炎の力。食材の声。
まだ夜も明けきらぬ山寺。静寂を裂くように、護摩木が炎へ投げ込まれる。
ゴォォォォ……ッ!!
燃え盛る炎が玲司の顔を赤く照らした。滝のように流れる汗。眉一つ動かさず、その炎を睨み続ける。
「俺は負けた。」
小さく呟く。
「火入れ……。」
炒飯対決に敗れ、そして中間試験の青椒肉絲でも、清永航平に勝利することは叶わなかった。たった一瞬。ほんのわずかな火の入り過ぎ。それだけで、清永と並んでしまった。それ以外は互角。包丁だけなら自分が勝っていたのに。ぐっと奥歯を噛み締める。
「必ず炎を自在に操ってみせる…。」
炎へ一歩踏み出す。護摩業に、料理の際の火の扱いを上達させる効果があるかは定かではないが、少し引き気味の坊主たちをよそに、玲司の顔は真剣そのものだった。
「今に見ていろ……清永航平…!」
そう呟き、玲司はカッと目を見開いた。
翌日の放課後。美味斎のオーナー専用の個室。磨き上げられた丸テーブルに、一皿の青椒肉絲が置かれる。玲司は父・雄一の前に立っていた。
雄一は無言で一口食べる。咀嚼し、飲み込む。
「……。」
しばらくの静寂。
「……ダメだな。」
玲司の肩が僅かに震える。
「これではまだ、完璧とは言えん。」
「……はい。」
唇を噛む。
「同級生に、あの清永剛志の息子がいる。」
雄一は立ち上がる。
「それがわかった以上、敗北は許されん。」
「はい、父さん。」
「ここではオーナーシェフと呼べ。」
玲司は頭を下げる。
「……失礼しました。」
雄一は振り返らない。
「お前は美味斎を継ぐ男だ。負けは許されん。」
そう言って、雄一は窓から向かいの古びた町中華の店、泰龍軒をじっと見つめる。その背中を見ることもできず、玲司は黙ってずっと俯いていた。
その翌日。調理実習室で玲司は一人、青椒肉絲を作り続けていた。
(ここで強火。)
(三秒。…そして中火。)
(今だ!)
完成した青椒肉絲を試食する。
「……違う。」
もう一皿。また一皿。何度作っても納得できない。
(火力は間違っていない。)
(温度も計算通り。)
(なのに、なぜだ。)
その様子を渡邊は廊下から静かに見守っていた。
「斎浦。」
玲司が振り向く。
「少し付き合ってくれるかな。」
誰もいない実習室で、玲司に声をかけると、渡邊は中華鍋を火にかけた。油を入れ、加熱していく。
「この火を見てどう思う?」
「強火です。」
「そうだな。」
渡邊は笑う。
「じゃあ、この炎は何に火を入れようとしている?」
「……え?」
「肉か、野菜か、それとも油なのか。」
玲司は答えられない。渡邊は火を止めた。
「火には意思がない。炎は、自分では何も決められない。」
そう言って、もう一度火をつける。今度は熱したフライパンに少量の水を垂らした。ジュッと音を立てて、一瞬で蒸発する。
「かと言って、従わせるものでもない。」
玲司の目の中で、コンロの赤い火が揺れる。
「料理人が主役じゃない。火も主役じゃない。主役は食材だ。」
渡邊は冷蔵庫から取り出してきたピーマンを一つ手に持つ。
「このピーマン。今、どんな状態だ?」
「……冷えています。」
「そう。じゃあ、どう火を入れる?」
玲司は考える。
「まず軽く油通しをして、炒めるときは食感が活きるように……。」
「違う。」
渡邊は首を振る。
「レシピならそうだろう。だがそうじゃない。」
渡邊は言葉を続ける。
「答えは、食材が教えてくれる。」
「食材が…教える…。」
「清永は火を見ていない。食材を見てるんだ。」
玲司の瞳が大きく開く。
「だから必要になった瞬間だけ火を借りる。火を操っているように見えるのは、食材に合わせて、火へお願いしているだけなんだ。」
玲司は黙って渡邊の話を聞いていた。
「清永だけじゃない。一流の料理人は、炎を支配しようとはしない。」
玲司は思い返す。航平の料理。あいつは炎を睨んでいなかった。食材の音、香り、色…。全部を見て、感じているようだった。
「……。」
渡邊は優しく笑う。
「斎浦。お前はずっと主語が火になってるんだ。
『ここで強火にする。』
『ここで弱火にする。』
『ここで鍋を振る。』
って具合にね。でも、清永は違う。
『肉が今こうだから、強火にする。』
『野菜が今こうだから、火を弱める。』
『食材がこう言っているから、鍋を振る。』
同じ料理でも、考え方はまるで違う。」
玲司は黙って俯いた。炎ばかり見ていた。炎を制御することばかり考えて、料理の主役を、自分で入れ替えてしまっていた。食材を見ているつもりで、実は見えていなかった。玲司はそっと拳を握る。
「……ありがとうございます。」
渡邊は微笑む。
「これで終わりじゃない。ここからがお前の料理だ。」
その日の夜。美味斎の厨房。玲司は静かにピーマンを一本手に取る。炎ではなく、包丁でもなく、まず食材を見つめた。
「……おまえの声を、俺にも聞かせてくれるか。」
小さく呟く。その一言は、炎ではなく食材へ向けられていた。
「よし。もう一度…!」玲司はまた、青椒肉絲を作り始めた。包丁を手に取る。刀身の根元に、「慎」の一文字が刻印された、玲司愛用の包丁。深呼吸し、細切りに取り掛かる。包丁を握っているときも、鍋を握っているときも、心は常に目の前の食材たちに向けようと、玲司は固く誓った。玲司の料理は、この日から少しだけ変わり始めた。




