『駅高架下のカノン』
スピンオフ3部作の第2部(只今執筆中)
第1部で佐々木くんが「銀のシェイカー」に自身の迷いを投影していた頃、
東京の片隅では、もう一人の青年が「自分だけの音」を求めてもがいていました。
かつて、国立駅の古い高架下には、毎週木曜日の夜にだけ響く
サックスの音色がありました。
その音を奏でていたのは、名門大学の学生でありながら、エリートとしての約束された未来を捨て、
音の深淵に手を伸ばそうとしていた青年――カノンくんです。
これは、彼が「カイト」という自由な名前を授かる前の、剥き出しの物語です。
若さゆえの傲慢さと、それ以上に深い焦燥。
そして、そんな彼の前に現れた、あまりにも巨大な「壁」としての赤井成人。
「教えない」という教育。
「突き放す」という愛情。
国立の雨の匂い、コンクリートに跳ね返るサックスの残響、そして初めて口にした
カクテル『深海』の熱さ……。
あの夜、彼ら二人の間に何が流れたのか。
老兵である私の記憶の蓋を開け、あの狂おしくも美しい「夜明け前のブルー」
を綴ってみたいと思います。
ある雨の木曜日。いつものように高架下でサックスを鳴らすカノンの前に、一人の男が現れる。
傘もささず、よれよれのコートを着たその男は、カノンの演奏を黙って聴いていた。
演奏が終わった後、男は一言だけ告げる。
「……音に迷いがある。お前、誰に向かって吹いている?」
それが、カノンと赤井成人の衝撃的な出会いだった。
赤井はカノンに技術を教えることはなかった。ただ、時折現れては、カノンの横で自分のサックスを取り出し、一音だけ吹いて去っていく。その一音がカノンの全身を震わせるほどの「ブルートーン」だった。
カノンは、その圧倒的な「音」を追いかけるうちに、大学の講義にも出ず、ただ「一音」を研ぎ澄ます狂気のような日々に没入していく。
大学を卒業し、カノンは音楽の道を選んだ。
プロのサポートメンバーとして、時にはキャバレーのバック演奏、時には名の知れぬアイドルのレコーディング。求められる「音」を器用にこなす日々の中で、彼は自分の「本当の音」を見失いかけていた。
毎週木曜日、国立駅の高架下に立つことだけが、彼に残された最後の拠り所だった。しかし、そこでの演奏も、かつての鋭さを失い、どこか「自分を納得させるための嘘」が混ざり始めていた。
ある夜、壁にもたれてカノンの演奏を聴いていた赤井が、皮肉めいた笑みを浮かべて言った。
「カノン。お前の音は、今、いくらで売れている?」
「……食ってはいけてます。プロですから」
「嘘をつけ。今の音は、ただの『隙間風』だ。誰の心も動かさない、空っぽな音だよ」
赤井は一枚の汚れたショップカードを、カノンの楽器ケースに投げ込んだ。
そこには、米軍基地の跡地近くにある、荒くれ者たちが集まるライブバーの名前が記されていた。
「来週の土曜、ここでメインを吹くはずだった奴が逃げた。代わりに吹いてこい。……客は全員、音楽のプロじゃない。だが、気に入らなきゃ瓶を投げてくる連中だ」
赤井が用意したのは、守られた「サポートメンバー」という居場所ではなく、一音で客を黙らせなければならない「剥き出しの戦場」だった。
その夜、カノンは罵声と煙草の煙の中で、必死にサックスを鳴らした。
譜面通りでも、誰かのコピーでもない。
自分を否定する連中に「俺の音を聴け!」と魂をぶつけるような演奏。
客席から飛んできたのは瓶ではなく、地鳴りのような拍手だった。
一晩のギグを終え、汗だくで外に出たカノンの前に、赤井が立っていた。
「……少しはマシな顔になったな」
その時、赤井は初めて自分の楽器を取り出した。国立の冷たい夜空に向かって、赤井が放った一音。
それは、成功体験を得て「目覚めた」ばかりのカノンの心に、鮮やかな道標を示すような、
圧倒的な『ブルートーン』だった。
その夜、国立駅の高架下を支配していたのは、いつもとは違う空気だった。
カノンは、これまで「自分にはまだ早い」と封印してきた、赤井憲一独特の「鳴き」の奏法を、初めて人前で披露した。それは喉を震わせ、魂を削り出すような、深く、鋭い咆哮。
成功体験を経て自信を取り戻した彼の手の中で、サックスはもはや単なる楽器ではなく、彼の体の一部として、赤井のそれと寸分違わぬ、しかし若々しいエネルギーに満ちた音を奏でていた。
柱の影で聴いていた赤井の目に、一瞬だけ、柔らかな光が宿る。
(……やりやがったな)
自分の背中を追い続けてきた少年が、ついにその技術を「盗み」、自分の魂と融合させた。
それは師として、この上ない悦びの瞬間だった。
演奏を終え、荒い息をつくカノンの前に、赤井がゆっくりと姿を現す。
カノンは期待と不安が混ざった瞳で、師の言葉を待った。
だが、赤井の口から出たのは、賞賛の言葉ではなかった。
「……相変わらず、湿っぽい音だな」
