チャプター40
〜ルーヴェンライヒ邸 一階書斎〜
伯爵が重厚なそのドアを開けると、そこには見慣れた顔が待っていた。おじさんである。数日前に一度顔を合わせて以来、久しぶりだ。
おじさんは、書斎の主が座るべき立派な椅子に座っていた。ここに座る事が許されるというのは、やはり親しい友人というのは事実なのだろう。
「や、やぁ」
おじさんの顔は、どこか気まずそうだった。伯爵から、こちら側の事情や気持ちを、聴かされているのかも知れない。
何より、やましい事をしているわけでもないのに、おばさんにそれをひた隠しにしているというのであれば、気まずく感じるのも無理はない。ここは一つ、明るく振る舞って、おじさんの気持ちを和らげてあげよう。
おじさんにはおじさんなりの気持ちや言い分があるはずなのだ。
「おじさん、こんにちは!」
「あぁ、エルちゃん。久しぶりだね」
おじさんはどこかよそよそしい。いよいよ事情を話さねばならないと言う緊張からか、おばさんに言いかねない心配からか。そこはもう、娘役としては信じてもらうしかないのだが、気持ちは分からないではない。何しろ、今までずっとおばさんの依頼で、尖兵として活動して来たのだから。
エルザとともに、目についたソファに腰掛けたエルリッヒは、そのまま話を続けた。
「早速ですけど、おじさんは伯爵様から、どこまで聞いてるんでしょう。わたしが、どこまで知っていて、今日はどんな話をしにここに来たか」
「多分、伯爵が知っている事は、全て聞かされていると思うよ。だから、こちらも遠慮なく話せるよ。でも、本当に、あいつにだけは、まだ言わないでくれるね? それだけは、約束だ」
やはり、そこは譲らないのか。一体どんな事情があると言うのだろう。これはますますしっかりと聞かねばならない。耳掃除をするわけではないが、まさに「耳の穴をかっぽじって」という気持ちだった。
一瞬、表情がこわばる。変な話を聴かされるわけでもなければ、危ない橋を渡るような話を聴かされるわけでもないというのに。それが健全な内容であればこそ、こうして話してくれる気になったはずなのだ。それなのに、額からは、一筋の冷や汗が垂れる。
「えと、おじさん、私はそんな約束、わざわざ言われなくても破ったりしませんよ? それとも、そんなに話したくなるような内容なんですか?」
「はは、そうだね。ここまで来た以上、俺も覚悟を決めてるし、エルちゃんの事は娘同然に思ってるくらい、信用してるよ。だけど、ついね。こんなに気の小さい男だったんだと思うと、いい歳して恥ずかしいもんだ」
力なく笑うおじさんの姿は、確かにエルリッヒの知っている姿とは、違って見えた。いつも豪快で力強くて、おばさんと喧嘩する時も、おばさんの迫力に負けずに一歩も引かないおじさん。恐らく、彼の事を知るほとんどの人間は、そういう印象を持っているはずだ。それが、今は見る影もない。
見た目の屈強さは相変わらずだというのに、表情や所作振る舞いで、こうも印象が変わる物なのか。おじさんの意外な一面を知ったと同時に、何となく、この街に来るまでの間とは、明らかに違う、より濃密な人間関係を築けているのだと、実感する。
今まで出会って来た多くの人たちとは、こうした「意外な一面」に驚かされるような事は、ほとんどなかった。あったとしても、それは内面ではなく、能力に関する事がほとんどだった。今の関係を喜ぶべきなのか、これまでの関係があっさりしていた事を、悔いるべきか。
「それで、事情を知ってる伯爵様はともかく、エルザちゃんはこの場にいても大丈夫ですか? 多分、私が首を突っ込んだ事で私と仲良くなってくれたエルザちゃんとしては、私と同じくらい、気になってると思うんです。自分の父親の隠し事なわけですし。どうでしょう」
「その通りです! お父様が隠し事なんて、信じたくありません!」
