『未完のシェイカー』
スピンオフ3部作構成の第1部(只今執筆中)
陽子さんが綴ったあの美しい物語を読み終えたとき、私の胸に去来したのは、赤井成人という男が
遺していった「その後」の景色でした。
彼は、風のように去っていきました。
しかし、彼がその場所に、あるいは誰かの心に刻みつけた「ブルートーン」は、
決して消えることはありません。それは、波紋のように広がり、誰かの人生を揺さぶり、
新しい色へと塗り替えていく。
この物語の主人公は、伊豆大島のバーに一人残された青年、佐々木健です。
彼は、赤井くんが遺していった「銀のシェイカー」というあまりにも重いバトンを手に、
立ち止まっていました。
師を超えること。あるいは、師の影を追い続けること。
その狭間で、彼が何を見つけ、どのように「自分の番」を受け入れたのか。
老兵である私の拙い筆ではありますが、彼ら若きプロフェッショナルたちが放つ、
眩いばかりの「青のグラデーション」を書き留めておきたいと思います。
グラスに注がれた一杯の酒が、一人の少年のサックスと響き合った、あの奇跡のような
夜から物語を始めましょう。
伊豆大島の夜は、都会のそれとは違う。
海鳴りと風の音が闇をより深く重く塗りつぶしていく。
私は隣を歩く陽子さんの足元を気遣いながら、ホテルの最上階にあるメインバーの
重い扉を押し開けた。
「……あの日と同じですね」
陽子さんが小さく呟く。
カウンターの向こう側かつて赤井くんが立っていたはずのその場所には
今は一人の若い男が立っていた。
名を佐々木という。
赤井くんがかつて「あいつにはセンスがある」と、一度だけ私の前で目を細めて語ったことのある
直属の部下だった男だ。
客の途絶えたバーの中で、佐々木は一心不乱に何かを磨いていた。
照明を反射して鈍く光る、銀のシェイカー。
赤井くんが島を去る際、唯一、その場所に遺していったものだ。
「……野内様。」
私たちの姿を認めると、佐々木の手が止まった。
彼の目は充血し、表情には拭い去れない疲労と、何かに追い詰められたような焦燥が滲んでいる。
「まだ、磨いているのか。そのシェイカーを」
私の問いに、佐々木は力なく、しかし頑なにそれを握り直した。
「これだけが、僕と赤井さんを繋ぐ唯一の『音』なんです。でも……いくら磨いても、
あの人のような音が出ない。僕の振るシェイクは、ただの氷のぶつかる音でしかないんです」
佐々木は、赤井という巨大な目標を失い、その重圧の中で「未完」の自分に絶望していた。
陽子さんは、カウンターに置かれたその銀のシェイカーにそっと手を触れた。
「佐々木さん。音は、磨くものではなくて、響かせるものですよ」陽子は心の中でささやいた。
静まり返ったバーに、野内がオーダーした。
「佐々木くん。何か、私に一杯作ってくれないか」
私の言葉に、佐々木の手が一瞬止まった。
彼は深く息を吸い込むと、磨き上げたばかりの銀のシェイカーを手に取った。
「……承知いたしました。今の僕に作れる、最高の一杯をお出しします」
彼が選んだのは、かつて赤井くんがこの場所で一度だけ試作し、
佐々木にそのレシピを託したオリジナル・カクテルだった。
ベースは力強いジン。そこに、大島の深い海を思わせるブルーのリキュールと、
陽子の愛したスミレの香りがわずかに添えられる。
佐々木がシェイカーを振る音が静かなバーに響く。
それは赤井くんの軽やかさにはまだ遠いが、がむしゃらで、ひたむきな「決意」の音がした。
カクテルグラスに注がれた液体は、夜が明ける直前の空のような、深い「ブルー・グラデーション」
を湛えていた。
「『ブルー・パッセージ』です。赤井さんが、いつか完成させろと仰っていた一杯です」
私がそのグラスを手に取り、口に運ぼうとしたその時。
扉の向こう、静まり返っていたロビーから、鋭くも切ない一音が突き抜けてきた。
「……!」
佐々木が顔を上げる。陽子さんが息を呑む。
それは、あまりにも赤井くんの吹き癖に似たしかし、それよりもずっと荒削りで
野生的なサックスの音。
「誰だ……? 赤井さんじゃ、ない」
佐々木が吸い寄せられるようにカウンターを出る。
ロビーの隅、柱の陰で一人、狂ったようにサックスを鳴らしている少年がいた。
カイトだった。
彼が奏でていたのは、デヴィッド・サンボーンの『スワンソング』。
しかしその旋律は、絶唱ではなく、誰かを探し求める「叫び」のように聞こえた。
野内、陽子、そして佐々木。
三人の視線の先で、新しい時代の「音」が、嵐のように吹き荒れていた。
ロビーに響き渡っていた叫ぶようなサックスが、ふっと消えた。
静寂が戻る。いや、それは静寂ではなく、カイトが吹き鳴らした「音」が空気中に溶け込み、
私たちを支配している時間だった。
野内が、ゆっくりと、しかし力強く拍手を送りながらカイトへ歩み寄る。
「素晴らしい。……今の演奏に、礼を言わせてほしい。少年、喉が渇いただろう?
