チャプター35
〜ルーヴェンライヒ邸 エルザの私室〜
三番目に登場した香りに、エルリッヒは一発でやられてしまった。他の香水も十分魅力的なのに、それを覆すような強い印象で、その心を鷲掴みにした。
「エルリッヒさん、この香りでよろしいんですか?」
「はい!! この香りにします! で、この香り、なんの香りなんですか?」
そういえば、詳しく聴いていなかった。特に気に入った香りなのだから、ここはしっかりとレクチャーを受けなくてはならない。そんな風に表現してしまうと少々大袈裟だが、せっかく気に入った香り、詳しい事を知っておきたい。
「この香水はですね、西の国に棲息している、水辺にしか咲かない花から取った香りなんだそうです。いい香りですよね。私も大好きなんです!」
「西の国ですか〜。どこの国だろう。私も西の国を通って来たから、行った事のある国だといいなぁ」
長い旅の末にこの街に落ち着いた経歴からか、旅を感じさせる話には、ついついテンションが上がる。もし、これが自分の通って来た国で採取された花を使っているとなれば、運命すら感じてしまう。もっとも、そこまで都合良くは考えていないのだが。
「そうですねぇ、私も、どこの国かはちょっと把握していませんから……ごめんなさい。でも、気に入って頂けて、とても嬉しいです!」
申し訳なさそうな表情から一転、明るい表情になる。勧めた事に対する自信や、自分の好きな香りである、という自覚があったのだろう。それが認められるという事は、嬉しいはずだ。
「この国では売っていないので、ちょっとお高いですし、詳細が分からないのも、難点ですけどね」
そうか、これは海外で作られているのか。この国では手に入らないから、詳細が分からないし値段も高い。でも、もしかすると原産国ではありふれているのかも知れないし、みんな知っている香りなのかも知れない。この三百年にも及ぶ人としての生で、そういった貿易や流通に関する話は、嫌という程学んできた。このような概念を持っているのは、恐らく数多の生き物の中でも、人間だけだろう。
「輸入品じゃ、しょうがないですよね。それはそうと、お仕事中でも使える香りは、どんな物を選んでくださるんですか? 実は、そっちも楽しみにしていて!」
エルザの選ぶ香りに、本当に心が浮き立つ。もはや、この芳香を胸一杯吸い込んでいるだけで、女の子としての格が上がったような気持ちになる。もちろん、それは全くの思い過ごしなのだが、こうして華やぐ気持ちがある事自体、まだまだ捨てたもんじゃないんだな、と感じる。
といっても、嬉しそうに化粧台に向かったエルザの後ろ姿を見ると、どうしようもない敗北感を味わってしまうのだが。
「ふふふ、こちらも自信の一品ですよ。と言っても、食堂に合いそうな香りともなると、手持ちではこれくらいしかないのですけれど」
と言って持って来てくれたのは、緑色の小瓶。相変わらず、かわいい小瓶ばかりだ。少しばかりの知識にある香水の瓶は、全てがこのようにかわいらしい形をしていた。女性が使う物なのだから、かわいい形にも意味はあるが、最初のうちは理解できなかった物だ。さすがに普通の人間四人分くらいの年月を生きているため、今はそのかわいさを十分に理解できるが。思えば、随分価値観が人間寄りになったものである。
「それで、この香水は、どんな香りなんですか?」
「それは、付けてのお楽しみ〜。それでは、まずは今の香りを拭き取ってしまいますね」
せっかくとても気に入った香り、それを拭き取ってしまうなんて、なんともったいない事を、と思うが、これも新たなる出会いのためである。泣く泣く、エルザのなすがままにされるのであった。
「あぁ〜、素敵な香りさん……」
「ごめんなさい。でも、こちらも素敵な香りですから!」
自信を持って勧める以上、さぞよい香りなのだろう。ひとしきり今の香りが抜けるのを待って、最後の小瓶の蓋が開けられた。
「ごくり……」
そして、先ほどまでと同じように、手の甲に一雫。すると、これまた先ほどと同じように、よい香りが辺り一面に広がる。今度の香りは……
「っ! これは……ハーブ!」
「そうなんです!! 素晴らしい香りだと思いませんか? お料理で使うハーブとは、少し違うかもしれませんが、とても良い香りでしょう?」
自信満々のエルザが勧めてくるのも無理はない。これほどの爽やかな香りは、そうそうない。普段から料理でハーブはよく使っているが、これはそのどの香りとも違う。初めて嗅ぐ香りなのに、ハーブだとすぐに分かり、その香りの良さに虜になる。これなら、確かに料理の放つ「美味しそうな香り」の邪魔をせず、それでいて負けなさそうだ。ハーブの香りとは、恐れ入った。まさか、花の香りではない香水もあったとは。やはり、世界は広い。
「この香りには、虫除けの効果もあるんです。お仕事中に使うのなら、丁度いいかもしれませんね」
