32話 実験台なら覚えられる
彩が巌の肩を揺さぶる。意識がもうろうとして言葉も出なくなっている。巌が消え入りそうになりながら口を開いた。
「彩……」
あまりに弱弱しい声なので彩が慌てて巌の耳に噛みついた。
「あんまり……喋るな……って? でも、どう……しても……言いたいことが……」
彩は巌が死を覚悟しているのだと察知した。自分に人間のままでいてもらうために。彩も覚悟を決めた。二度と人間の姿に戻れなくても巌を救おうと。
「やめろ! ……お前には……普通に暮らして……ほしいんだ…お前なら……大丈夫だよ……俺が、いなくても……きっと……前みたいに……口うるさく……大丈夫だよ。ずっと……傍にいるから…」
とぎれとぎれになりながら思いの限りを伝える巌の耳元に彩が唇を近づける。
「どした? ……何か……言いたい……のか?」
いつものように巌の耳に噛みついて言葉を伝える。今度は彩自身の思いの丈を。
「うん……うん……嬉しいこと……言ってくれるじゃ……ねえか……これなら……心置きなく……」
彩が巌の胸をポカポカ叩く。巌は複雑そうに微笑んでいる。
「いわ、お」
たどたどしい声で誰かが巌を呼ぶ。長いこと聞いていなかったが、この声を忘れているはずがなかった。彼はずっとこの声が聞きたかったのだから。少しだけツンとした清らかで優しい声だ。
「し、なな、いで」
「……参ったな……その……声で……頼まれちゃ……分かったよ……」
真っ白い、暖かな羽根が巌を包み込む。彩が祈りをささげると巌を蝕んでいた毒はきれいさっぱり消えてしまった。
「なんか……楽になった気がする。……その姿……ありがとな……ごめんな」
彩が何かを伝えようとするが言葉が喉元に引っ掛かってしまう。
「ゆっくりでいいよ。ずっとそばにいるから」
背後から誰かが近づいてくる気配を感じる。慌てて振り返ると、玄雄たちだった。
「巌さん! あ、彩さん無事だったんですね」
果たして無事と言っていいのか……しかし巌にとってどんな姿でも彩は彩だ。
「玄雄、夕陽。向こうの部屋で銀子と涼音が戦ってる。加勢に……うぐっ……」
毒が消えたとはいえ体に蓄積した疲労とダメージが相当大きいようだ。立ち上がろうとしてそのまま倒れ込んでしまう。
「俺が行く。夕陽は二人についてやっててくれ」
「分かった」
玄雄が左手でサムズアップしながら走り去って行った。
「……頼もしいな」
彩も無言で頷いた。のっぺらぼうのように表情は消滅しているが、微笑んでいるように見えた。
「……この感じ。選んだか。どけ! 文月彩の遺伝子を回収する!」
「どきません! ……べへぇっ! しびれます……」
「涼音! くっ……」
互いに決め手を欠いてジリ貧になっている。銀子たちも羽根を見ないように注意しているから、軽度の毒しか食らわないがそれがジワジワと積み重なって追い込まれてきている。
「目障りだ、さっさと消えろ」
久慈屋が翼で涼音を薙ぎ払おうとする。翼に食らいついて回避する。
「やめろ! 噛むんじゃない!」
そのまま羽根を射出してくちばしを貫かれてしまう。銀子が背後から氷剣で切り付けて救出する。
「涼音! 銀子さん!」
玄雄もやってきたようだ。久慈屋もそれを見て苦々しい顔をした。
「八咫烏か……社長はおっしゃっていた、退くのも勇気だ」
「逃がすかぁ! ヤタカガ……」
「映させないよ!」
地面からコンドルお兄さんが飛び出してきた。逃げたと思ったらこんなところに潜んでやがったのか!さっきみたいにヤタカガミを腐食させられてしまう。
「さあ、参りましょう。久慈屋さん」
久慈屋をそのまま出てきた穴に引っ張りこんでいった。クソ! またやられた!
