チャプター41
〜竜の紅玉亭 夕方〜
この日、エルリッヒの帰宅は早かった。本日の用件が済んだからである。用件とは即ち、おじさんから事情を聞く事であり、それをどうおばさんに伝え、そして夫婦喧嘩を収めるか、という事の相談である。
ともすれば、解決策の出ないようなこの難問に、エルリッヒ達は全力で立ち向かった。そして、一応の善後策を見出した。それゆえ、今日のところはお開きとなったのである。
「ただいまー」
帰ってきたエルリッヒを待っていたのは、おばさんとフォルクローレの二人。予想通りの顔ぶれであった。今はちょうど仕込みの時間であり、二人は忙しそうに仕込み作業を行っていた。意外だったのは、フォルクローレまでが、おばさんにあれこれと教わりながら、仕込み作業に従事していた事である。普段なら、このような作業を手伝う姿は、到底想像できない。一体どういう心境の変化だったのか、当然、気になった。
「おかえりエルちゃん。今日は早かったんだね」
「うん、今日の要件は終わったから。詳しい話は後で話すとして、それより、フォルちゃん、どうしたんですか?」
フォルクローレという娘は、エルリッヒが知る限り研究や調合のためには寝食を惜しむが、普段の性格はずぼらそのもので、おおよそこのような家事めいた事を進んで手伝うような娘ではない。まして、家庭の食事の下ごしらえとは比較にならない食堂の仕込みであれば、尚更だ。自分には向いていない、得意ではない、等々、言葉の限りを尽くして逃れようとするのが、普段の姿である。
エルリッヒの胸に、大きな謎が去来した。
「あぁ、お世話になりっぱなしじゃ悪いって言ってね。あたしゃ最初は断ったんだよ。ほら、お台所って、自分一人の方がスムーズに進む事も多いだろ? でもね、あの子の目を見たら、断りきれなくてね。半分、一から教えるような気持ちで手伝ってもらってるよ。あの子が苦労や努力したんなら、お客さんも怒ったりはしないだろうしね」
「そういう事でしたか。確かに」
錬金術士という仕事は人を選ぶが、元来、フォルクローレ自身は人好きのする、快活な性格をした娘であった。だからこそ、お店でただ時間を潰しているだけでも、酔った客の話し相手になっていたし、人気者にもなっていた。それを考慮すれば、おばさんが手伝いの申し出を受けた事には、重々理解ができる。
それに、普段の生活が昼夜逆転のような荒れた生活をしているため、ここで少しでもエネルギーを消費すれば、それだけ夜眠たくなり、生活サイクルも改善するかもしれない。ふと、エルリッヒの脳裏にそんな打算がよぎった。
ともかくも、今はフォルクローレの手伝いを後押ししてやらねばならない。
「フォルちゃ〜ん、ナイフの持ち方、危ないよ〜!」
とっさに厨房に駆け寄り、野菜を切っていたフォルクローレの右手に自らの手を添える。エプロン姿というのも、なんだか新鮮だ。
「おおっ、エルちゃん! 今日は早かったね」
「それ、二度目。そんな事よりその持ち方じゃあ自分が怪我しちゃうよ? ほら、指先は猫の手にしないと」
姉のように母のように、不慣れなフォルクローレを指導して行った。
「あ〜、もぅ。おばさんに注意されまくったんじゃないの?」
「め、面目ない。簡単な料理は調合で代用できるし、凝った料理は酒場に行って食べてたから、料理はからっきしで」
そんなやりとりを見て、自分の娘時代を思い出しながら仕込みを続けるおばさん。お店が開くまでは、あともう少しだ。
〜その夜〜
世間よりも遅い夕食が終わると、おばさんが疲れたからと先に寝室に戻っていったのを見計らい、娘二人が話しを始めた。二人とも、話したい事があった。
「エルちゃん、結局のところ、どう話をまとめたのさ。明日そのお貴族様のお屋敷にご招待っていうだけじゃ、おばさんはともかく、あたしはなんとなくもやっとするんだよね」
