『白亜のコンチェルト』
スピンオフ3部作の最終章
10年前に始まったこの物語も、ついに最終章を迎えました。
第1部で「赤井成人」という孤独な天才が遺した鮮烈な青。
第2部で、その遺志を継ごうと踠き、自分たちの色を見つけた佐々木やカイト。
そして今、物語の焦点は、一人の男へと向かいます。
ホテルの副支配人、須賀。
彼は、かつて私が書いたどの登場人物よりも「正しく」あろうとした男です。
規律を重んじ、隙を見せず、感情を鉄の仮面で押し殺す。しかし、その仮面の奥底には、
かつてライバルに敗れ、夢を諦めた「銀のメダル」の鈍い輝きが、今も燻っています。
完璧を求める須賀が、自由奔放な若き才能たちと出会ったとき、何が起こるのか。
秩序は壊されるためにあるのか、それとも、新しい調和を生むための礎となるのか。
舞台は、潮騒が聞こえるホテルから、物語の全ての伏線が収束する運命の地へと移ります。
今夜、最後の一滴が注がれ、最後の一音が鳴り響くとき。
彼らが見つける「答え」を、どうか最後まで見届けてください。
ホスピタリティという名の戦場で、傷つきながらも立ち続けるすべての人へ、この最終章を捧げます。
「失礼致します…。」
重厚な革張りのドアの向こうで、副支配人の須賀を待っていたのは、GMと営業部長の西山だった。
窓の外には、冬の穏やかな西宮の海が広がっているが、室内には逃げ場のない緊張感が漂っている。
「須賀くん。君を、来年1月の『HBA(日本バーテンダー協会)新年例会・懇親会』の
プロジェクト責任者に任命する」
GMの言葉に、須賀の背筋がわずかに凍りついた。
HBAの例会。それは、全国から「酒のプロ」が集結する、ホテルにとって最も失敗が許されない聖域だ。
おまけに地元市長の招待まで決まっている。ホテルの威信をかけた、まさに背水の陣。
「西山くんが、君を強く推してくれたんだ」
GMの視線が西山へ向く。西山はいつもの穏やかな笑みを浮かべていたが、
その奥には須賀にしか読み取れない「覚悟」があった。
(……西山さん、何を考えているんです。私に、あの『赤井成人』を育てたこの場所で、
酒のプロたちを相手に采配を振れと言うのですか)
須賀は、かつて自分が捨てた「カウンターの向こう側」への未練を押し殺すように、深く一礼した。
「……承知いたしました。完璧な采配をお見せします」
「須賀さん。今回の懇親会は、ただの飲み会にはしたくないんです」
HBAの幹事を務める松川は、身を乗り出して言った。
彼は業界でも「熱い男」として知られ、改革派の急先鋒だ。
「今年のカクテルコンペの入賞者全員を招集し、その場で受賞作を振舞いたい。
プロがプロの技を目の当たりにする。これこそが、例会の目玉になります」
須賀は手元の資料から目を離さず、淡々と答えた。
「……松川さん。当日は地元市長をはじめ、各界のVIPが百名を超えます。
オペレーションの安定こそが第一です。入賞者の個性を優先して、提供スピードやクオリティに
ムラが出るリスクは、副支配人として看過できません」
「リスクを恐れて、何がホスピタリティですか! 彼らの筆頭の佐々木健は、
週間ホテル・レストランにも掲載されたバーテンダーですよ。
賞を受賞した彼の『KAITO』を、地元の名士たちに飲ませたくないんですか?」
佐々木。
その名が出た瞬間、須賀を支える「鉄の規律」に、目に見えない微かな亀裂が走った。
バーテンダーのとして後輩であり、今は自分を差し置いて(あるいは追い越して)光の中に立つ男。
「……佐々木が、メインバーテンダーを?」
「ええ。彼を中心に、若手たちが一つになる。それを支えるのがこのホテルのプライドでしょう」
須賀はゆっくりとペンを置いた。
「松川さん。……わかりました。ただし、一つだけ条件があります。
当日、カウンターの中で流れる時間は一秒の狂いも許さない。
彼らが『アーティスト』として振る舞うなら、私はそれを生かすための
『完璧な舞台装置』になりましょう」
「須賀さん、もう一つ。BGMについても提案があります」
松川の目は、確信犯的な光を宿していた。
「今回はCDも有線のジャズも使いません。生演奏、それも『本物』にこだわりたい。
実は、先日東京で行われた新人サックス奏者オーディションのファイナリスト三名を呼んでいます。
この懇親会の場を、彼らの最終選考のステージにしたいんです」
須賀の手が止まる。
