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チャプター31

〜竜の紅玉亭 二階の私室〜



 朝、まだ日の登らない薄もやの掛かる時刻、おばさんはゆっくりと起きだす。ここ数日ですっかり身に付いてしまった、朝の仕入れの時間だ。

 立ち並ぶ家屋で見えはしないが、遠く地平の彼方、うっすらと顔をのぞかせているはずの太陽が、わずかに空を明るく染め上げていた。

 冬の朝はまるで凍り付いているかのような空気で、かすかに差し込む光が照らす息は、白く輝いていた。

 朝から強いお酒を飲んで体を温める人がいるというのも、納得である。

「さてと」

 何十年経験しても慣れないこの寒さに折り合いをつけ、着替えるべく起き上がる。不意に窓際のベッドを見ると、当然のようにそこには安らかな顔を浮かべて眠るエルリッヒがいるはずだった。

 が、よく目を凝らしてみると、何かが違う。

「? おやまぁ」

 エルリッヒとフォルクローレが、まるで抱き合うように顔を突き合わせて眠っているではないか。寒い季節、この方が温かいのだろうと考えると、まるで娘でも見るような気持ちがわいてくる。

 普段なら起こす所だが、昨日は色々あって疲れたのだろう。今しばらくそのままで寝かせておく事にした。後で、仕込みや掃除だけでもやってくれれば、本来の家主としては十分だ。

「さてと、行くかね」

 手早く着替えを済ませると、物音を立てないよう気をつけながら階下へ降りて行った。




ー数時間後ー



「んん……」

 次に目を覚ましたのは、エルリッヒだった。差し込む朝日が眩しい。元々人間より過敏だという事もあるが、さすがにこの光では、目が覚めてしまう。

 これで起きられないとなると、それはよほど疲れているという事だ。とりあえず、そこまで疲れてはいなかったらしい。自分でもほっとする。

 そうしてゆっくりと目を開けると、

「なっ!!」

 目の前には安らかに寝息を立てるフォルクローレが。それも、口づけできそうなほどの至近距離である。そして、なんだか右腕が痛い。

 そういえば、ばかりに思い出す。昨日はお仕置きがてら思い切り抱きしめてやったんだった。しかも、そのまま眠ってしまったんだった。右腕は、フォルクローレの体に下敷きになっていた。

 なんとか、起こさずに腕を抜けまいか。

「ん〜」

 軽く思案し、物は試しにとゆっくりと腕を引き抜いてみる。するとどうだろう、意外なほどあっさりと腕は抜けた。

 よし、これで起きる事ができる。まだ少し痛み、痺れも残っているが、日常生活には困らないだろう。お店を手伝い、今も仕入れに行ってくれているはずのおばさんを、少しでも手伝わねば。

 先ほどのおばさんと同じように、こちらを向きいて眠っているフォルクローレを起こさないよう気をつけながら、静かにベッドから出て、これまた静かに着替えた。

 音を立てないようにというのは、思いの外に気を遣う。

「よっと、こんなもんか。おばさんも、こんな感じで気付かれないよう着替えたのかな。気を遣わせてしまった……」

 のほほんと眠っていた事に少しばかりの罪悪感を覚えつつ、眼下の眠り姫よりはましだ、と思った。

「ほんと、よく眠ること。この眠り姫は、王女様のキスじゃ起きないかしらね」

 気配を殺しながら、ゆっくりと顔を近づけ、髪を手で押さえつつ、まるで物語の中の王子様のように、優しくその頬に口づけをした。

「……当然、起きるわけないか」

 そう呟いた瞬間、ふと大事な事に気がつき、戦慄する。

「っ!!」

 そして、慌てて体を離すと、わなわなと震えながらフォルクローレに視線を向ける。

(わ、私は何をやってるんだ! もしかして、オス化しつつある?)

