チャプター34
〜ルーヴェンライヒ邸 二階〜
舌がとろけそうになるほどの料理と他愛ない会話による、めくるめく昼食を終えると、二人はエルザの私室に移動した。
幸いな事に、今日は舞踏会で外出したり、手習いの先生が来るような予定がなかった。本当に、運がよかったとしか言いようがない。
「それで、今日はどのような御用向きでいらしたんですか?」
昨日も座ったふかふかのソファに座ると、エルザが当然の疑問を投げかけて来た。言われてみればそうだ、ハインツには説明したが、エルザには一言も話していない。
「えっと、昨日の続きなんですけど、浮気調査の続きです。おじさんか伯爵様に事情を聞けたらと思って」
エルザには直接関係ない話題でも、喜ぶのには十分な理由だった。こうして寂しく暇な一日を過ごすはずだったのが、楽しい一日になっているのだから。
「そうでしたか。でも、ゲオルグ様はいらっしゃる予定がありませんし、お父様も夜までお城ですし」
残念半分嬉しさ半分といった様子のエルザからは、訪ねて来たエルリッヒを独占できると言う強い喜びが感じられた。思い返せばフォルクローレ以外同性の友人がいなかったエルリッヒも、置かれている孤独はあまり変わらないように感じられた。確かに、普段から地域のみんなに囲まれているから、孤独とは無縁なのだ。メイドやハインツのような、忠実な使用人に囲まれて暮らしているエルザが孤独を感じているのと、何が違うのだろう。
そんな思いが脳裏をよぎりつつも、口元に人差し指を添えながら、今日の時間の使い方を考えた。
「そうですかー。じゃあ、話は聴けそうにないかもしれませんね。っとと、あの香辛料を売ってもらうお許しをもらわなきゃならないから、その時に訊けばいいか。できれば、今日だといいんですけどねー。それより!」
「な、なんでしょう???」
がばりと身を乗り出し、隣で座るエルザに詰め寄る。この機会に、先ほど浮かんだ質問をぶつけてみるのだ。フォルクローレとは違い、エルザは絵に描いたような「素敵な女の子」であり、女の子として学ぶ所は余りにも多かった。
その、勝手に引き合いに出したフォルクローレでさえ、エルリッヒからすれば、女の子として学ぶ事があるのだから、エルザに学べば、「女子道」を極める事も可能だろう。それくらいの期待を抱いてしまう。
「あの! 香水! 香水をつけるとしたら、どんな香りがいいんでしょう! 私、あんまり詳しくないから、色々教えてほしくて! 他にも!」
「こ、香水ですか?」
突然の相談に戸惑いながらも、エルザは優しい表情を変える事はなかった。相変わらず、いい匂いがする。
エルリッヒはエルザの手を取ると、事情、いやさその気持ちを説明し始めた。
「今まで、香水なんてほとんど使った事がなくて、食べ物を扱う仕事だから、香水をつけちゃいけないっていう事情があるんだけど、こないだ、別の友達に、獣の匂いがするって言われて、それで、ずっと気にしてて、エルザちゃんなら、私に似合う香水を見繕ってくれるかなって思って、それで、相談したんですけど……大丈夫ですか? せっかくだから、女の子らしさを学びたいと思って……」
「そうでしたか、そういう事だったんですね。それでは、淑女の端くれとして、しっかりレクチャーさせて頂きます!」
強く握り返してくれたその手のぬくもりと共に、心にも暖かな物が広がる。これが安心なのだろうか、期待なのだろうか。とにもかくにも、エルザが乗り気になってくれた事が嬉しい。
勢い良く立ち上がったエルザは、部屋の隅に置かれた化粧台に向かった。まずは手持ちの香水を見繕ってくれるという事のようだ。
「それでは、始めましょう。まずは、お仕事の時にも付けられる香水と、お仕事がない時に付ける香水を選びます。どんな香りが好みか、希望はありますか?」
