チャプター16
〜貴族の館 応接間〜
「ーーというわけで、私はおじさんの浮気を確かめるために、こうしてこのお屋敷にお邪魔したんです」
己の素性からこの屋敷を訪れた事情までを、話せる範囲で語った。エルリッヒにとっては、この町に来る前の事でなければ、概ね話せない事はないので、心苦しいと言う思いはなかったが、それでも、笑顔で話に耳を傾けてくれているハインツの事を思うと、少しばかり胸が痛んだ。
(私、なんて俗な事話してるんだろう……)
それでも、やはりハインツは顔色一つ変える事はなかった。内心どう思っているのか、気にはなったが、機嫌を損ねるよりは、豊富な人生経験、百戦錬磨の場数が、それらを飲み込んでくれているだろう、と考えた。
「なるほど、事情は分かりました。ですが、奥様はもう何年も前に亡くなっております。ゲオルグ様が不義をするような事はないかと思いますが……まさか、お嬢様との仲をお疑いですか? いかにエルリッヒお嬢様と言えど、当家の人間をお疑いというのは、見過ごしてはおけませんねぇ」
穏やかな表情にあって、わずかに鋭い光が宿った。長年この家を守っているというのは、やはり伊達ではないのだろう。恐らく、もしエルリッヒがこの家の人間に対し、失礼な疑念でも抱こう物なら、それだけでナイフ片手に襲ってくるかも知れない。それだけの忠誠と、老いて尚失わない自信が、ハインツにはあるのだ。
「だ、大丈夫ですよ。奥様が亡くなられているのなら、浮気だなんてそんな! で、でも、確かにおじさんはいい匂いをさせていたんです。あれは一体……」
まずは場を安全な方向に収めなくては。そして、本当の実力を見抜かれないよう、周到に「ビビる」振りをしなくては。
二つの事を同時に考えるのは、骨が折れる。
「いい匂い、でございますか? それはどのような香りでしょうか」
「えっと……花の香りなんだけど……」
どこかで嗅いだ事があるのは、きっと香水の元になっている花があるから。この屋敷に入ってからかすかに感じていたのは、この屋敷にそれを使う人間がいるから。だがしかし、それはこの屋敷の「お嬢様」なのか、「使用人」なのか、まだ断定は出来ない。ここで顔を合わせた数人程度では、ほんの一握りだろう。
もちろん、誰であれその本人が今日も同じ香水を付けているとは限らない。
「この、かすかに香るのって、どなたのか、分かりますか?」
「この香りでございますか? 少々失礼して……」
唯一最大の手がかりは、この、今ここでわずかに感じられる、この香りだけだ。具体的な言葉で表現しづらいから、尚の事頼りになる。
もちろん、問題はあった。エルリッヒは仮にも人間ではない。人並みはずれた五感の持ち主だ。嗅覚が劣る人間が、まして香水には興味すらないかもしれない男性が嗅いだところで、はたして分かるのかどうか。そして、この香りが、正解なのかどうか。
まずは答えを聞かなくてはならないが、確証の持てない事に対する不安な気持ちは、拭いきれなかった。
「……」
ごくり、と喉が鳴る。静かな部屋の中、ハインツの鼻を鳴らす音だけが響いていたから、自分が喉を鳴らせた音も、周りのみんなに聞かれたかも知れない。
少し恥ずかしいが、それ以上に、今の気持ちを見透かされてしまいそうで、どことなく嫌だった。
「この香りは……お嬢様のお使いになっている香水の物です。隣国から取り寄せているもので、国内では王都でしか取り扱っていないものですね」
「そうでしたか。ありがとうございます。じゃあ、このお屋敷に呼ばれた時に付いたのかもしれませんね」
それが本当かどうかは分からない。気取られてはいけないが、おじさんがここのお嬢様とよからぬ仲になっていると、誰が全否定出来ようか。
貴族のお嬢様となれば世間知らずに違いない。一方のおじさんはというと、典型的な下町の豪快なおじさんだ。腕のいい家具職人というのもいかにもである。そんなおじさんに、心惹かれないとも限らないのだ。
高貴な生まれだからと、高貴な相手にしか関心を持たないとは、限らないのだ。
「エルリッヒお嬢様? どうなさいましたか?」
「え? あぁ、ごめんなさい。ちょっと考え事を。この香水、どんな花からできてて、いくらくらいするのかなーって」
