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チャプター32

〜午前中 エッセン通り〜



 エルリッヒはエッセン通りにいた。

 朝、店の掃除をし、おばさんが仕入れから帰ってくるのを待ち、三人で朝食をとった後、仕込みを少し手伝ってから、この日の調査に向かった。

 本当なら、フォルクローレも途中までは同伴し、アトリエに帰るべきなのだろうが、本人がもう少しのんびりしたいというので、仕方なくそれを聞き入れた。夫婦喧嘩を仲直りさせる薬とやらの調合に取りかかってほしいのだが、急かして早く仕上げてくれるような性格ではない。こちらの事態の進展を感じ取ってくれるくらいでも、問題はなかろうと思った。

 この日訪ねるのは、昨日と同じルーヴェンライヒ邸だ。ここまで情報が手に入っている以上、後は直接話を訊くのみ。今日、おじさんがやってくるかどうかについては、なんの保証もない。だが、ここでなら、何かを知っている他の誰かの話を聴くくらいはできる。情報収集には、十分だ。

 コッペパン通りからは少し遠いエッセン通りでも、足取りが軽いからか、それが特に負担には感じられない。むしろ、食後の運動としては程よいくらいだ。

 差し込む朝日はすでに高く登っており、道を行き交う人の姿も多い。あまり早くに押し掛けても、エルザ達屋敷の人間の迷惑になるだけだから、仕込みの手伝いまでを行ってから出発した事は、のんびりしたというわけではない。

 途中、幾人かの顔見知りと挨拶をし、談笑しながらの道行きは、やはり楽しかった。もちろん、それはエッセン通りに近付くにつれ、少なくなって行ったのだが。

「あー疲れたー」

 途中、リーベガルテンと言う小さい公園のベンチで休憩をし、わずかな体力の回復を行うと、再び出発する。

 そんな、気ままでのどかな行路である。


 結局、屋敷の門に辿り着いた頃には、もうお昼近くになっていた。


「さて、今日は堂々と入るぞ」

 昨日とは違い、こそこそする必要はない。顔見知りとして訪問すればよいのだから、とても気楽だ。

 と言っても、屋敷は敷地の奥にあるため、そこまでの道のりは長いのだが、足取りは軽い。ここまでも休み休み来ているため、体力には十分な余裕がある。木立の並ぶ道を、ただひたすらに歩き続けた。



「ごめんくださ〜い!」

 屋敷の前まで辿り着くと、ドアに据え付けられたライオンノッカーを叩く。相変わらず、屋敷の周りの庭園は美しい。結局、昨日は屋敷に忍び込んだという都合上、この場所から眺める庭園はまるで目に入らなかった。よく、手入れがされている。

 この花を、庭園を眺めているだけで、いくらでも時間が過ごせそうだった。

『はい、どなたでしょう。今日の来客予定はなかったはずです。それに、旦那様はもう登城なさっておりますが』

 中から、ハインツの声がする。そうか、執事であれば、こういう窓口をするのだろう。それに、声はすれども姿は表さない。恐らく、用心しての事だろう。貴族には、平民には想像できない苦労があるものだ。

 こういう所、竜社会はとてもシンプルだ。

「あのー、私、エルリッヒです! 昨日お世話になった! どうか扉を開けてください!」

 分厚い扉越しにもしっかり届くよう声を張り上げる。いくらアポイントがないからと言って、顔見知りを無碍に追い返すような事はするまい。

 アポイントがないのに貴族の屋敷に押し掛けているのは事実、少しだけ心配ではあったが、ハインツを信じる事にした。

『エルリッヒ様、ですか? アポイントは頂いていないようですが、どのような御用向きでしょうか。お待ちください』

 ガチャガチャと鍵を開ける音がして、閉じられた門扉が開けられる。この扉一枚が、どれほどの距離を産んでいる事か。

「エルリッヒ様、どうなさいましたか?」

「ハインツさん、ありがとうございます。ゲオルグおじさんの浮気調査の件でお邪魔しました。エルザちゃんに会わせてもらえませんか? 予定がなければ、ですけど」

 おそるおそる、伺ってみる。来客の予定はないそうだが、出かける予定はあるかも知れない。新しいドレスの仕立てに、どこかのお屋敷での舞踏会に、などなど。貴族の娘ともなれば、その日常は多忙なはずだ。