「……例会の場で、公開オーディションを行うというのですか? それはあまりにリスクが高い。
ここはコンクール会場ではありません」
「ですが須賀さん。プロのバーテンダーが魂を込めて作る一杯に、マニュアル通りの音は似合いません。演奏者もまた、客の熱量を感じて進化する。その『一発勝負』の緊張感こそが、
この夜を伝説にするんです。
……ちなみに、ファイナリストの筆頭は、今業界で最も注目されている若手、カイトです」
カイト。
あの日、国立の高架下で赤井の横にいた、あの少年。
須賀の脳裏に、赤井が最後に自分に言った言葉が蘇る。
『須賀、お前が守るその秩序は、いつか壊されるためにあるんだよ』
「……いいでしょう、松川さん」
須賀は静かに、しかし決然と言い放った。
「ただし、条件は一つ。演奏者が音を外した瞬間、あるいはバーテンダーがリズムを崩した瞬間、
私は即座に幕を引きます。ホテルの品格を汚すことだけは、副支配人として、元バーテンダーとして、
断じて許さない」
松川が去った後、須賀は誰もいないバーカウンターの止まり木に一人座り、
自分の右手をじっと見つめた。
指先には、今も「あの日」の感覚が残っている。
二十数年前。カクテルコンクール全日本大会の決勝。
若き日の須賀は、完璧な技術と緻密に計算されたレシピを武器に、優勝候補の筆頭と目されていた。
だが、その隣のブースで、赤井成人は震えるような手で、しかし誰よりも深い「青」を
シェイカーから注ぎ出した。
伝説のカクテル『深海』。
その一口を試飲した審査員たちの沈黙を、須賀は忘れない。
自分の作ったカクテルは、間違いなく「正解」だった。しかし、赤井のそれは「真実」だった。
赤井が金メダルを掲げる横で、須賀は鈍く光る銀メダルを握りしめ、バーテンダーとしての
限界を悟った。
(……あの時、私はカウンターを降りた。管理という名の安全な場所へ逃げたんだ)
だからこそ、須賀は赤井の影を宿す佐々木やカイトに対して、無意識に「規律」という
盾を構えてしまう。
彼らの才能が認められることは、あの日の自分の敗北を肯定することに他ならないからだ。
ロビーにカイトのサックスが鳴り響いた。
それは第2部のラスト、国立で放ったあの音をさらに研ぎ澄ませた、赤井成人という呪縛を
切り裂くような「覚悟の音」だった。
カウンターでは、その音に導かれるように佐々木がシェイカーを振る。彼が注ぎ出したのは、
金賞に輝いた『KAITO』。サックスの旋律がカクテルの色彩となり、会場の熱気は最高潮に達した。
その時だった。
最前列でカクテルを口にしようとした市長の顔色が、一変した。
(……アナフィラキシーか、それとも持病か)
周囲が異変に気づくより早く、影のように動いたのは須賀だった。
須賀は市長のグラスをさりげなく取り替えるふりをして、事前にチェックしていた市長の持病薬を、
給仕のふりをして完璧なタイミングで差し出した。
「市長、こちらに特製のハーブ水を用意しております。喉の乾燥を潤してから、
この『芸術』をお楽しみください」
須賀の淀みのない所作と冷静な判断により、会場は混乱に陥るどころか、それさえも
計算された演出であるかのような静寂を保った。
佐々木は須賀の背中に「守られている」という絶対の信頼を感じ、最後の一滴を注ぎきった。
懇親会が終わり、会場には満足げな余韻が漂っていた。
「須賀さん、脱帽です。あなたの采配があったからこそ、この若手たちの光が死ななかった」
松川が深い感謝を込めて右手を差し出す。
須賀はいつもの無表情を崩さなかったが、その指先は微かに熱を帯びていた。
会場の隅では、佐々木が一杯のカクテルをカイトに差し出していた。
「……これは?」
「『深海』だ。赤井さんのレシピじゃない。僕が、今の君の音を聴いて作った、新しい『深海』だ」
カイトはその青い液体を一口飲み、笑った。国立で赤井から渡されたあの小瓶の熱さとは違う、
どこか優しく、共鳴するような味がした。
須賀はその光景を遠くから見つめ、車に乗り込む市長を最後まで完璧な礼で見送った。
(……赤井、俺はあの日、お前に負けた。だが今夜、俺は俺の戦い方で、この場所を守り抜いたぞ)
「須賀くん、例会の成功、実に見事だった。……さて、君に新しい辞令がある」
GMが差し出した書面には、想像もしなかった地名が記されていた。
「伊豆大島……?」
「我がグループは、大島の老舗ホテルを買い取った。
