チャプター36
〜ルーヴェンライヒ邸 一階エントランスホール〜
エルリッヒの名前に表情が固いままの伯爵は、そのまましばらく動かないでいた。
「……お父様? お父様?」
「あ、ああ。それより、その格好は?」
「エルザさんに見立てて頂きました。背格好が違うので、なかなか似合う服を見つけるのが大変でしたけど。伯爵様、そのように表情をこわばらせないでください。私、何かしましたか?」
まるで昨日の事を忘れたかのように振る舞う。伯爵の警戒を解きたいという思いと、出方を試してやろうという思いがあった。このような態度を取られて、どんな反応をするのだろうかという、悪戯心である。
「い、いや、なんでもない……」
相変わらず歯切れの悪い言葉だが、昨日の負けを屈辱と思えばこそ、あえてその事には触れないでいるのだろうか。いずれにしろ、あまりからかっては気の毒だ。笑いをこらえながら、種を明かす。
「昨日の事なら、お気になさらないでください。料理人て、毎日重たい鍋やフライパンを扱っているから、皆さんが思っている以上に力があるんです。それと、つい頭に血が上ってしまった、というのもありますけど」
「そ、そうか。いや、昨日は将軍として恥ずかしい所をお見せした。まさか、お嬢さんのような娘に敗北を喫するとは。周りの者は、私が手加減をしたと思っているようだが……」
いささか恥ずかしそうな、ばつの悪そうな笑顔に変わった。これが本来の伯爵の人柄なのだろう。将軍として、そして伯爵として、苛烈で威厳を見せるばかりがその姿ではない、という事か。
「周りの方がそう思ってくれているのなら、それで良いのではありませんか? お父様。それより、エルリッヒさんのこのお姿、どうです? こうしていると、どこからどう見ても、高貴なご令嬢に見えませんか?」
「う、うむ、そうだな。確かに、町娘には見えぬ……」
やはり、どこか遠慮がちに、言葉を選んでいるように感じる。昨日の経験を思い出せばこそ、うっかり発言もできないのかも知れないが、これでは浮気調査どころではない。なんのためにこんな時間まで居座って、親子の団らんに水を差しているのか。
ここは、一計を案じる事にした。
「ねえエルザさん、ハインツさんや、他のメイドさん方にも見て頂きませんか?」
「まぁ、それは素敵ですね! 是非そうしましょう!」
この提案に、手を叩いて賛同してくれたエルザ。狙い通りの反応に、小さく胸を撫で下ろした。作戦はまだ中盤なのだ。
「あ、でも、もうお夕食の時間ではありませんか? だとしたら、私はそろそろおいとましないと……」
「まぁ! そんな事を気にしてらしたのですか? それでしたら、ご一緒に召し上がってからお帰りになればよろしいではありませんか。ご自宅へは、伝令をよこしますから」
しめた。作戦は概ね成功だ。エルザからの招待を待っていた。これならば、断る事はできない。後は、伯爵が首を縦に振ってくれるのを待つばかり。最後の関門だ。
企みを悟られないよう気をつけながら、遠慮がちな瞳を向けた。
「よ、よろしいのですか? ご迷惑じゃ……それに、せっかく伯爵様との団らん、他人が入っても良いものか……」
言葉に嘘はない。だが、それは半分だ。もう半分では、浮気調査のためにも、ここで一緒に食事を摂る事に賭けていた。さあ、伯爵はどう出るのだろうか。
「お父様、どうですか? エルリッヒさんも同席して、よろしいでしょうか。確か、今宵は何もなかったはず」
「う、うむ、そうだな。お前がそこまで言うのなら、私は構わんが……」
娘の頼みとあらば、無下には断れない。それが伯爵の親心であり、エルリッヒの狙いでもあった。伯爵一人の配慮であれば、精々が馬車で送り届けてくれるくらいだろう。くどいようだが、エルリッヒは浮気調査に来ているのだ。差し当たって進展のないまま、今日が終わろうとしていた。それ自体はほぼ作戦通りなので焦る事はなかったが、さすがにここで返されたのでは、作戦失敗になってしまう。まさに一点突破の計画であった。
それだけに、成功となった今の喜びはひとしおだ。
「やったー! っとと、はしたない態度を。エルザさん、伯爵様、ありがとうございます!」
「こちらこそ、とても嬉しいです! エルリッヒさんと夕食まで共にできるなんて!」
「仲が良いのだな。本物の貴族の娘でないのは残念だが、これからも仲良くしてやってくれ」
コートを脱ぎながら、伯爵は軽く頭を下げた。これほどの身分の者が、平民風情にありえない態度である。驚くとともに、エルザには友達が少ないという事の重さや、親としてそれを重く考え心配しているという事が瞬時に伝わって来た。でなければ、このような行為、屈辱にも等しいのだから。
「よ、よしてください。友達として接する事なんて、そんな大袈裟な事じゃないんですから。ただ、私がエルザちゃんの事を好きになったから一緒にいるんです。エルザちゃんも同じ気持ちでいてくれるといいですけど、そういう事なので、打算があるわけでも、哀れんでるわけでもありませんから。あ、でも、なんで貴族の娘でないのが残念なのでしょう。もしよかったら……」
貴族社会の事はやっぱりよくわからない。だから、ならではの事情があるのかもしれないが、こう言った事は、どこかで学べるような類の知識ではない。実地に教えてもらわなくては。
「何、大した事ではない。貴族の娘であれば、舞踏会や晩餐会にも連れて行けるのでな。そうすれば、エルザが寂しい思いをする事もないのだが……」
「あの、それなら、身分を偽って貴族の娘という事にしては。私は一向に構いませんから」
これはとても良い提案だ。せっかく仲良くなったのだから、もっと仲良くなろう。そして、友達の心の隙間を埋められるだなんて、なんと幸せな事だろうか。身分を明かしても信じてもらえない以上、このアイディアはまさに天啓のような気がしていた。
しかし、自慢げな気持ちのエルリッヒとは反対に、伯爵の表情は曇っていた。
「は、伯爵様、私何か変な事言いましたか?」
「変も何も、そなた今身分を偽ってと言ったではないか。身分を偽るなど、言語道断。それに、この国の貴族は、全て貴族系譜に登録され、管理されているのだ。少し調べれば、エルリッヒなる娘がこの国の貴族にいない事など、すぐにばれてしまう。そもそも、そなた姓と爵位はどうするつもりだったのだ。架空の家を創設するなど、文学家のする事ではないか」
伯爵の指摘は、逐一尤もだった。唯一答えられたのは、
「私、フルネームをエルリッヒ・フォン・ドラシェケーニヒと言います。名前だけは、偽らずそのままでも行けますよ」
「そのようだな。まさか、そのように立派な名前があろうとは、思いもしなかったが」
「お父様、それはひどくありませんか? エルリッヒさんに失礼です。それよりも、もうお食事の時間です、早く着替えて来てくださいませ」
エルザが割って入り、話はそこで終わった。結局、身分を偽ると言うアイディアには、粗が多かったという事なのだろう。
「……でも、外国の貴族の娘なら、調べようがないような……」
そのつぶやきを耳にした者は、誰もいなかった。もし伯爵が聴いていたら、なんと言っただろうか。そこにも粗はあるだろうから、それを指摘するだろうか。それとも、意外なほど乗ってくれるだろうか。少し気になったが、いざ舞踏会、いざ晩餐会と言われても堅苦しいだけなので、今の接し方が一番いいのかも知れない。
そんな事を考えながら、エルザに誘われるまま食堂に向かった。
〜つづく〜