 恐ろしい考えが脳裏をよぎった。確かに、ゲートムントやツァイネといった男性に恋愛感情を抱いた事はないし、これまでもなかった。でも、それは自分が人間ではないから、人間に対する感情が一線を越えないだけだと思っていた。三百年余りも人間社会で暮らしていれば、そういう意識の違いは薄れているはずだ。それが、まさか女の子相手にこのような事をしでかそうとは。自分で自分が信じられなかった。

「っ!!」

 慌てて己の体をまさぐってみる。もしかしたら、こういう所からも変化があるかも知れない。本来の体はまだしも、人間の時の体は。

「ほっ、よかった、おかしな事はないや」

 着替えの時の記憶や、服の上からの手触り、それに声は、まだ人間の若い娘のものだ。じゃあ、精神から? もしそうだとすると、それこそ体がどうであれ関係ない事になる。そして、それはそれで厄介だ。

(そもそも、女の子ってなんだ? 何を持って女の子なんだろう……)

 急に、哲学的な事を考えだしてしまう。自分が惚れるような最強の雄火竜に出会う事が、残りの長い生涯であるのかどうかは分からないが、恐らくは異性に恋い焦がれるとしたら、そういう相手になるはずだ。そんざいするかどうかも分からない相手というのは、いささか以上に不安定な話だが、やはり、人間にはそういう感情は抱けない。もう百年でも暮らせばどうなるか分からないが、よほど自分の価値観、もっと言ってしまうと生き物としての生理的な思考が揺らぐほどの出来事でもあれば分からないが、今の所はそのような予定はない。

 では、この感情、感覚はどこから? これは、紛れもなく女の子としては異常な部類になるはずだ。

 少しばかり、首筋に悪寒が走った。

(私の心、なんか変になってる?)

 例えばそれは、知識としては知っているし理解もできる、ゲートムント達二人が向ける自分への思慕をかわすために、無意識のうちに自らの精神性を変革させたのかもしれないし、フォルクローレの頬に口づけしたり、抱きしめられたりするうちに、眠っていた感情が芽生えたのかも知れない。いずれにしろ、正常からは少し外れているような気がして、怖くなった。

(ど、どこかで軌道修正できるかしら。それとも……)

 どう考えても、あの心地よい感触や不意に抱きしめられた時のよい香りは、性別によって受け止め方の変わるような物ではないはずだ。だったら、まだ正常な範囲なのではないか。一瞬にして、そんな考えがどこからか降りて来た。

 だとすれば、深く悩む事はない。今まで通りに過ごせばよいだけだ。心の赴くまま、楽しく、気楽に。

「とりあえず、悩んでても始まらない、か」

 考えて結論が出るような事でも、誰かに相談できるような事でもない。やはり、今はこのまま過ごすのが一番いいだろう。

 一転晴れがましいを作ると、意気揚々と部屋を出て行った。今日やるべき事は、もう決まっているのだ。そこで、少しでも前に進めば。

 だが、今はまずその前に、朝の掃除や朝食の準備が先だ。仕入れを終えて帰ってくるおばさんを、少しでも助けなければ。それに、いずれ起きてくるフォルクローレに、少しでもわがままを言わせないために、先回りしておかなければ。

「なんか、お姉ちゃんになった気分かも」

 温かくきしむ階段を下りながら、またしても新たな発見をしたような気持ちになる。そうだ、それが一番しっくり来るのかも知れない。

 フォルクローレの事は友達だけど、お姉さん役なのだ。だから、時として妹分は意見もするし、鋭い事も言うし、けれどこちらで色々と助けてあげたくなってしまう。

 末の妹として産まれながらこのような境地に至るというのも、面白いものだ、長生きはするものだ、と実感する。

 まだ、竜王族の生涯としては、人間で言う若い娘程度の年数しか生きていないのだが。

「ふふっ」

 なんとなくおかしくなって、軽い笑顔を浮かべながら、いつもの戦場、誰もいない、薄暗いキッチンに降り立った。



 さあ、朝の支度を始めよう。




〜つづく〜

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