あちらで私に一杯、馳走させてくれないか」
野内に誘われ、吸い寄せられるようにバーのカウンターへ座ったカイト。
彼はまだ、自分の演奏の余韻に酔っているのか、あるいは憑き物が落ちたような虚ろな目で、
棚に並ぶボトルを眺めていた。
カウンターの中で、佐々木が緊張した面持ちで少年に問いかける。
「……何を作る?」
カイトは視線を上げず、絞り出すような声で言った。
「……『深海』を。深い海の底に、一筋の光が差し込むような、あのカクテルを飲ませてほしい」
その言葉に、佐々木は息を呑んだ。
『深海』。
それは赤井成人が若かりし頃、カクテルコンクールで最優秀賞を勝ち取った伝説のレシピだ。
今はもうメニューには載っていない。
赤井本人も「今の自分には、あの純粋な青は作れない」と言って、封印していたはずの味だった。
「なぜ、それを知っている……?」
佐々木の問いに、カイトはポケットから古びたカセットテープを取り出し、カウンターに置いた。
そこには、赤井の乱暴な字で『深海』と書かれていた。
「あの夜、駅の高架下で会ったあの人が言ったんだ。『俺がこの曲の本当の音を吹けたら、
お前に最高の酒を一杯作ってやる』って。……俺は、それを飲みに来た」
野内と陽子が顔を見合わせる。
佐々木の震える手が、再び銀のシェイカーへと伸びた。
かつて赤井が掴んだ栄光の色。
今の自分に、その「深海」を描き出すことができるのか。
佐々木の、本当の闘いがここから始まった。
「……赤井さんは、そんな顔をして笑う人だったんですか」
カイトの言葉に、陽子さんは少し驚いたように、そして愛おしそうに目を細めた。
カイトが知る赤井は、高架下で無言のままサックスを吹き、ただ背中で語る厳格な男だった。
しかし、佐々木が語る赤井は、時に厨房の裏で誰よりも熱く部下を叱咤し、
野内が語る赤井は、客の一瞬の視線の動きで望みを察する、完璧なプロフェッショナルだった。
「私たちが知っているのは、それぞれ赤井くんの『断片』に過ぎないのかもしれないわね」
陽子さんの言葉を裏付けるように、カウンターに置かれた古いカセットテープと、
空になった「深海」のグラスが、静かに重なり合って見えた。
バラバラだった記憶が一つに溶け合い、一人の男の真実の姿が、バーの薄明かりの中に浮かび上がる。
「……でも、これだけは共通している。あの人は、常に『音』の中にしか、
自分の居場所を見つけられなかった」
野内の言葉に、カイトは強く頷き、椅子から立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、
鋭い光が宿っている。
「……東京へ戻ります。明後日、大きなオーディションがあるんだ」
佐々木が意外そうに顔を上げる。
「オーディション?」
「あの人が言ったんだ。自分の音を信じられないうちは、どこで吹いても同じだ。
でも、もし一度でも『自分の音』を捕まえたと思ったら、そこがスタートラインだって。
……俺、さっきの演奏で、少しだけ捕まえた気がする」
カイトはサックスケースを肩にかけ、バーの出口へ向かう。
「佐々木さん。あんたの『深海』、……赤井さんのとは違ったけど、悪くなかった。
次は、もっといい音で振ってくれよ」
佐々木は言葉を返せなかった。だが、彼の手は無意識に、再び銀のシェイカーを握りしめていた。
少年が去った後のバーに、新しい風の余韻だけが残された。
カイトが去った後の静寂の中で、佐々木は自分の作ったカクテルグラスの縁を見つめたまま
立ち尽くしていた。
「……野内様。やはり僕は、あの人の影をなぞっているだけなのでしょうか」
絞り出すような佐々木の問いに、野内はゆっくりと自分のグラスを置き、穏やかな、
しかし逃げ場のない視線を彼に向けた。
「佐々木くん。君は、カイトくんがなぜあんなにも堂々と赤井くんの『鳴き』を吹けるのだと思うね?」
佐々木は答えに詰まる。「……それは、彼に才能があるから……」
「違うよ」
野内は首を振った。
「彼は、赤井くんから受け取ったバトンを、『次は自分の番だ』と思って握りしめているだけだ。
