放課後のチーズブール
営業終了後の泰龍軒。瑠衣はいつものように、最後の片付けをしていた。その様子を見て、龍彦は切なそうに眉を曇らせた。
「瑠衣。」
「ん?なに、おじいちゃん?」
カウンターの向こうから、龍彦が瑠衣に声をかける。
「明日は店に出てこなくていいぞ。」
「え?」
思いもよらない言葉に、瑠衣の手が止まる。
「でも、明日は金曜日だし…」
「だからじゃ。」
龍彦はため息をつく。
「お前は学校が終われば毎日ここに来とる。休みの日も勉強か店の手伝いじゃ。頑張ることは悪いことではない。」
龍彦は優しく続ける。
「だがな。お前はまだ高校生だ。」
「……。」
「たまには、羽を伸ばしてこい。」
瑠衣は少し驚いた顔をする。
「……いいの?」
「わしがいいと言っておる。」
龍彦はそっぽを向く。
「お!なんだよじいさん!話がわかるようになってきたじゃねーか!俺もそろそろ羽を伸ばさないとなーって思ってたとこなんだよ!」
「バカタレ。おまえは明日も来い。金曜の夜に店を閉めるわけにいかんじゃろが。」
「そんなぁぁぁあああ。」
いつも通りの質の低い漫才に瑠衣はクスッとする。
「おじいちゃん……ありがとう…。」
そう呟いた瑠衣は、どこか後ろめたそうな表情をしているようにも見えた。
翌日。放課後の教室で、女子生徒たちが集まっておしゃべりに花を咲かせていた。
「ねぇねぇ!駅前にできたパン屋行った?」
「行った行った!めちゃくちゃ美味しかったよ!」
「店内でも食べられるんだって!」
「今日帰りに行こうよ!」
「いいね!」
その会話を聞いていた瑠衣の友達が、ふと思い出したように瑠衣を見る。
「あ、瑠衣も……」
しかし、すぐに言葉を止める。
「……でも瑠衣、今日もお店だよね。」
「あ……。」
瑠衣は少し考える。
昨日、龍彦に休めとは言われたが、いつものように、放課後は泰龍軒へ行くつもりだった。
料理を覚えたい。おじいちゃんの手伝いをしたい。それは本心だった。自分のヘマで、中華鍋を振れなくなってしまった龍彦に対する贖罪の念も抱いていた。
でも――。
「んー……。」
瑠衣は笑った。
「今日は一緒に行っちゃおうかな。」
「え?」
「実はね、おじいちゃんが今日は休んでいいって言ってくれたの。」
「えぇ!?」
「瑠衣が寄り道!?」
「珍しい!」
友達たちが一斉に驚く。瑠衣は笑う。
「私だって普通に遊ぶことくらいあるよ!」
「じゃあ決まり!」
「瑠衣も一緒ね!」
「もちろん!」
友達に囲まれて、瑠衣は少し照れながら笑った。自分が思っていた以上に、友達は自分と一緒に過ごしたいと思ってくれていたのかな。自信はなかったが、なんとなくそんな気がした。
駅前のパン屋の店内には、焼き立てのパンの香りが広がっていた。
「瑠衣、何にする?」
「うーん……」
並んだパンを眺める。どれも個性的で、宝石のように綺麗で、とても美味しそうだ。その中で、ひとつのパンに目が止まった。
「これにする」
「チーズブール?」
少し前。航平が言っていた。
『チーズブールも美味そうだったから買っちまった』
その時の嬉しそうな顔を思い出す。
「清永くん、美味しいって言ってたな……」
小さく呟いてから、瑠衣は首を振った。今日は友達との時間だ。
「あと紅茶もお願いします!」
焼き立てのパン。外側はカリッとしていて、中は驚くほどふわふわだ。口に入れた瞬間、小麦とチーズの香りが広がる。少しの塩気。パンの甘み。絶妙なバランス。
「美味しい……」
思わず笑顔になる。
「でしょー!」
「具留米学園の卒業生のお店なんだって!」
「ねぇねぇ、そういえば試験どうだった?」
「斎浦くんってかっこいいよね〜…!球技大会のときなんてさ…」
「ていうかさ……」
「最近、彼氏できた子いるんでしょ?」
「え!?誰!?」
たわいのない話。昨日見たドラマ。学校のこと。男子のこと。料理とは関係のない、普通の女子高生の会話。でも、瑠衣は思った。
「美味しい料理って、味だけで決まるものじゃないのかもしれないな。」
泰龍軒で食べる料理。
航平が作る賄い。
家族で食べる運動会のお弁当。
夜中に部屋でこっそり食べるジャンクフード。
そして今、友達と笑いながら食べる、このパン。
食べるものも違う。場所も違う。一緒にいる人も違う。値段だって違う。それでもーーー
どれも、その瞬間にしか味わえない、大切な一食なのだ。
「瑠衣?」
「え?」
「なんか嬉しそう。」
「うん。」
瑠衣はパンを見つめて笑った。
「なんか……幸せだなって思って。」
21時。泰龍軒の営業終了時間。
「ただいまー!」
「おぉ、瑠衣。帰ったか。」
龍彦の表情が緩む。
「今日は遅かったな。」
「みんなで駅前のパン屋さんに行ってたの!」
瑠衣は買ってきたパンをテーブルに置く。
「これ、お土産!」
「そうか。美味そうなパンだな。」
航平が近寄ってきて目を丸くする。
「これ駅前の新しい店のだろ?」
「うん!この前清永くんたちが行ったって聞いてから、ずっと気になってたの。すっごく美味しかった!」
「へぇ。」
航平はパンを見る。
「……チーズブール。」
自分と好みが似てるのか、それとも自分が買ったと話したことを覚えていたのか。本当のところはわからない。それを聞くのも野暮な気がした。ただ、少しだけ嬉しそうな顔をする航平。それを見て、瑠衣も笑った。
「じゃあ、今日の賄いはこれじゃな」
龍彦が突然言う。
「え?」
航平が振り返る。
「パンが賄い?」
龍彦は冷蔵庫からチャーシューと卵を取り出す。
「チャーシューエッグでもあれば、立派な賄いじゃろ」
航平は呆れた顔で笑った。
「自由すぎるだろ、泰龍軒…。」
その日の泰龍軒には、いつもとは少し違う香りが広がった。パンの香り。チャーシューの香り。そして、いつもの笑い声。
瑠衣は思った。きっと料理とは、誰かを想って作り、誰かと一緒に食べることで、もっと特別になるものなのだ。人生で食べる一食一食を大切にしたいと思った。
「私も一緒に食べちゃおっかなー!」
「おまえ、食ってきたんじゃねーの?」
「いいじゃないか。瑠衣も食え食え!」
ーーー今、この瞬間も。




