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チャプター28

〜ルーヴェンライヒ邸 エルザの部屋〜



「……はっ!」

 不意に、目が覚めた。辺りは茜色に染まっている。寝ぼけ眼で窓の外を見ると、オレンジ色の光が眩しい。太陽って、あんなに大きかったっけ。

 次第に、意識の混濁が薄らいでゆく。今がどういう状況で、ここがどこで、どういう経緯だったのか。

「ゆ、夕方? しまった、お店!」

「ん……エルリッヒ……さん?」

 エルリッヒの声に、隣で寝ていたエルザも目を覚ましたようだ。一体この午睡は何時間だったのだろうか。日の高さでしか分からない。冬の日が短いとはいえ、それなりの時間眠っていた事は間違いない。

 初めて使うようなふかふかのベッドで眠ったせいか、披露は結構取れているようだ。これならば、夜のキッチンにも立てそうだ。

 慌てて居住まいを正すと、まだうとうとしているエルザの手を取った。

「エルザちゃん、今日は色々ありがとうございました。今日の所はもう日が暮れるから帰りますね。でも、必ずまた伺いますから」

 咄嗟の事に、戸惑いながらもそれによってエルザの意識もはっきりしてきた。徐々に、眠そうな目が見開かれて行く。

「エルリッヒさん、それなら、当家の馬車をお使いください。お友達として、少し名前の似た者同士として、それくらい、させてくださいな。それに、走るよりも、速いですよ?」

「それ、本当ですか! ありがとうございますっ!!」

 本来の姿なら、ここから家まではひとっ飛びである。がしかし、人間の体ではそうはいかない。人間を凌駕する体力を持っていたとしても、姿形のサイズはいかんともしがたい。ましてや走りにくい石畳の道である。馬車が使えるのなら、こんなに好都合な事はない。

 二つ返事でこの申し出を受けた。



〜同じ頃 竜の紅玉亭〜



「エルちゃん、遅いねぇ」

「ホントですねー」

 お店では、夜の開店準備をしながら、おばさんが心配していた。エルリッヒの帰りがこんなに遅かった事は、この数日一度もなかったのだ。

 夕べの今日とばかりに訪ねて来たフォルクローレも、その帰りを待ちわびる一人だった。キッチンで忙しく支度をするおばさんに対し、カウンターに座り、足をぶらぶらともてあましている様子からは、ただ暇をしているようにしか見えなかったが。

「心配だねぇ」

「ですよねー。どこまで行って、何をしてるんでしょうね」

 今まで、日暮れまで出かけるような事はなかった。心配しない方がおかしいのである。二人は、エルリッヒの腕っ節を知らない。治安のいいこの国でも、若い娘が夜に出歩くのは感心する事ではないのだ。

 ついつい、仕込みの手にも身が入らない。

「ホント、遅いねぇ」

「ですねぇ」

 何度となく、同じような会話を繰り広げた頃、フォルクローレが物音に気付いた。耳をそばだてて、もっとよく聞こうとする。フォルクローレの記憶が確かならば、それはこのような時間のこの場所で聴こえるのがいささか不自然な音なのだ。

「……フォルクローレちゃん?」

「フォルでいいです。ちょっと、音が……この音は……」

 パカパカ、ガラガラという音が、段々大きくなって行く。明らかに、馬車が近付いてくる音だ。

 おばさんは普段縁遠いのか、あまり関心を示していないが、職人通りは馬車の往来も多い。当然、耳に覚えのある音だった。

「おばさん、馬車が近付いてますね。もしかして、エルちゃんかも」

「エルちゃんが馬車? それはないんじゃないかい? あの子が一人で馬車に乗るなんて、滅多にある事じゃないよ?」

 庶民にとって、馬車は贅沢な乗り物だ。国一番の敷地を誇る王都と言えど、庶民にとっては町中全てが徒歩圏内だ。それを馬車で移動するのは、貴族だけだと相場が決まっていた。