彼は赤井くんになろうとしているのではない。赤井くんから託された音を、自分の命を通して
響かせようとしているんだよ」
野内は一拍置き、カウンターに置かれた銀のシェイカーを指差した。
「君のカクテルも、同じではないのか? 赤井くんがレシピを遺したのは、
君を自分のコピーにするためじゃない。君というフィルターを通して、
その酒が新しく生まれ変わるのを信じたからだ。君が磨くべきはシェイカーではなく、
君自身の『覚悟』だろう」
その瞬間、佐々木の脳裏に激しい衝撃が走った。
これまで自分を縛り付けていた「赤井成人」という重圧が、霧が晴れるように形を変えていく。
守るのではない。超えていくことこそが、最大の敬意なのだ。
佐々木の瞳に、先ほどまでの中途半面な迷いは消えていた。
彼は、震える手でシェイカーを再び手に取った。今度は、型をなぞるためではない。
自分の魂を、その銀の器の中に叩きつけるために。
「……ありがとうございます。野内様、……
もう一杯、作らせてください。
次は、僕の『深海』を」
大島の夜から、一年が過ぎた。
私は別荘の書斎で、届けられたばかりの『週刊ホテルレストラン』の最新号を広げた。
ページをめくる指が、ある小さな記事の前で止まる。
『第30回 全国カクテルコンペティション 優勝――佐々木 健(ホテル・グランオーシャン東京)』
写真の中の佐々木くんは、一年前に大島で見たあの悲壮感漂う表情ではなかった。
背筋を伸ばし、自信に満ちた、しかし謙虚な光を宿した「プロの顔」をしていた。
彼の胸元で光る金メダルよりも、私の目を引いたのは、受賞したオリジナル・カクテルの名前だった。
カクテル名:『KAITO』
解説欄には、こう記されている。
「激しく、しかしどこまでも澄んだ青い衝撃。一人の若き奏者が放つ『一音』にインスパイアされた、
夜明けの海の色を表現した一杯」
インタビューの最後、記者の「このカクテルを一番に誰に飲ませたいですか?」という問いに対し、
彼はこう答えていた。
「いつか、このカクテルを飲ませたい男が二人います。一人は、僕をこの道へ導き、
最高のレシピを遺してくれた師匠。そしてもう一人は、僕に『自分の番だ』という覚悟を
思い出させてくれた、一人のサックス奏者です」
私はゆっくりと雑誌を閉じ、窓の外に広がる青い空を見上げた。
「……やったな、佐々木くん」
赤井くんの「深海」をなぞるのではなく、赤井くんが愛した世界を、佐々木くん自身の感性で
描き出した
『KAITO』。
それは、かつての大島で鳴り響いたあのサックスの音が、
形を変えて佐々木くんのシェイカーの中に宿ったということなのだろう。
(第1部・完)
私は万年筆を取り、新しい原稿用紙の冒頭にこう書き込んだ。
『第2部:駅高架下のカノン』
佐々木くんの物語は、ここでひとつの結末を迎えた。
次は、そのカクテルの名となった少年が、東京の喧騒の中でどんな「音」を探しているのか……
それを書き留める番だ。
佐々木くんが、自らの手で生み出したカクテルに『KAITO』という名を冠したという
報せを聞いたとき、私は思わず笑みがこぼれました。
彼はもう、赤井くんの背中を追いかける迷い子ではありません。
師匠から受け取った「深海」という孤独なレシピを、自分が出会った新しい才能へと繋ぐための
「パッセージ(航路)」へと昇華させたのです。
誰かに憧れ、誰かに絶望し、それでもなお「自分だけの表現」を求めてもがく。
その美しさこそが、ホスピタリティの世界を、そして音楽の世界を支える真実の姿なのだと、
彼らに教えられた気がします。
赤井くん、君が見ていた景色は、今こうして若い世代の手によって、さらに鮮やかな青へと
塗り替えられているよ。
物語のバトンは、今度はカイトくんへと手渡されます。
東京の喧騒の中で、彼はどんな「音」を捕まえるのでしょうか。
第2部『駅高架下のカノン』で、またお会いしましょう。
今夜は、佐々木くんの受賞を祝して、私自身も一杯作ってみようと思います。
もちろん、隠し味には、あの夜のサックスの残響を添えて。
野内