「お嬢様は今日は一日お屋敷におられますが……しばしお待ちください。私は判断権までは与えられておりませんので、お嬢様に伺って参ります」

「お願いします」

 そこまですんなりとは行かないだろうと思っていたので、どちらかと言えば今は順調に予定が進んでいると言ってもいい状況だった。どれだけ時間が掛かろうと、この庭園を見ているだけで十分に時間は潰せる。

 一旦閉じられた扉を前に、すぐさま踵を返した。

「んー、一面花の香りで一杯! いい香り〜!」

 咲き誇る花を見て心が弾むのは、自分の中の乙女心が響いているからだろう。この香りに酔いしれるのも、女の子だからだろう。

 その自覚に、ついつい安堵する。

「やっぱ、私もこれくらいの香水をつけるべきなのかな。いやいや、でも普段食べ物を扱うんだから、余計な香りはやっぱり邪魔になっちゃうし、う〜ん……」

 一人頭を抱えて悩んでいた所に、先ほど閉じられた扉が再び開いた。

「エルリッヒ様。お待たせしました」

「あっ、はい!」

 ハインツに声をかけられ、慌てて振り返る。相変わらず穏やかな笑みを浮かべるその表情からは、真意が読み取れない。やはり、百戦錬磨なのだろう。

 ドキドキしながらハインツの前に立つ。果たして、どのような回答が得られるのだろうか。

「お嬢様は、是非にと仰っておいでです。どうぞ」

 一瞬にして、柔和な表情に変わる。こちらは感情が読み取れる。よかった、まずは第一関門クリアーだ。

 ハインツによくよく礼を言うと、早速屋敷の中に足を踏み入れた。相変わらずとてつもなく豪奢で、相変わらず、あの薔薇の香水の香りがする。

 そうだ、香水を付けるべきかどうか、エルザに相談してみよう。それくらいの時間は十分にある。

 高すぎる吹き抜けの天井を見上げ、ハインツにエルザの居所を尋ねる。

「それで、エルザちゃんはどちらに? 部屋ですか?」

「いえ、この時間は食堂においでです。もう、昼食の時間ですので」

 言われてはたと気づく。そうか、言われてみればもうそんな時間か。すっかり忘れていた。できれば、そういう時間は避けたかったのだが。

「す、すみませんっ! こんな時間じゃご迷惑でしたよね!」

 慌てて頭を足れる。視界を、一つに結わえた赤毛が覆う。これでは、食事をたかりに来たようなものではないか。もちろんそんなつもりではない。

「エルリッヒ様、顔をお上げください。私どもは、そのように思ってはおりませんよ。もしよろしければ、ご一緒にどうですか? こちらこそ、ご迷惑でなければ、ですが」

「い、いいんですか?」

 ゆっくりと、そして恐る恐る顔を上げると、そこには穏やかに微笑むハインツの姿がある。先ほどと同じ、心の扉を開け放っている時の表情だ。

「もちろん。それよりも、お一人でお食事をなさっているお嬢様に、どうか寄り添ってあげてください。エルリッヒ様は、お嬢様にとって初めての気の置けぬ友なのです。どうか、お嬢様の孤独を、少しでも和らげてあげてください」

「ちょっ、そんな大袈裟な。えと……友達として大切に思ってくれてるのはとっても嬉しいですし、ありがたいんですけど、他のお友達は、その……いないんですか? 例えば、他の貴族の家には」

 貴族社会の事はよくわからない。エルザの雰囲気や性格からすれば、友達は多そうである。だが、ハインツの真摯な瞳を見れば、これが嘘でない事はよくわかる。昨日感じた、なんとなく寂しそうにしていた事も、同じ理由なのだろう。

「どこかで聞き及んでいるかもしれませんが、貴族社会というのは、華やかな一方では体面を重視する社会、だから、本音は決して見せません。よほどの事がない限り、貴族というのは、他家の者とは親しくしないのです。ですから……」

「ハインツさん、それ以上言わないでください。私がエルザちゃんの友達だと言う事は、損得抜きの話です。私が一緒に食事をするだけで救いになるのなら、一石三鳥ですよ。それじゃ、一緒にお食事させて頂きますね! 食堂までのご案内、お願いします!」

「はい、よろこんで」

 そうして、エルリッヒはハインツに案内され、食堂へと赴いた。



〜つづく〜

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