咄嗟に出たのは決して嘘ではない。確かに、どれだけ高級なのか、どんな花から、何色の花から、出来ているのか、それは紫色だろうか、赤いのだろうか、というような事はこの匂いに気付いた時から考えていた。
だが、このタイミングでするりと口から出て来てくれた事には、本当に感謝するばかりだ。
そんな風に、小さく自分を褒めていた所で、ふわり、と空気が動いた。
「???」
突如、ドアが開いたのである。
「おや? どなたでしょう」
ハインツが茶器を机の上に置き、立ち上がって確認しに行った。何しろこの応接間だけでも舞踏会が開けそうな広さだ、この場所から二つある出入り口の一つを確認するだけでも、失礼に当たりかねない。
せめて、相手が他のメイドなど、使用人であればいいのだろうが、家人だったら、目も当てられない。
何しろ、こうして見ず知らずの小娘を屋敷に入れ、ティータイムを開きながらの事情聴取なのだから。
応接間に招き入れただけでも、もう来賓扱いなのだから、叱責されても仕方がない。こういう時、王族と言っても人間社会の価値観の外側にいた自分の立場が歯がゆい。せめて、作法や所作だけでも身に付いていれば、もう少しは怪しまれずに済む物を。残念ながら、人間社会にまぎれて三百年、その間のほとんどを庶民階級として過ごし、庶民階級の人間とばかり交わって来たエルリッヒは、端から見れば完全に「庶民の娘」なのだった。
「じいもみんなもいないと思って探してみたら、みんなでこのような所に。何があったのですか?」
考え事をしている耳に飛び込んできたのは、鈴を転がしたような澄んだ声。そして、それはとても丁寧な言葉を紡いでいた。
「お嬢様、このような所にまで。申し訳ありません、自らおいでいただきまして。このじいめに、何か御用でしたでしょうか?」
「いえ、特別なようはないのだけれど、姿が見えなかったから、気になって」
この声、そして話し方、何よりドアが開いた瞬間急に濃くなった”あの”香り。間違いない。今この応接室を尋ねているのは、件のお嬢様だ。
ハインツは怪しまれないよう、かと言って気付かれないよう、巧みにお嬢様の視界を塞いでいるようだったが、それがどこまで通じる事か。このままでは、ばれるのではないか。
とても優しそうな声と話し方だが、それに甘えられると言う事ではない。下賎なつもりはないが、庶民を前にしたら血相が変わるかも知れない。そう思えばこそ、緊張が走る。
「……」
またしても、ごくりと喉が鳴った。先ほどから、嫌な汗のかき通しだ。とりあえず、帰宅したら湯浴みの一つもしたい。
「ねえ、中にどなたかいらっしゃるの? お客様?」
「ど、どなたもいらっしゃいませんよ? さあさ、お嬢様、お部屋にお戻り下さい」
ハインツが物腰穏やかに追い返そうとするが、いきなり部屋に戻れと言われても、大概の人間は納得できないだろう。このお嬢様も、そんな一人だったようだ。
「いやだわ。せっかくここまで来たのにお部屋に戻れだなんて。という事は、わたくしに知られたくないお客様なのですね? まさか、またお見合い相手なのですか? 全く、先月も二件お断りしたというのにお父様ったらどういうつもりなのでしょう」
どうやら、お見合い相手と勘違いしているようだ。貴族の娘ともなれば、早いうちから縁談が山のように舞い込んでくるのだろう。高貴な生まれも大変だ。
「そうだ! せっかくだから、わたくし自らお断りします! お父様の横暴も、大概にして頂きたいもの。どうかしら」
「お嬢様、ですから中には誰もお客様はいないと……」
とうとう、お嬢様はハインツの検問を突破してしまった。さすがのハインツも、主の娘であるお嬢様が中に入ろうとするのを力づくで止める事は出来なかったらしい。腕っ節も経験も、こうなっては形無しだ。
「あら」
中に入ってくるなり、すぐさまエルリッヒと目が合った。緩く波打つ栗色の髪が美しい、見目に穏やかそうな娘だった。淡く色づく桜色のドレスも、派手すぎず質素すぎず、ちょうどいいバランスを醸し出している。そして、当然のように、あの香水の香りが鼻腔に突撃してくる。濃くなっても嫌らしくない、上品な香りだ。
「あなたはだぁれ?」
小首をかしげ、優しそうな表情でこちらに向かい、声をかけて来た。これは予想だにしない展開だ。いや、お互いにとって、想定外の展開だった。
つい、間抜けな返事が口から出る。
「はじめまして、お嬢様?」
〜つづく〜