「あー、もう! またかよ!」
二人が無事だっただけでも良かった、と言い聞かせて心を落ち着ける。いや、涼音はすごい流血だ。銀子さんも傷はあるけどもうカサブタになってる。
「うわぁ! 血が!」
「止血しなくちゃ!」
それだけじゃないか。あいつらの実験拠点も分かった。俺たちの目的はあくまで空飼を止めることだ。これは世間に訴えるうえでの材料にもなるはずだ。ヒバリと波里さんとも合流して実験場を後にした。
「お帰り。どうだった?」
社長室で待つ空飼のもとに久慈屋とコンドルお兄さんが戻ってきた。
「申し訳ありません。八咫烏が現れてやむを得ず……」
「俺の腐食も長いこと持たなかったしね」
久慈屋が深々と頭を下げる。コン兄は余裕そうに頭をかいている。
「いや、賢明な判断だよ。それよりアヤの遺伝子は?」
「いえ、それは……」
「はいはい。拾っておいたよ」
コン兄が空飼に羽根を一枚差し出した。久慈屋はそれを見て唖然とした。
「お前いつの間に……」
「おお! さっすがコンドルお兄さん!」
手柄を得られなかった久慈屋が悔しそうにうつむいた。
「申し訳ありません、何の成果もあげられず……この責任は……」
「あー、そういうのいいから。これから実験場の移転準備で大変なんだから。責任感じてるならそっちで頑張ってよ」
「……ありがとうございます。次こそは必ず……」
「気に病むことはない。クジヤ君がいたからこそコンドルお兄さんも羽根を回収できたんだ。君にはいつも助けられてるよ」
空飼が巧みに感情を込めた声で久慈屋を慰める。コン兄も愉快そうに肩をゆすっている。
「それより一人話しておかないといけない人がいるんだよな……ハジさん、いるんだろ?」
社長室のドアが開いて羽地が入室してくる。何かを隠すように薄ら笑いを張り付けている。
「お話、とは何でしょう? 妻と娘が家で待っているのですが……」
「時間は取らせないよ。今回の計画の発案者は君だったね?幻獣の翼を手に入れて、邪魔な連中も一網打尽。君にしては随分欲張ったね」
「申し訳ありません。効率的なやり方だと思ったのですが……」
「別に失敗を責めてるわけじゃないよ。本当の実験場の場所を教える必要はあったのかな?と思ってさ」
「……嘘を言って疑われては意味がありませんから」
「なるほど……てっきり彼らに実験場の場所を教えるためかと……」
「……私を疑っておいでですか? そんなことをしても私にメリットがありませんよ。もし人体実験のことが明るみになれば、会社の評判はがた落ち、株価は暴落、大規模リストラ、果てには倒産!?想像しただけでゾッとしますよ……これから娘の学費やら何やらでいくらお金があっても足りないというのに……」
早口でまくしたてる羽地を、空飼はにこやかな表情で見つめている。
「そうか。そうだよね。変なこと聞いてごめんね。……ところで、娘さんは何て名前だっけ?」
羽地の眉毛がピクリと動いた。静かに深呼吸をしてから口を開く。
「娘は関係ないでしょう」
「うん、そうだね。君の娘さんの名前、憶えさせないでくれよ」
羽地の瞳孔が大きく開く。空飼は冷酷な目を向けている。
「……もちろんです。私は、会社と家族のために生きていますから」
「ならいい。今後ともよろしく!」
こうべを垂れた羽地の額には、冷たい汗が走っていた。
彩さんについて
「幻獣の翼・天使」の遺伝子を新たに獲得した。ハバタキは「天使の施し」捧げた祈りを現実にする。心からの、深い祈りでなければ効果を発揮しない。
能力を使用したことにより人間の姿に戻れなくなってしまった。顔のパーツはすべて消えて表面の凹凸だけが残っている。ハバタキは一度しか使用していないが、彼女は異常な程”馴染んで”いたためこうなった。しかし彼女のそばには巌がいる、きっと幸せに過ごしていけるだろう。




