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チャプター15

〜どこぞの貴族の屋敷前〜



「ごめんくださ〜い!」

 ライオンを象ったノッカーを使い、数度扉をノックする。そして、挨拶をする。しかし、返事はない。

 外からは、中の物音が何も聞こえてこない。エルリッヒの人間を上回る聴力をもってしても、だ。

「む〜」

 アポイントのない訪問は無視を決め込むルールなのか、はたまた屋敷が広すぎて聴こえていないだけなのか。そうではなく、ただただ屋敷が広いから物音が聞こえにくいだけ、今頃こちらに向かって広い廊下や長い階段を駈けている、という事ならいいのだが。

 人差し指を唇に当てて、少しばかり考え込む。

「……柔らかい」

 別に、自分が本当の人間ではないからと言って、唇が固いという事はないのだ。何も、どこにも、劣等感を覚える所などないのだ。

「も〜! 悩んで損した〜! だけど、私でこれだけ柔らかければ、きっとフォルちゃんもさぞかし……」

 想像して、すぐさま何か間違いのようなものに気付いた。それは、エルリッヒのようなうら若い娘が思い描くような事ではない。

「いやいや、ちょっと待って。私女色じゃないし。いくらなんでもそれは!」

 女の子同士でキスをするとかあり得ないし! と戯言のように呟きながら、誰が見ているわけでもないのに大きく頭を振って否定する。

 どことなく楽しそうな、嬉しそうな表情なのは、もしもそれを実行してしまったら、あるいはコンプレックスが解消されるかも知れないという淡い期待と、とてもよい感触かも知れないという、密かな期待とが存在するからか。

「いやいやだから私は……」

 慌てて自分を軌道修正しようとするが、その瞬間、

「どちら様ですか?」

 いきなり目の前の扉が開いた。

「え」

 そして、中からは品のよい執事と思われる老紳士が姿を現した。

「あの、どちら様でしょうか」

「い、今の、見てた?」

 受け答えもそこそこに、ついつい確認してしまう。恥ずかしさのあまり、顔から火が出そうなほどだ。

「今の、と仰いますと、何やら恥ずかしそうにしておられたようですが……その事でしょうか」

「!!」

 もはやごまかしようもない。完全に見られていた。職業柄か、このような身元不明で挙動不審な娘相手にも丁寧な態度を崩さないでいてくれる事が、むしろ恥ずかしさを増長させる。

 いっそ不審人物として取り調べでもしてくれた方がすっきりする。が、事情はそれを許さなかった。

「えっと……あのですね……」

 ここで釈明しても意味がないかも知れない。だが、情報収集のためにはまず怪しい者ではないと認識してもらわなければならない。混乱が収まらなかった。

「わ、わたくしはここの奥様かご令嬢にようがありまして、えっと……その……なんて言ったらいいか……」

「どうやら、危険な方ではないようですね。とりあえず、中にお入り下さい。お茶でも頂きながら、ゆっくりお話を伺いましょう」

 老紳士はにっこりと微笑むと、エルリッヒを優しく出迎えてくれた。不審人物ではないと分かってもらえただけでも、御の字である。




〜屋敷内 応接間〜



「これをどうぞ。見知らぬお嬢様」

「ありがとうございます。えっと……」

 メイドによって応接室に通されたエルリッヒは、えんじ色が鮮やかな椅子を勧められた。どこまでも沈み込むその椅子に座っていると、先ほどの執事がティーセットを持って現れた。

「私はこの屋敷で執事を任されております、ハインツと申します」

「ありがとうございます、ハインツさん。私は、エルリッヒと申します。エルリッヒ・フォン・ドラシェケーニッヒ。以後お見知り置きくださいね」

 手短な挨拶を済ませると、今度は先ほどのお返しとばかりにこちらも笑顔を贈る。ハインツの向けてくれたあの笑顔に裏がない事は、十分に伝わっていた。

 だからこそ、安堵できたのだ。

「エルリッヒ様ですね」

「はい。あ、じゃあ、こちら頂きますね」

 せっかく出してくれたお茶が冷めないうちにと、一口静かにすする。熱いお茶が全身を温めるかのように駆け巡った。香しさと共に、ほのかな苦さが心も満たしてくれる。

「ん〜、これはかなりいい茶葉ですね」

「恐れ入ります。こちらお嬢様直々の選定でございます」

 一緒に差し出された焼き菓子も美味しい。広くて豪華な部屋に立派な椅子、品のよい執事とメイド、そして素敵なお茶と犯し。それは、本来の目標を失いそうになるほどの幸せなひとときだった。