 事実、エルリッヒは日々の仕入れに、歩くどころか荷車を引いて向かっている。確かに、貴族なら馬車を使うかもしれない距離だが、少なくとも庶民にその考えはない。

 そのような事情から、一般市民が馬車を使うのは、もっぱら余所の町へ出かける時と相場が決まっていた。

「でも、エルちゃんじゃないにしても、一体どこの誰がこんな時間に馬車んなんか……」

 フォルクローレが椅子から降り、外に出ようとしたそのタイミングで、車輪と馬の足音が止まった。今までで、一番近い。

「まさか!」

 これにはさすがのおばさんも駆け足で出て行く。本当に、エルリッヒかもしれないのだ。心配する気持ちの強さが、足の剥く速度に現れていた。



 ドアを開け、二人して店の外に出ると、そこには確かに一台の馬車が停まっていた。しかし、それは二人の想像していた馬車とは、大きく違っていた。

「これ、本当にここでいいのかねぇ」

「……ですね」

 それは二人がまるで見た事のないような、とても豪奢な馬車。四頭立てで、外も豪華だが、中はカーテンが掛けられており窺い知る事が出来ない。ランタンの灯りだけが、周囲を小さく照らしている。 

「お嬢様、到着でございます」

 御者台から降りて来たのも、身なりの良い御者だった。明らかに、どこかの豪邸で使えていそうな男である。身なりだけでなく、立ち居振る舞いの全てが、このコッペパン通りには不釣り合いだった。

 御者がゆっくりとドアを開けて行く。真っ暗なドアが開くと、急にふわっと花の香りが広がる。

「あっ、この匂い!」

 瞬時にして、おばさんの顔が驚きに包まれる。それはそうだろう。何しろ、浮気相手の付けている香水なのだから。

 という事は、今から降りてくるのは、その浮気相手なのだろうか。宣戦布告でもするつもりなのか、それとも、謝罪でもするつもりなのか。考えると、どんどん表情が険しくなって行ってしまう。

「……」

 自然と、喉が鳴る。しかし、隣のフォルクローレはその事情を知らないため、純粋に漂う芳香に心を躍らせていた。

「ん〜〜、いい匂い!」

 やはり、こういう所は人並みの女の子なのだと、色々と武勇伝を聞いていたおばさんも感心し、自然と表情が緩んで行く。よかった。もしこの場に自分しかいなかったら、今頃鬼のような形相だったに違いない。

 そう感じたのも束の間、ドアの向こうから、馬車の主が降りてくる。

「ただいま〜」

 一層濃厚になるあの香りとともに、気楽な語調、そして聞き慣れた声色が響き渡る。紛れもなく、エルリッヒその人だ。

「ごめんなさーい、遅くなっちゃって。て、おばさんはともかく、フォルちゃん?」

 おばさんの隣に立つフォルクローレの姿を確認すると、小首をかしげた。

「もう、こんな遅くまで。心配させるんじゃないよ、この子は!」

 フォルクローレの話を聴くよりも前に、強い力で抱きとめられた。おばさんである。よもや、ただの人間であるおばさんがこれほどの強い力を発揮しようとは。そんな的外れな事を考えた後、罪悪感がこみ上げて来た。

「二人とも、ごめんなさい……」

「無事に帰って来てくれたから、もういいよ。夜のお店、立てるかい?」

 強い力と愛情を感じさせる包容から介抱されると、にっこりと頷いた。うっかり何時間も眠ってしまったのだ、それは活かさねばならない。

 そして、屋敷からここまでを馬車で移動し、体力を温存して来たのだから、まさに万全だった。

「もちろん、大丈夫ですよ。それに、あんまりいないとお客さん離れちゃいますしね! 御者さん、ここまでありがとうございました。エルザちゃんにも、ありがとうとお伝えください」

「かしこまりました。それでは」

 御者に挨拶をすると、御者は再び馬車を駆り、屋敷へと帰って行く。後に残った三人は、まずはとばかりに店内に戻った。

「詳しい事は、お店を閉めてから話しますね。後、なんでいるのか分からないけど、せっかくだからフォルちゃんも手伝ってくれると嬉しいな」

「だってさ。どうするんだい? お客としていてもいいんだよ?」

「う、なんか有無を言わさぬ空気。はいはい、お手伝いしますよ。エルちゃんがお店に立つんじゃ、特に混みそうだし」

 まるで「働かざるもの食うべからず」とでも言わんばかりの流れに、フォルクローレは一夜の手伝いを決意した。どうせ、これだけ日の落ちた中アトリエに戻るのは、ものすごい反対に遭うだろう。それならばと思ったのである。

「それじゃ、今宵も姦しく営業開始と行きますか!」

 開店準備と仕込みの具合を確認したエルリッヒが、主らしく号令をかけ、店を開けた。

 忙しくも楽しい時間が始まる。




〜つづく〜

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