⑥光を求めて
――紅灯館の一室
フィリオーネは、シャワーを浴びた後、しばらく浴室で立ち尽くしていた。
湯気の中、鏡に映る自分の顔を見つめる。
化粧を落とした顔は、酷くやつれていた。
ゆっくりと私服に袖を通す。
ネックレスを首につけ、胸元のロケットを開く。
中身は空っぽ……それを確かめるように閉じ、そっと胸にしまう。
廊下に出ると、娼館の同僚とすれ違い、眠そうに目を擦りながら声をかけてきた。
「フィー、いま上がり?」
「ええ……しばらくの間、休ませてもらうわ」
「しばらくって、大丈夫なの?」
私の体調を心配してくれているのか、私が休んでいる間の常連の心配をしているのか……まぁ、どっちだっていい。
「ええ、悪いわね……それじゃ」
そう言って店を出る。
歓楽街を抜ける頃には、陽の光が路地を眩しく照らしていた。
私に、他に居場所があると言うなら……
胸の奥で微かに膨らみ始めた希望を掴むために、フィリオーネは歩を進める。
――アビリティワークス
名刺に書かれていた場所を思い出し、たどり着いた先で質素な看板が目に入る。
フィリオーネが扉に手をかけた、その時……
「……次に、剛腕の……件ですが」
中から、微かに声が聞こえた。
足を止め、耳を澄ます。
「この一ヶ月、同一の娼婦を執拗に指名。拒否に対する反応が強く、他客とのトラブル複数件」
電話で話をしているのか、相手の声は聞こえてこない。
「魅了の影響下にある可能性は高いが、それを理由にした暴力的な言動は、本人の性質と判断」
魅了という言葉に、フィリオーネはわずかに身体を強張らせた。
「……歓楽街全体の秩序を乱す要因になり得るものと評価します」
淡々とした声だった。
フィリオーネは、その場で立ち尽くした。
剛腕の……ビルと、紅灯館のこと?
扉の向こうで、男は話を続ける。
「現時点では、監視を継続しつつ、問題行動が見られれば対象を制圧する方向で考えています」
相手の返事を確認しているのか、しばらく間が空く。
「……調査報告は、以上」
いったいなんの調査をしていたのか……
内容を聞く限り、私とビルの話だったみたいだけど……
フィリオーネは、ゆっくりと息を吐く。
エリオという男は、自分が思っていた以上に謎に包まれている。
それでも、私がここに来たのは……
意を決して、扉に手を伸ばす。
扉を開けると、机に向かうエリオの姿があった。
書類を整え、封筒に入れているところだった。
顔を上げる。
「いらっしゃいませ……あなたは」
フィリオーネの顔を見ると、少し困ったように眉を下げた。
「今の話、聞いていましたか?」
「……ええ」
正直に答えた。
「どうして、紅灯館とビルのことを調べてたの?」
「……彼が、この街の秩序を乱す恐れがあると、調査の依頼がありましてね」
「調査って……ここは、人材派遣の会社じゃなかったかしら?」
「ええ、まぁ……表向きは」
「そんなこと、私に話しても大丈夫なの?」
エリオは、すぐには返事をしなかった。
彼はゆっくりと立ち上がると、隣の部屋へと向かう。
「こちらへどうぞ……あなたに紹介する仕事も、先ほどの話と無関係ではありませんので」
エリオの促すままに、隣の部屋へと向かう。
「私に紹介する仕事……?」
エリオは顔を上げ、フィリオーネを見つめると静かに口を開いた。
「はい」
そこから、先ほどまでの穏やかな雰囲気とは違い、真剣な表情へと変わる。
「失礼ながら、あなたのアビリティや紅灯館での様子を調べさせていただきました……」
フィリオーネは少し目を見開いてから、静かに尋ねた。
「何のために?」
フィリオーネの問いに、エリオは少し間を空けて答えた。
「……もちろん、あなたがどういった人なのかを知るためです」
淡々とした口調だった。
「それは、私のアビリティが危険だから?」
「いえ、危険だからではありません」
