④光と影
――人材派遣会社『アビリティワークス』に、一通の封書が届いたのは、ミラとともにヴィデーレに赴いてから一週間後のことだった。
差出人はヴィデーレの社長、ディルク・ヴィデーレ。
封を切ったエリオは、中身にざっと目を通すと、小さく息を吐いた。
「……さすがディルク社長、期待通りだ」
新設される一般家庭向け点検支部。
その初期メンバーとして、ミラ・ルージュを迎え入れるという内容だった。
試用期間は三か月。
業務は局所点検に限定。
無理な長時間労働はさせないこと。
諸条件に目を通してみたが、内容は誠実で待遇は悪くないものだった。
エリオは書面を折りたたみ、応接室の方へ視線を向ける。
ソファに腰掛けたミラは、落ち着かない様子で両手を膝の上に揃え、紅茶の湯気をじっと見つめていた。
「ミラ様」
呼ばれて顔を上げる。
「……はい」
「ヴィデーレから返事が来ました。新支部の従業員として、採用していただけるそうです」
一瞬、意味を理解できなかったのか、ミラは瞬きを繰り返した。
「……え?」
「試用期間はありますが、正式な雇用です」
その言葉を聞いた瞬間、ミラの肩から、ふっと力が抜けた。
言葉が出せず……
ただ、唇を震わせて、何度も頷いた。
「……ありがとうございます」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「お礼はまだ早いですよ?新支部での初仕事。覚えることは多いでしょうから」
「はい……私、頑張ります!」
ミラの瞳には、光が灯ったかのように強い決意が芽生えていた。
――数日後。
ミラは、ヴィデーレ新支部の依頼者宅で仕事をしていた。
築年数の経った一般住宅。
給湯器の調子が悪いという依頼だった。
「じゃあ、お願いできるかな」
年配の職人がそう言って、一歩下がる。
ミラは小さく息を吸い、給湯器の外装に、そっと手を当てた。
――視界が切り替わる。
白と黒だけの世界。
金属の奥、配管のつなぎ目。
「……ここです」
ミラは、触れたまま、指先で一点を示した。
「この辺り、内部が摩耗しています。外からは見えませんが……」
職人が工具を入れ、言われた箇所を開く。
「……おお、こりゃ結構劣化が進んでるな」
小さく感嘆の声が漏れた。
「こんなとこ、よく気が付いたな」
その言葉を聞いた瞬間、ミラの胸の奥が、じんわりと温かくなった。
ミラは、ゆっくりと自分の胸に手を当てて目を閉じる……そこには確かな光を感じた。
――その日の夜。
歓楽街の外れ、色褪せたネオンの灯りが並ぶ通りで、ひとりの女性が煙を吹かしていた。
フィリオーネ。
魅了のアビリティを持つがゆえに、娼婦として生きてきた女だ。
彼女は数日前に店の前で見かけた娘の顔が、脳裏から離れずにいた。
絶望感に苛まれ、光を失ったような表情……
「……あの子、元気でやっているかしら」
フィリオーネは胸元のネックレスに触れ、小さなロケットを指先でなぞった。
そこに入れていた名刺は、もう入っていない。
自分もまた、この街で生き方を選び直せるのか。
そう考えた瞬間、胸の奥に、かすかな熱が灯る。
すぐに消えてしまいそうな、弱い光。
――《フィリオーネ、休憩は終わりだ》
頭の奥に、店のスタッフの声が直接響いた。
彼女は、ゆっくりと煙を吐き出す。
――《常連が来てる》
"常連"という言葉で、すぐに誰のことか分かった。
剛腕のビル・ダート。
剛腕のアビリティを持ち、羽ぶりの良い客の一人だったが、フィリオーネの魅了の力に強く惹かれた男。
連日店に現れ、力に物を言わせてフィリオーネを独占する客だ。
――《今日も、お前を指名してる》
少しの沈黙。
「……分かったわ。すぐ戻る」
それだけ答えて、念話を切った。
煙草を携帯灰皿に入れて蓋を閉める。
胸元のネックレスに、無意識に指が触れた。
空っぽのロケットを握り締め、娼婦としての自分へと気持ちを切り替える。
煌びやかな光の中を抜け、店へと戻ると……
その入り口で、大柄な男が待っていた。
剛腕のビル・ダート……その名の通り、猛々しい筋肉を誇示するように両腕を組む。
ビルはフィリオーネを見つけると、口元を歪めた。
「遅かったな」
低く、重たい声。
「……お待たせしました」
フィリオーネは、微笑みを作る。
それは、感情を表に出さないための仮面。
男の視線が、舐め回すように彼女の身体を見つめる。
「朝まで楽しませてもらうぞ」
ビルは下卑た笑みを浮かべながら、彼女の肩を抱く。
フィリオーネは、煮えくりそうな嫌悪感を抑え込み、前へ進む。
「こちらへ」
二人が店の中へと消えていくと、ゆっくりと扉が閉まる。
甘い照明に満たされた通路。
逃げ場のない、静かな空間。
フィリオーネは、奥へと歩きながら、思う。
――あの子は、光のある場所へ行った。
――私は、まだ影の中だ。
だって……これが私の生きている世界なんだから。
自分に言い聞かせるかのように、その思いを飲み込み、ベッドの中へと沈んでいった。
――夜が明ける頃
ビル・ダートは、満足気な足取りで部屋を後にしていった。
室内に残されたのは、乱れたシーツと、重く澱んだ空気だけだった。
フィリオーネは、ベッドの縁に腰を下ろしたまま、動けずにいた。
どれくらい、そうしていただろうか。
やがて、カーテンの隙間から、朝の光が差し込む。
白く、暖かな光。
それが頬に触れた瞬間、
張り詰めていたものが、静かに崩れた。
涙が、一筋、頬を伝う。
逃げ場のないこの街で……
魅了の力を持ったばかりに、歪んだ人生。
それでも、あんな客に自分を好きに汚される毎日に
……もう耐えられなかった。
胸元のロケットに、指先が触れる。
こんな私にも、他に居場所があるというの?
フィリオーネは、ゆっくりと立ち上がった。