そうなのだ。食事の折、今日の報告として、「明日ルーヴェンライヒ伯爵のお屋敷に一緒に」という事だけを伝えていた。それがどういう事かは、もはや説明不要だったが、フォルクローレの胸中には、どうしてそこに至ったのか、一つの疑問が湧いていた。ごくごく小さい疑問かもしれないが、気になったらとことんなのが、フォルクローレという娘だ。
「おじさん、自分の口から説明したいんだってさ。理由について。それで、どうお膳立てしようかって話になって、せっかくだからこの屋敷に招けばよい、なんて伯爵様が言ってくれて」
「へー、それじゃあ、立派な舞台で盛り上げようって作戦だね? うんうん、面白くなってきたんだねぇ」
ニコニコと頷く様子に、フォルクローレもまた事の成り行きを心配してくれていたのだと、感謝の気持ちが湧いてくる。しかし、その一方で、エルリッヒもまた、フォルーに対しては訊きたい事があった。
「それはそれとして、フォルちゃんさあ、夫婦喧嘩の仲裁に効くようなアイテムの話をしてたよねぇ。あれ、どうなった?」
「ギク!」
白々しく驚いた様子を見せる。それが本気かどうかを判断するのは、造作もなかった。本心であれば、ここまで大袈裟な態度は取らない。
事実、はじめ驚いたようなそぶりを見せたフォルクローレの表情は、次の瞬間には、得意げなものへと変わっていた。
「此の期に及んで、隠し立てはなしだからね」
「分かってますって。大丈夫大丈夫。図鑑で調べたら、簡単な材料で作れる事が分かって、もう工房に寝かせてあるから。あー、でも、一個だけなかなか手に入らない材料があったなぁ」
今度は何を言い出すつもりなのか。既に完成しているという事は、当然その材料は手に入ったという事である。そして、わざわざ話題に持ち出すという事は、何か意味があるという事である。一瞬、嫌な予感がした。
「まさか、適当な材料で代用して、効果が期待できない、なんていうんじゃない……よね?」
「まさかぁ〜! このフォルクローレさんに限って、そんないい加減なお仕事、するはずないでしょー。ただね、赤い香辛料の実と、リヒテンプラッツの花をすり下ろしたペーストがね……厄介でね」
嫌な予感が的中したような、稲妻に打たれたような感覚が走る。赤い香辛料、リヒテンプラッツ、どちらも、当然のように、心当たりがあった。
「それって……」
「正解。そこの保管庫から頂いちゃいました」
悪びれる素振りも見せず、舌を出すその姿からは、むしろ叱ってやらねばという感情が湧き上がってきた。これは親心だろうか、友情だろうか。
「その二つ! わざわざ外国から取り寄せてるんだぞー!」
おばさんが起きないよう気をつけながら、フォルクローレを叱り付ける。叱られている側も、そのような入手難度が分かっていたからこそ、勝手に拝借したのだ。もはや、覚悟はできていたようだった。
「わ、悪かったよ〜。でも、この薬は必要だったでしょ? エルちゃんはあたしのことを怒るに怒れない。違う?」
「痛いところを突いてくるね、まったく。じゃあ、銀貨五十枚で譲歩しようではないか」
フォルクローレの言い分を認めながらも、苦労して手に入れたものだ、エルリッヒとて負けてはいなかった。この駆け引き、どちらが勝ち、というほどの明確な上下関係は生まれなかったが、それでも、一方的な損得の存在しない、比較的公平な取引になった。
「ぎ、銀貨五十枚? ちょっとそれ高いんじゃないの?」
「だから、高いんだってば。だから勝手に使ったんでしょ? 今すぐじゃなくてもいいから、必ず支払ってね? これでも、結構値引きしてるつもりなんだから」
二人はそれぞれがそれぞれに、友情と商魂の間で揺れ動いていた。
「さー眠い眠い。私も寝よーっと」
「あ、ちょっと待って!」
二人は先を争うように席を立ち、エルリッヒがろうそくをろうそく立てに移すと、今度は静かに寝室へと上がっていった。
翌日は、いよいよ最後の大勝負だ。すぐさま寝息を立て始めたフォルクローレの隣で、エルリッヒは一人決意を固めた。
〜つづく〜




