雨の合羽橋。運命の刃。
ある日の泰龍軒。
「うーむ……。おまえ、鍋の扱いに比べて、包丁はてーんでダメじゃの。」
「うるせぇな!」
航平も負けじと言い返す。
「言われなくてもわかってるよ!」
トントントン……
包丁を動かすが、どこかぎこちない。切れてはいる。でも、自分の思ったようには動いてくれない。
営業が終わり、航平は包丁を見つめながらため息をつく。
「……なんか変なんだよな。」
瑠衣が隣へ来て顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「包丁が全然ダメなんだ。こっちに来てから、一度も納得いったことがない…。うちの店手伝ってた頃は、もっとうまく切れてた気がするんだけど…。腕が鈍ったのかな。」
そこへ洗い物を終えた百田がやってくる。泰龍軒に勤めるベテランの料理人で、背は高くないががっしりした体格に柔らかい表情が印象的な男だ。百田は学校支給の航平の包丁を手に取る。
「包丁、研ぐのはいつも自分で?」
「うん。」
「砥石は学校の?」
「うん。この前は店のを借りたけど、いつもは学校の。」
「実家でも包丁は砥いでた?」
「うん。親父の予備の包丁借りてたから、手入れしないと親父に大目玉食らうからさ。だからガキのころから自分で。」
「ふむ……。」
航平の包丁を舐めるように見ていく百田。そして、刃先をそっとなぞる。
「鈍ったわけじゃないかもしれないよ。」
「え?」
「包丁が合ってないのかも。」
航平は首をかしげる。
「合ってない?」
「それ、入学してからずっと使ってるだろ?」
「うん。」
「学校の包丁が悪いってわけじゃないけど……。学校が用意するのは、あくまで教材としての包丁だからね。」
百田は包丁を航平に返す。
「自分に合う包丁、探しに行ってみたら?」
龍彦も静かに頷き、少し考えてから口を開く。
「次の土曜に合羽橋にでも行ってこい。昼は休みにしといてやる。包丁は料理人の相棒みたいなもんじゃ。しっかり選んでこい。瑠衣、おまえもついて行ってやれ。」
「え?俺一人じゃダメなのか?」
「お前一人じゃ、店員に丸め込まれるのがオチじゃろ。瑠衣は見張り役じゃ。それに、瑠衣も自分の包丁を持っておっても損はないからな。頼んだぞ。」
「はーい!」
「ひでぇ…。」
土曜日は朝から雨が降っていた。二人は泰龍軒で待ち合わせ、傘を並べて歩く。目的地は合羽橋道具街。包丁、鍋、せいろ、食品サンプル…。料理人の夢が並ぶ街。合羽橋に着くと、瑠衣は食品サンプルの天ぷらを見て目を輝かせる。
「見て見て!本物みたい!」
「本物じゃねぇからな。…食うなよ?」
「食べないよ!」
笑い合う二人。なんだか雨音も心地いい。久しぶりに高校生らしい休日を過ごしている気がした。
しばらくウィンドウショッピングをして、ついに目的の刃物店を見つけて中に入ると、店員が笑顔で迎える。
「いらっしゃいませ。当店は初めてですか?」
「はい。今日は中華包丁を探しに…」
「でしたら、こちらですね。」
中華料理では、一本の包丁でなんでも切るのが基本的な文化で、プロでも3本から多くても6本程度の包丁を使い分けることが多い。
「まずは一本、薄刃があればよかろう。」
と龍彦から助言をもらっていた。
「こちらは青紙スーパー。こちらは白一鋼。こちらは職人が一本一本…」
店員の説明を聞き流しながら、航平は値札を見る。
(高っ!!)
店員の案内した先には、一本十万円を超える包丁がずらりとならんでいる。値段に驚く航平に気付いたのか、店員は渾身の営業スマイルをこちらに向ける。
「高いとお思いになられるかもしれませんが、品質は間違いありませんし、何より…。」
店員は航平と目を合わせたまま、静かに、しかし鋭く説明を締める。
「長く使えますから。」
店員の圧力と、それに圧倒される航平を見て、瑠衣は苦笑いした。
店内にあるたくさんの包丁。それらを実際に手にとってみる。どれもしっくりこない。その中から、瑠衣が一本持ち上げる。
「あれ?……これ…。」
力を入れる必要なく、自然に握れた。柄が手に吸い付くような感覚。店員が試し切りを勧める。
「当店は試し切り用に数種類の野菜をご用意してございます。」
そう言って、店員は準備をしてくれた。
スッ……
トマトが潰れない。玉ねぎも吸い込まれるように切れる。瑠衣の表情がぱっと明るくなった。
「これ……好き。」
龍彦の言葉が浮かぶ。
『包丁は相棒みたいなもんじゃ。』
「私、これにします!」
店員の笑顔が少し引きつる。
(もっと高いのを勧めたかったのに……。)
店員はそう思ったが、
「かしこまりました。」
と笑顔のまま包装をしてくれた。
一方、航平はまだ決められずにいた。
「これも違う。……これも…。」
諦めて帰ろうとした、その時。店の一番奥。薄暗い隅。
「……。」
古いワゴンが目に入る。
『特価』
『長期在庫』
手書きの色褪せたポップが貼られている。その中に、埃をかぶった木箱。それが妙に気になって、その箱を開ける。静かに刀身が姿を現した。それを見て、店員が慌ててこちらにやってきた。
「あ、それはおすすめしません!ずっと売れ残ってる包丁なんですよ。少し古いですし、そちらを打った職人さんも、もう引退されてます。他をご覧になった方が…」
航平は黙って握る。ゾクッ。全身の毛が逆立つような感覚。自分の手と柄の区別がなくなるような、初めての感覚。
「あのー…お客様?」
「……。これ、試していいですか。」
トマト。大根。そして紙。
スッ。
スッ。
スッ。
(なんだこれ。)
(初めて持つのに……。)
(ずっと俺の手にあったみたいだ。)
瑠衣も驚いていた。
「清永くん……。」
今までで一番自然に包丁が動いている。
航平は迷わなかった。
「これください。」
店員は困った顔をする。
「しかし、それは……。」
店員が困惑していると、店の奥から千歳緑の着物を着た老人が現れる。スキンヘッドに鋭い目、立派な口髭、職人のような手をしている。航平の手にある箱を見て、それから航平の顔を見つめる。そして笑った。
「ほぅ…。ようやく持ち主が見つかったか。」
店員が驚く。
「店長!」
老人は航平の前に立ち、航平の手にあった包丁をそっと撫でる。
「その包丁は神谷慎が打った一本だ。神谷の打った包丁に、同じ包丁は二本と存在しない。ヤツはよく言っておったよ。──選ぶのは料理人ではなく包丁の方だ、とな。」
包丁を受け取り、航平はその刀身に目をやる。その根元に、小さく刻まれた一文字。
──慎。
老人は静かに笑う。
「モノは保証しよう。大事にしてやってくれ。」
航平は深く頭を下げた。
「はい…!」