「はっ、いけない。本来の目的を忘れる所だった!」

「私は、忘れてはおりませんよ。エルリッヒお嬢様が落ち着かれましたら、事情をお伺い致します」

 ハインツは忘れていなかったと言うが、本当の所は怪しい。それよりも、”お嬢様”という響きにうっとりとしてしまい、またしても目的を忘れそうになってしまった。

 ここは、なんと誘惑の多い環境なんだろう。これが貴族の館か。

「もー、ハインツさん、言葉上手すぎです! お嬢様だなんて言われたら」

「いえいえ、当然の振る舞いでございます。女性と接する時は、常に経緯と愛情を持って接するのが男の努め、そう子供の頃から言い聞かされておりますので」

 こんなどこの竜の骨とも分からない娘にまでこんなに紳士的に接してくれる! その感動で心を許してしまいそうになる。いや、ハインツ相手には別に信頼したって構わないのだろうが。

「ハインツさん、本当に立派な執事さんなんですね。えっと、私の事はどこから話したらいいでしょうか」

「その前に、人払い、致しましょうか?」

 大した事ではないが、その一方ではメイドさんに聴かれたら、屋敷中のうわさ話になるのではないか、という心配があった。

「それとも、男の私と一対一では、心配ですかな?」

 穏やかで安心するような笑顔を崩す事なく、言葉を足してくれた。人払いか男と一対一か。決してその二択しかないわけではないのだろうが、差し当たってそんな配慮をしてくれる事がありがたい。

 自分の調査がこじれるようなうわさ話になるのは困るし、ハインツがどれほどの実力者であっても、何か裏の一面があったとしてそれを見せて来たとしても、組み伏せるだけの実力はあった。

 であれば、人払いをお願いするべきだろうか。少しだけ、悩んでみる。

「う〜ん、一つだけ窺ってもいいですか?」

「はい、なんでしょう」

 悩むのに必要な情報が、少し足りない。そこは補わなくては。恐らく、ハインツなら多少の質問には答えてくれるだろう。

 紅茶を飲み干すと、出来るだけ柔らかな表情を作って質問してみた。

「ここにいるメイドの皆さんは、信頼できる方達ですか?」

 ハインツはすぐには答えず、にっこりと室内のメイドを見渡すと、こう答えた。

「ご覧の通りです。皆庶民階級の娘達ですが、当家で働くにあたってしっかりと教育を受けております」

 つまり、公的には口が固いが、勤務時間の外ではうわさ話に花が咲くかもしれない、という事だった。どこまで教育を受けているのかにもよるが、住み込みで働いている以上、中で広がるかも知れない。

 やはり、悩みどころだった。

「ん〜」

「焦らなくてよろしいですからね。焦って誤った選択をしてはいけませんから」

 その言葉で、何かが吹っ切れた。一瞬ゆっくりと瞬きをして、それからしっかりと目を見開くと、ハインツの瞳を見据えた。

 下手な人間なら、射抜かれてしまうかもしれないような鋭い目線だ。

「決めました。彼女達にはいてもらってください。聴かれて困るかどうかは分からないけど、主人が困るような話ならそうそう口には出来ないでしょうし、取るに足らない話なら別にうわさ話をされても構いませんし」

「そうですか。かしこまりました。では、お話を伺って参りましょう。まず、お嬢様の素性からお話しいただけますか?」

 そうして、メイド達が見守る中、ハインツによる柔らかな事情聴取が始った。




〜つづく〜

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