表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/10

⑧溢れ出す本能

 ――数ヶ月前


 ビル・ダートはいつものように歓楽街へと足を運んでいた。


 娼館で女を買えば、簡単に優越感と快楽を味わうことができたし、そこに特別な感情はなかった。


 フィリオーネと出会った日も、最初は同じだった。


 赤いドレス。

 細く、しなやかな脚。

 娼婦にしてはイイ女だ。


 そう思っていた。


 だが、店で声をかけた瞬間、胸の奥がざわついた。


 甘い匂い。

 視線が合った、その一瞬。


 得体の知れない高揚感が、身体の内側から湧き上がった。


 なんだ……これは?


 初めてフィリオーネを抱いた夜、この高揚感は鎮まることはなく、今までに感じたことのない快楽に溺れた。


 店を出てからも、頭の中に残るのは彼女の顔ばかりだった。


 次の日も、その次の日も。


 気がつけば、足は自然と紅灯館へ向かっていた。


 他の女じゃ満足できず、フィリオーネのことだけが、頭に浮かぶ。


 仕事中も、トレーニング中も、脳裏に彼女の姿ばかりが張り付いて離れなかった。


 ビルには、それが"魅了"による影響だとはわからず、ただ自分の感情が膨れ上がっているようにしか思えなかった。


 金を使えば使うほど、会えば会うほど、欲は深くなった。


 触れたい。

 独り占めしたい。

 誰にも渡したくない。


 そんな気持ちが、どんどん膨れ上がっていく。


 『先客がいる』と拒まれるたびに、胸の奥が焼ける。


 他の客と話している姿を見るだけで、視界が赤く染まった。


 お前は、俺の女だろ。


 いつの間にか、そう思うようになっていた。


 そんな中、フィリオーネがしばらく休むと店の者から伝えられた。


 許せなかった。

 俺に何の話もなく、急に娼館から姿を消したことが……


 自分の中で何かが壊れた音がした。


 俺のものにならないなら、奪えばいい。

 逃げようとするなら、縛ればいい。

 誰にも見つからない場所に閉じ込めれば……


 その結論に辿り着いた時、彼の理性のタガは完全に外れた。

 

 

 ――ビルが所有する、私設トレーニングジム・裏倉庫


 コンクリートの冷たさが、背中越しに伝わってきた。


 フィリオーネは、重たい瞼をゆっくりと開く。


 天井の蛍光灯は一本だけが点いていて、白く鈍い光が鉄骨の影を床に落としていた。

 鼻を突くのは、あの男の臭い……マットや壁に染み込んだ汗の臭いだ。


「……っ」


 喉が焼けるように痛む。


 息を吸おうとして、はじめて気づいた。

 両手首が、背中側で荒く縛られている。


 身体を動かそうとすると、関節が悲鳴を上げた。

 床に座らされ、壁際の柱に括りつけられているらしく、身動きがとれなかった。


 それでも、視線だけで辺りを見渡す。


 片隅には、使い込まれたダンベルやバーベルが散乱していた。

 壁側には折り畳まれたマットが無造作に積まれている。


 どこかの倉庫?