赤井はポケットから、小さな、しかし美しい青の液体が満たされた小瓶を取り出した。それは、彼がコンクールで優勝した伝説のカクテル『深海』。赤井がこの夜のために、自ら調合してきたものだった。
「飲め。……それが、今の俺に作れる精一杯だ」
カノンが戸惑いながらその小瓶を煽ると、喉を焼くような強烈なアルコールと共に、どこまでも深い海の底へと沈んでいくような、圧倒的な静寂と孤独、そして微かな希望の味がした。
「今日でお前は『カノン』卒業だ」
赤井は背を向け、雨上がりの夜の闇へと歩き出す。
「これからは『カイト』と名乗れ。……誰の背中も追うな。空高く、自分だけの風を掴んで飛んでいけ」
「赤井さん……!」
呼び止める声に応えることなく、赤井は夜の向こうへ消えていった。
後に残されたのは、空になった『深海』の小瓶と、自分の中に確かに宿った「師の音」、
そして新しい自分の名前だけだった。
空になった『深海』の小瓶を握りしめ、カイトは翌朝の始発で国立を離れた。
赤井が最後に吹いたあの「音」——自分と寸分違わぬはずなのに、決定的に何かが違う、あの圧倒的な響きの正体。それを確かめるまで、自分は止まるわけにはいかない。
赤井の足跡を追い、カイトが辿り着いたのは、潮騒と椿の島、伊豆大島だった。
そこで彼は、自分と同じように「赤井の影」に囚われ、銀のシェイカーを磨き続けるバーテンダー、
佐々木と出会う。
カイトはあえて挑発的に「深海」を注文した。それは、赤井から直接その味を授かった自分だけが知る、師匠への、そして目の前の男への「確認」だった。
「赤井さんのとは、違う」
佐々木に向けて放ったその言葉は、佐々木だけでなく、自分自身への戒めでもあった。
しかし、その夜のバーで、野内が放った一言が二人の運命を変える。
「カイトくんは、受け取ったバトンを『次は自分の番だ』と思って握りしめているだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、カイトの胸の中で、赤井からもらった『カイト』という名前が、
初めて本当の意味で翼を広げた。
師匠を追うのではない。師匠から託されたものを、自分の命で鳴らすのだ。
「……東京へ戻ります。明後日、大きなオーディションがあるんだ」
佐々木の「深海」に自分なりのエールを送り、カイトは再び海を渡った。
東京のオーディション会場は、冷徹な静寂に包まれていた。
並み居る天才たちが、完璧な技術を披露していく。しかし、カイトの順番が来たとき、彼が口にしたのは、かつての自分が好んだ小綺麗なフレーズではなかった。
国立の高架下で轟音に抗い、大島のバーで「継承」の覚悟を決めた、今の自分。
カイトがリードを噛み、一音目を放った瞬間、審査員たちのペンが止まった。
そこにあったのは、赤井の「鳴き」でありながら、赤井にはなかった「明日の光」を感じさせる、
唯一無二の音色。
演奏を終え、舞台を下りたカイトの視界には、東京の夜景が広がっていた。
彼はふと、一年前、国立の夜に赤井から渡されたあのリードケースを指先でなぞった。
「……赤井さん。あんたの耳、ぶっ壊せたかな」
会場を出ると、東京の夜は白み始めていた。
楽器ケースを肩にかけ、カイトは深く冷たい空気を吸い込む。
国立の雨、
赤井さんが遺した『深海』の熱さ、
そして大島で出会った、あの不器用なバーテンダーが磨いていた銀の輝き。
それらすべてが、今、自分の喉を通り、リードを震わせ、新しい音となって空に放たれた。
もはや、誰かの背中を追う必要はない。
「……次は、僕の番だ」
カイトは、一度も振り返ることなく歩き出す。
ふと見上げたビル風の先、夜明け前の濃紺の空を、一羽の鳶が力強く風を掴み、
高く、高く舞い上がっていった。
その鋭く、しかしどこまでも艶やかな鳴き声は、まるでデヴィッド・サンボーンのサックスのように、
都会の静寂を鮮やかに切り裂いて聞こえた。
それは、新しい時代の「ブルートーン」が産声を上げた合図だった。
(第2部・完)
書き終えた今も、私の耳の奥には、カイトくんが最後に放ったあの鋭い一音が鳴り響いています。
「カノン」という、誰かの後を追う名前から卒業し、彼は空へと放たれました。
赤井くんが彼に贈ったのは、単なる名前ではありません。それは、「孤独という名の自由」を愛し、
自分の足で風を掴むための翼だったのでしょう。
物語の最後に、空を舞う鳶の鳴き声がデヴィッド・サンボーンのサックス
のように聞こえたと記しました。
サンボーンの音色は、時に叫びのように痛切で、時に夜の都会を優しく包み込みます。
今のカイトくんが奏でる音は、まさにそのように、聴く者の魂を揺さぶる強さを持っているはずです。
大島で佐々木くんと出会ったあの日、カイトくんはすでに「師匠の背中」を追うことをやめていました。だからこそ、彼は佐々木くんにあの厳しい言葉を投げ、彼を奮起させることができたのです。
次に物語が最後のスピンオフです。
『白亜のコンチェルト』をお楽しみに。
野内




