものか。
しかし、この挨拶に面食らったのは、なにもエルリッヒだけではなかった。当のおばさんですら、この一言には、顔色を変えていた。
それまでのしおらしさが、みるみるうちに引いていく。そして、エルリッヒのよく知る、活火山のようなおばさんの姿へと、変貌して行った。一息吸い、辺り一面が静まり返ると、次の瞬間、恐ろしいまでの怒号が響き渡った。
「あんたーー!!! 今まで何してたー!!!」
「「「「!!!!!」」」」
フォルクローレ、エルザ、伯爵、そしてハインツまでが、そのあまりの迫力に、気圧された。普段からこの怒鳴り声と張り合っているはずのおじさんも、この時ばかりは、久しぶりに聞く声に、圧倒されていた。
唯一涼しい顔をしていたエルリッヒも、それはあくまで隣人として聴き慣れているからという生易しい理由ではなく、本来の姿のエルリッヒが、圧倒的な咆哮を放つ事ができるからである。そのエルリッヒをして、このおばさんの声は、決して負けていないと、そう感じていた。
それほどまでに、激しく強い思いが、込められていた。
「浮気じゃなかったのが本当だとしても、これまでの事、洗いざらい吐いてもらうからね!! 覚悟おし!!」
竜の咆哮よりもすさまじい叫びと、鬼か仁王かのような立ち姿と、まさに、そういう強さが、今のおばさんからは感じられた。
〜つづく〜