「希望……そうですねぇ。あんまり香りが強いのは好きじゃないかなー。後は、花の香りか爽やかな香りがいいかも。ありますか?」
普段香水をつける事がないため、漠然とした希望しか出せない。しかし、それを聴いたエルザは、机の上に並べた小瓶からいくつかを手に取り、エルリッヒの元に見せた。どれもまるで魔法の薬でも入っているかのような、おしゃれでかわいい小瓶だ。
色とりどりの小瓶からは、既にかすかにいい匂いがしている。それが、少しずつ混じり合っているはずなのに、不愉快ではない。
「それでは、まずはお仕事とは関係ない時に使うものから選びましょうか。まずこれは、北の国で取れる花から作られた香水です。瓶の紫色は、花の色から取られているんです。香水自体は、無色ですけどね」
説明をしながら、エルリッヒの手の甲に一滴垂らす。それだけで、辺り一面にふわり、と甘い香りが広がった。無意識に、心が色めきだつ。
「わぁ! 素敵ですね!」
「ええ、そうなんです! 少し、香りの甘さが強いんですけど、どうでしょう」
すぐに答えを出してしまいそうになるほどいい香りだが、まだエルザの用意した香水は二種類ある。その香りを嗅がずして、どうして結論を出せようか。
一旦、緩く首を横に振る。次の香りが待っているのだ。
「そうですね、じゃあ、次はこちらを」
それは、淡い緑色の小瓶だった。こちらはどんな香りがするのだろう。考えただけでワクワクする。その逸る気持ちを抑えるように、エルザは手の甲に付いた香水をハンカチで丁寧に拭いてくれた。この香りを拭わなければ、次の香りは試せない。
「それでは、行きますね」
二種類目の小瓶を開ける。すると、次に広がったのはまるで草原のような香りだった。かつて駆けた草原を思い出す、とても懐かしい香りだった。
「あ……」
「もしかして、この香りに覚えが?」
覚えがあるどころの話ではなかった。どのように香りを抽出しているのか分からなかったが、まさしく草原の、爽やかな草の香りなのである。
「これは、爽やかな香りとして選んでみました。まさか覚えがあるだなんて、驚きました……」
「私、外の国から来ましたから、この香りのする草原を駆けた事があるんですよ。つい、その時の記憶を思い出してしまって」
瞳が見据える先は、遠い昔の記憶。確かに爽やかで、しかも懐かしい香りとあっては、心が躍らないはずはない。しかし、それでも結論はまだ出せない。
「でも、最後の香りを嗅がないうちからは結論出せないですから、最後の香りもお願いします!」
「そうですよね。わたしも、せっかく用意した香り、楽しんで頂かないともったいないですし!」
すっかりノリノリのエルザが、先ほどと同じように香水の付いた手を拭いてくれる。思えば、このハンカチも、シルクだろうかとても手触りが良い。本当に、貴族というのは何から何まで、まるで違うのだという事を、強く思い知らされる。
それでも、不思議と嫉妬はない。エルザの人柄のせいか、それとも、自分が王族だからか、普段の暮らしに満足しているからか。考えてみると、その全てが少しずつ合わさって、嫉妬心とは無縁の気持ちを生んでいるのだろう。そう結論づけた。
「それでは、これが私の選んだ最後の香りです」
「ドキドキ」
最後の一雫が、手の上に落とされる。水色の小瓶から流れた透明の香水が、辺り一面を新しい香りで包んだ。
「この香り!!」
「どうですか? これも、素晴らしい香りでしょう?」
それは、湖に咲く一輪の花を連想させる、そんな香りだった。華やかでいて、控えめで、清楚で、なおかつ爽やかな風合いがあって。
一瞬にして、エルリッヒの心をつかんでしまった。
「これにします……」
少し惚けたような声色での即答には、エルザが驚いたほどだった。それほどまでに、この香りの持つ魅力は強烈だった。
〜つづく〜