 辺りに散らばってる物を見る限り、ビルの使っているジムか何かかしら……


 記憶が、断片的に戻ってくる。


 オーナーの家を出て、居住区を抜けようとした時……路地の方から血走った目で近づくビルに、強引に腕を掴まれた。


 首元に残る、軽い痛み。


 思わず首元に顎を引く。


「ネックレスがない……」


 ネックレスが近くにないかと地面を見回している間に、遠くから足音が近づいてきた。


 重く、規則的な足取り。


 鉄扉が軋む音とともに開き、倉庫の奥から巨漢の影が現れた。


「……目が覚めたか」


 低く濁った声。


 ビルだった。


 ビルはゆっくりと歩み寄り、フィリオーネの前で立ち止まった。


 倉庫の静寂の中で、彼の荒い呼吸だけがやけに大きく響く。


「俺に黙ってどこに行こうとしてたんだ?」


 低い声。


 フィリオーネは無意識に身を引こうとしたが、背後の柱がそれを許さなかった。


「……どこだっていいでしょ?」


 震えそうな声を抑えながら、答える。


 ビルは彼女を見下ろしたまま、歪んだ笑みを浮かべた。


「勝手にいなくなるなよ……寂しいだろぉ?」


「あなたには関係ない」


「関係ない?」


 一歩、距離を詰められる。


 圧迫感に、胸が締め付けられた。


「俺がどんだけお前に金を費やしたと思ってる、お前は俺に抱かれてりゃいいんだよ……」


 ビルの声は次第に荒れていく。


「それなのに、俺に何の断りもなくいなくなるなよ……なぁ?」


 フィリオーネは唇を噛んだ。


「私は、あなたの所有物じゃないわ!」


 その一言で、空気が変わった。


 ビルの表情から、感情がすっと抜け落ちる。


 次の瞬間、彼の手が伸びた。


 首に、硬い感触。


「……っ!」


 一気に視界が揺れる。


 柱に縛られたまま、フィリオーネの身体は前に引き寄せられ、ビルの指が喉元に食い込んだ。


「違う」


 低く、押し殺した声。


「お前は、俺のものだ」


 力が、容赦なく強まる。


 息が詰まり、肺が悲鳴を上げる。


 指先が冷たくなり、視界の端が暗く滲み始めた。


「離……して……」


 声にならない声。


 ビルの瞳には、理性の色はもうなかった。

 そこにあるのは、剥き出しの独占欲と、抑えきれなくなった暴力衝動だけ。


「逃げようとするからだ」


 喉が締め潰される感覚。


 頭の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。


 ――ああ。


 私なんかが、自由になりたいなんて……思った、から

 そんな希望を持つことすら……どうして……こんな……


 視界が白く弾け、音が遠ざかる。


 フィリオーネの意識は、闇に沈んだ。


 


 ――同時刻


 裏倉庫の外。


 金属扉の前で、エリオは立ち止まった。


「……ここか」


 ビビが、ネックレスを握りながら短く答える。


「ここで間違いないっす」


 エリオは小さく頷いた。


「さがっていろ、ビビ」


「兄貴、気をつけて」


 次の瞬間。


 エリオは躊躇なく扉を蹴り破った。


 鈍い音とともに扉が跳ね上がり、倉庫内に冷たい空気が流れ込む。


「……っ!?」


 振り返ったビルの背中越しに、柱に縛られたフィリオーネの姿が見えた。


 力なく垂れた頭。


 エリオの目が、鋭く細まる。


「お前……」


 静かな声だった。


 だが、その声音には、はっきりとした殺気が宿っていた。


 ビルが振り向き、エリオを睨みつける。


「なんだ、てめぇは」


「答えるつもりはない」


 短く告げる。


「彼女から手を離せ」


 一瞬の沈黙。


 ビルは鼻で笑った。


「ふざけるな。これは俺の……っ!」


 言い終える前に、エリオは姿勢を低くする。


 エリオの身体が一気に踏み込み、ビルの懐へと滑り込む。


 鈍い衝撃音。


 巨体がよろめき、フィリオーネの首から手が離れた。


「ビビ!」


「了解っす!」


 ビビが駆け寄り、素早くフィリオーネの拘束を解く。


「……息はあるっす!でも意識が!」


 エリオは倒れ込んだフィリオーネを受け止め、その身体を抱き寄せた。


 咄嗟に橈骨へ指を当てる、脈はしっかりと触れていた。


「大丈夫……」


 誰にともなく、そう呟く。


 その背後で、立ち上がろうとするビルの気配がした。


 エリオはゆっくりと振り返る。


 視線だけで、場を制圧する。


「……お前の抑えきれない衝動を、止めてやる」


 その言葉と同時に、エリオは拳を握りしめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