エルリッヒの隣に座り、しっかとその腕を抱いたままのエルザが力説する。エルザとしても、大事な父親が自分に隠し事をしているなどと考えたら、気が気ではないのだろう。
それを汲んでかどうかは分からないが、おじさんは表情を和らげ、こう告げた。
「エルザ様……そうですね、こうしてエルちゃんに話すからには、エルザ様にも知って頂く権利はありますね。分かりました、御同席ください」
次の瞬間、エルザの表情がほころぶ。
「っ!! ありがとうございます!」
「それじゃ、話は決まりましたね。おじさん、お願いします」
「ああ、じゃあ、話そうか」
なんとなく覚悟を決めたかのような重い深呼吸をすると、立ち上がって二人の目の前に座った。床の上に、直接。それが覚悟の現れだった。
伯爵は、館の主として、おじさんが立ち上がった後の椅子に座った。事情を知っているから、話を聴く必要はなかったが、二人の反応は気になった。何より、娘に嫌われやしないかが心配で仕方なかった。
「ごくり……」
「ドキドキ……」
好奇心むき出しの二人に対し、おじさんは重い口を開いた。
ー三十分後ー
「なっ!! そ、そんな理由でおばさんと喧嘩してたんですか!」
「まぁっ! とてもよい理由ではないですか!」
ひとしきり事情を聞いた二人は、それぞれの反応を見せた。エルザは好意的な反応だったのに対し、エルザはつい声を荒らげてしまった。その勢いに、おじさんは思わずのけぞってしまう。
「エ、エルちゃん落ち着いて! おじさんは何も悪くないだろう? 落ち着いて考えてみてくれ!」
「そりゃまぁ、そうですけど……それにしたって、もっと言いようがあったはずです! おばさんの気持ちも考えてあげてください! いらない誤解を与えたままで何日も。いいんですか?」
どうしても、おばさんの気持ちに立ってしまう。おばさんの味方になろうとしてしまう。おじさんの話してくれた事は、少しでも公平な気持ちで判断しようと決めたのに。話を聴けば、おじさんは悪くないと理解できるのに。
一瞬、胸がきゅっと痛んだ。
「っ!」
「エルちゃん!」
胸を押さえ、苦痛に顔を歪ませたその刹那、おじさんが駆け寄った。エルザが気付くよりも早く、その肩を抱いた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫、ありがとう」
こんな時でも、本当に一瞬いたかっただけなのに、おじさんは飛んできてくれた。至近距離だからなんていう事は関係ない。やっぱり、おじさんはおじさんだ。赤の他人としか見ていないのなら、あんなにすぐには反応しないだろう。
「エルリッヒさん、大丈夫ですか?」
「うん、エルザちゃんもありがとうございます。ほんと、一瞬痛かっただけですから。多分、公平に判断できなくなってて、心が痛んだんだと思います。おじさんの事も、おばさんの事も、大好きだから」
「エルちゃん……すまない」
エルリッヒの体から手を離したおじさんは、頭を垂れた。お互いがお互いについて、申し訳なく思っていた。気持ちは同じで、方向も同じなのに、どうして行き違ってしまったのだろう。お互い、おばさんの事を思えばこそすれ違ってしまったというのは、どうにも滑稽だ。
「おじさん、謝らないで。私は事情を教えてもらえてとても嬉しかったし、その理由も、浮気じゃなくてほっとしたし」
「う、浮気! エルちゃんまでそんな事を信じていたのかい?」
屋敷中に漂う濃密な香りが衣服に移ってしまえば、疑われるのも無理はないと、半ば諦めたような空気が漂う。
「半信半疑、でしたよ。でも、おばさんはそうじゃないから、これから、頑張って誤解を解いて、ちゃんと説明しなきゃですよ? 私も協力しますから、頑張りましょう!」
「あぁ、大変そうだけどな……」
おじさんの苦笑いに、ふっと場の空気が和み、エルザの顔にも伯爵の顔にも、笑みが浮かんだ。
〜つづく〜