エリオは首を横に振る。
「この街にとって、あなたが秩序を守る存在かどうかを見極めるためです」
フィリオーネは、思わず笑いそうになった。
「秩序って……ずいぶん大層じゃない。娼婦一人に」
「大層ではありません」
きっぱりと言い切られ、フィリオーネは言葉を失う。
「魅了というアビリティは、使い方によっては組織的な犯罪に結びつくこともあります」
エリオは静かに続けた。
「ですが……あなたは、これまで一度も自分の能力を使って、誰かを支配しようとしなかった」
胸の奥が、わずかにざわついた。
「支配って……そもそも、この力を制御することもできないのに」
エリオは顔を上げ、真っ直ぐにフィリオーネを見る。
「だとしても……あなたは、自分が"歪みの中心"に立っていることを自覚している。その自覚がある人間を、この街は必要としています」
「……どういう意味よ?」
エリオは引き出しから一枚の紙を取り出した。
「グランベルカには、この街の秩序を守るための存在がいることをご存知ですか?」
「……いいえ、聞いたことがないわ」
フィリオーネは首を振りながら問いかける。
「その、秩序を守る存在っていったい……」
「秩序を乱そうとするアビリティ犯罪を調査し、必要であれば、その鎮圧を担う組織、"調停委員"」
「調停委員……それじゃ、あなたも?」
「はい。表向きは、この会社で人材派遣の仕事をしていますがね」
エリオはそう言って、小さく息を吐いた。
「アビリティ犯罪の中でも、とりわけ厄介なのがマインド系のアビリティだと言われています」
フィリオーネは、その言葉に反応した。
「マインド系って、洗脳とか……魅了とか?」
「ええ」
エリオは頷く。
「マインド系のアビリティの影響を受けているかを判断するのは難しいのです。しかし、同系統の精神干渉を受け続けている人間は、外部からのマインドコントロールが定着しにくい傾向があります」
フィリオーネは、エリオの言葉から彼の言いたいことをすぐに理解した。
「……つまり私の力が効かない人間は、なんらかの干渉を受けているってこと?」
「その通りです」
エリオは言葉を続ける。
「それに、マインド系のアビリティ保持者は、他者の干渉を受けることはありませんから、その手の調査に向いているんです」
「急にそんなこと言われても……そもそも、あなただって魅了の力が効いていないじゃない」
以前にも感じたが、彼には私のアビリティの影響がまったく感じられなかった。
「それは、私のアビリティが関係していますので、今はお教えできませんね」
教えられない……いったいどんなアビリティなの?
でも、彼の言う通りなら、私にも違う生き方ができる。だけど……彼の言うことが本当だとも限らない。
一度にたくさんの情報が錯綜し、目の前で考え込むフィリオーネに、エリオは静かに声をかけた。
「こんな話をいきなりされても、頭の整理ができないでしょう」
フィリオーネを気遣うように穏やかな口調で続ける。
「そもそも、調査と言っても、マインドコントロールを受けた輩に襲われる可能性もあります」
「……」
その言葉に、ビルの顔が脳裏に浮かぶ。
「もちろん、無理に勧めるつもりはありません……断っていただいても構いません」
魅了の力に振り回されるしかないと思っていた。
だけど、その力でこの街の秩序を守ることができるなんて考えたこともなかった。
「少し……考えさせて」
「その方が良いでしょう。あなたの気持ちが固まれば、またお越しください」
エリオは先ほど取り出した紙をフィリオーネに手渡す。
「こちらに、調停委員についての要項がまとめてあります。よければ、目を通してみてください」
紙を受け取り、フィリオーネは胸元のロケットを握りしめる。
彼女はエリオに軽く頭を下げると、アビリティワークスを出た。