「え、そうなんですか? 虫除けって、男の人が寄り付かない、ていう意味じゃないですよね? 普通の意味の、虫ですよね? どうしてなんだろう、こんなにいい香りなのに!」
こういうのを、一石二鳥と言うのだ。よい香りを身に纏い、料理の邪魔をせず、虫が寄ってくるのを防ぐ事ができる。これは素晴らしいではないか。
エルザの選択も、自分の好みも、やはり信ずるに値するものだ、と再確認させられる。胸一杯に広がる香りは、吐く息まで爽やかにしてくれそうなほどだった。
「私たちにとっていい香りでも、虫にとっては嫌な匂いなのでしょうね。不思議ですよね。気に入ってくれて、本当に嬉しいです!」
「そんな、こちらこそこんな素敵な香り達を見立ててもらって、感謝で一杯です! これで、女の子として一つ成長できました!」
適う事なら、自分がフォルクローレを見立ててあげられるほどになりたい。そのためにも、こうしてエルザから多くの事を学ばなければならない。香水というのは、その第一歩としては十分すぎる一歩だった。
「ふふふ、エルリッヒさんは何を仰っていますの? 香水など、まだまだ序の口ですよ? 一人前の淑女として成長したいのでしたら、ドレスもお作法も、しっかりと身につけなければなりませんよ? さあ、次は何を致しましょうか!」
キラリと光った瞳の奥には、強い情熱の炎が揺らめいていた。
〜数時間後〜
すっかり日も傾いた頃、ようやくエルザの情熱は下火になった。
「これで、エルリッヒさんも一人前のレディーです。もう、どこへ出しても恥ずかしくありません!」
「そんな、大袈裟ですよー」
エルザによる淑女指導は、苛烈を極めた。ドレスの着こなしからティータイムの過ごし方、文字の書き方に至るまで、徹底していた。本人曰く「広く浅く」との事であったが、十分すぎるほどの指導を、この数時間の間に受ける事になった。
「いえ、大袈裟ではありません! 本来なら、貴族の娘が何年もかけて身につけるべき物を、この数時間で物にしてしまったのですから! エルリッヒさんは、本当に街娘なのでしょうか。にわかには信じられません!」
一瞬、心臓が跳ね上がった。何かを見透かされている? ぼろを出したつもりはないし、実際に人間の高貴な娘としての教育は一切受けていない。だから、単純に生まれ持った物覚えの良さなのだろうが、エルザの見立てには、驚かされた。
「いやいや、市井の娘ですよー。今だって、町娘として成長できれば十分だったんですよ? ここまでだと、本当に見違えるようですけど!」
昨日もドレスを着させてもらったが、そちらは単純に着替えただけ、という感覚だったのに対し、作法まで叩き込まれた今は、すっかり貴族の娘である。いやいや、矜持としては、竜族の王女そのものであった。
「なんか、高貴な生まれじゃないかって思えて来ましたよ!」
「そうでしょう? 身なりや仕草一つで、変わる物なのです。だから、私もあの香水を、いつも身につけるようにしているんです」
二人はすっかり気分が良くなり、淑女トークに花を咲かせていた。
「さて、それではこのまま下に降りて、皆を驚かせに参りましょう」
「あ、それはいいですね。エルザちゃん……もといエルザさんはともかく、私はこのような格好ですから」
先ほど叩き込まれた作法で、努めて綺麗な言葉を使おうとする。こんな事は、初めてだ。庶民の娘としての三百年が、まるで塗り替えられて行くような、不思議な感覚だった。
それとも、これは庶民の娘としてのメッキを剥がし、王女としての本来の姿を露にしただけなのだろうか。どちらかを自分で決められるとしたら、後者でありたい。そんな風に考えた。
「それでは、参りましょう」
「ええ!」
二人は元気よく、部屋を後にした。そして……
「なんだ、客人か……」
エントランスホールで、思わぬ人物と出会った。
「お、お父様!」
「は、伯爵様!」
そう。昨日出会い、なぜか手合わせまでを経験した、この屋敷の主、ルーヴェンライヒ伯爵その人である。
ちょうど、城から帰宅した所だったようだ。エルザ達二人の出迎えに、驚きも喜びも見せなかったが、内心はそうでもない違いなかった。明らかに、気配に動揺が感じられた。
「して、そちらのお嬢さんは、どちらの家の娘さんか? このような時間までいる、というのもあまり感心しないが、何より、お前に貴族の友達がいたというのは、意外だった……」
「いえ、あの、そういう事ではないのです。こちら、昨日もお会いした、エルリッヒさんです。覚えておいでですよね?」
それは、伯爵にとって忘れもしない名前だった。一瞬にして、顔が引きつる。そして、無理矢理穏やかな表情を作り、平静を装い、
「ああ、もちろんだとも。娘の友達だ、忘れるわけがなかろう」
とだけ言った。
やはり、昨日の手合わせが、響いている様子だった。
〜つづく〜