そこを『ホテル・ブルートーン』としてリブランドする。
……須賀、君にはその副総支配人として、現地へ飛んでほしい」
さらに、GMは続けた。
「総支配人兼チーフバーテンダーには、佐々木を指名した。そして、ミュージック支配人にはカイト。
料理長には、若手のホープ・亮太だ」
須賀の脳裏に、あの日ロビーで響いたサックスの音と、佐々木が振ったシェイカーの残響が蘇る。
西山が、悪戯っぽく微笑んだ。
「須賀。お前の『規律』がなければ、あの若造たちの『才能』は暴走するだけだ。
……最高の舞台を作ってこい」
須賀は窓の外を見つめ、微かに口角を上げた。
新しいホテルの名前は『ホテル・ブルートーン』。
かつての宿敵が愛したその色を、今度は自分たちが、誰にも真似できない完璧なグラデーションで
塗り替えていくのだ。
GM室のでの辞令を持ったまま部屋から一礼して廊下に出た。
静まり返った廊下を歩き出した須賀の耳に、突如として鮮烈な旋律が飛び込んできた。
力強く、エモーショナルに鳴り響くアルトサックスの音色。
それは紛れもなく、デヴィッド・サンボーンの『Chicago Song』。
驚いて顔を上げた須賀の視線の先には、サックスを構えるカイト、亮太、そしてその後ろにも
サックスを持った西山の姿があった。
「……これは、どういうことですか」
「西山さんからの指示でね。須賀さんへの、最大級の門出のプレゼントですよ」
カイトが演奏を止め、悪戯っぽく笑う。
その時、背後から一人の男が歩み寄ってきた。
金賞を受賞したあの夜よりも、ずっと穏やかで、自信に満ちた表情の佐々木だった。
彼のトレイの上には、見たこともないほど透明で、しかし深みのある青を湛えた一杯のカクテルが
置かれている。
「副総支配人。これは、赤井さんの『深海』でも、僕の『KAITO』でもありません。
……僕たち全員で作る、新しい場所の味です」
佐々木は須賀の瞳を真っ直ぐに見つめ、一礼した。
「『ホテル・ブルートーン』へ、ようこそ」
須賀は差し出されたグラスを手に取り、その「青」をじっと見つめた。
廊下に響き渡るサックスの余韻、仲間たちの体温、そしてこれから始まる新しい航路への予感。
冷徹な副支配人の仮面の下で、須賀は二十数年ぶりに、心からの、本物の微笑みを浮かべた。
「佐々木、カイト、亮太。……そして、副総支配人の私か」
窓の外では、海がどこまでも続く青い空と溶け合っている。
彼らの物語は、今、最高の「ブルートーン」を奏でながら、新しい季節へと漕ぎ出した。
(Fin)
ようやく、最後の一行を書き終えることができました。
正直に言うと、この「須賀」という男の物語を書き進めるのは、私にとって
自分自身の過去を鏡で覗き込むような、少し痛みを伴う作業でした。
若さに任せて突っ走る佐々木やカイトの眩しさが羨ましくて、でも自分は「管理」や「規律」という安全な場所でしか生きられない。そんな須賀が抱えていた葛藤は、多かれ少なかれ、大人になってしまった私たち全員がどこかに隠し持っているものではないでしょうか。
赤井成人に敗れたあの日から、須賀の時間は止まっていました。
でも、彼は負けたわけじゃなかった。彼が必死に守り抜いてきた「秩序」や「完璧さ」があったからこそ、若き天才たちの光が世の中に消されずに済んだ。そのことに須賀自身が気づけたとき、私の胸のつかえもようやく取れた気がします。
最後、廊下で響いたサンボーンのサックス。
あの一音を聞いたとき、須賀が見せた微笑み。
あれは、作者である私が書かせたものではなく、物語の中で必死に生きてきた須賀自身が、
ようやく手に入れた「自由」だったのだと思います。
大島の新しい『ホテル・ブルートーン』。
そこにはきっと、私がこれまで出会ってきた大切な人たちの顔や、共に汗を流した仲間の面影が散りばめられています。この物語は、私一人の想像力ではなく、皆さんと語り合い、積み重ねてきた時間があったからこそ、ここまで遠くへ、そして深い「青」へと辿り着けました。
筆を置いた今、私の耳にも微かに潮騒の音が聞こえてくるようです。
彼らの物語はここで一旦幕を閉じますが、マサとしての私の日常も、またここから新しく始まります。
長い間、この「ブルートーン」の航路を一緒に旅してくれて、本当にありがとう。
いつか、どこか本物のバーカウンターで、あなたと「新しい深海」を酌み交わせる日を
楽しみにしています。
マサ




