裏慎鉄・黒龍
「清永。自分の包丁を持って、俺について来い。」
中華鍋の問題が解決し、ようやく一息つこうかというところだった。
玲司はそれ以上の説明をすることなく、教室を出ていこうとする。
「ちょ、ちょっと待てよ。どこに行くんだ?」
「合羽橋だ。」
「合羽橋?」
航平は首を傾げた。
「ちょ、ちょっと待て!なんで急に合羽橋なんだよ!?」
「いいから来い。」
有無を言わせぬ口調だった。
航平は戸惑いながらも、自分の包丁を手に取る。
中華鍋の件で、玲司が自分の料理にどれだけ真剣に向き合っているかは、嫌というほど思い知らされたばかりだ。その玲司が、今度は自分の包丁を問題にしている。
理由はわからない。だが、何か考えがあるのだろう。
航平は玲司の後を追った。
合羽橋。数多くの料理道具を扱う店が軒を連ねるこの街で、玲司は迷うことなく一軒の刃物店へと足を向けた。落ち着いた佇まいの店。店頭に並ぶ包丁は、どれも美しく磨き上げられ、一本一本が丁寧に扱われている。店内にも余計な装飾はなく、静謐な空気が漂っていた。
「ここは……。」
航平は店の看板を見上げた。見覚えがある。自分が今使っている包丁を買った店だ。玲司が扉を開く。
「いらっしゃいませ。」
店員が一礼した。
「これはこれは斎浦様。いつもご愛顧いただき、誠にありがとうございます。」
「ご無沙汰しております。」
玲司もまた、慣れた様子で会釈を返した。
「本日は、神谷さんにお目にかかりたく参りました。」
その名を聞いた瞬間、店員の表情がわずかに変わった。
「……神谷、でございますか。」
「はい。」
「申し訳ございませんが、何度も申し上げている通り、神谷はすでに職人を引退しております。」
「承知しています。」
玲司は表情を変えなかった。
「それでも、お会いしたいのです。」
店員はしばらく玲司を見つめていた。やがて、静かに口を開く。
「斎浦様も、ご存知のはずです。包丁職人としての神谷慎は、もう死んだのです。」
静かな声だった。声を荒らげるでもなく、感情を露わにするでもない。それは、すでに決着のついた事実を告げるような口調だった。航平は思わず玲司の横顔を見た。玲司は何も答えない。まるで、その言葉の意味を十分に理解しているかのようだった。
「……どうしても、お願いしたいことがあるんです。」
玲司が頭を下げた。
「どうか、お取り次ぎいただけませんか。」
店員は目を伏せた。その沈黙が、店内をいっそう静かにする。
「……参りましたね。」
そう店員が難しい顔で呟いた、そのときだった。
「おや、斎浦くん?」
店の奥から、ひとりの男が姿を現した。千歳緑の着物を着た、スキンヘッドに鋭い目、立派な口髭の老人。この店の店主だ。
「お久しぶりです。」
玲司が深く一礼する。
「しばらくだな。良い顔つきになった。」
「……おかげさまで。」
店主は玲司に微笑みかけた。そして、その隣に立つ航平へと視線を移す。
一瞬、店主の目が止まった。
「おぉ、お前さんは……。」
「お久しぶりです。」
航平は頭を下げた。
「二人とも、そうかしこまるな。ぼうず、包丁の調子はどうだ?」
「はい。すごくいいです。手にもだいぶ馴染んできました。」
航平は腰に提げた包丁へと目を落とした。
「……そうか。」
店主は静かに頷いた。そのやり取りを見届けてから、玲司が口を開いた。
「やはり、あなたが清永に譲ったんですね。あの包丁を。」
店主は玲司を見た。
「……ああ。」
「やはり、そうでしたか。」
玲司の声には、確信があった。航平は二人を交互に見た。
「……えっと。」
話が見えない。自分の包丁の話をしているはずなのに、二人の間では何かがすでに共有されている。それが何なのか、航平にはまったくわからなかった。
「清永、お前、この包丁をどうやって手に入れた?」
「どうって……ここで買ったんだよ。」
「そうじゃない。なぜこの包丁を選んだのかを聞いているんだ。」
「え?」
航平は記憶を辿った。店頭に並んでいた包丁。店員に言われた言葉。
「……店の端っこ……、あそこに置いてあって、気になったんだ。そしたら、店主のじいさんに、これは持ち主を選ぶ包丁だって言われて……。」
「それだけか?」
航平は困惑した。
「あぁ。それで、手に取ってみたんだ。俺に合ってると思った。それで買ったんだよ。」
玲司は小さく息を吐いた。そして店主へと向き直る。
「やはり、清永には何も伝えていないんですね。」
店主は否定しなかった。
「……そうだな。」
「なぜですか?」
「話す必要があるか?」
店主は穏やかに答えた。
「包丁は、使う者が料理をするための道具だ。作り手の名前や、包丁にまつわる逸話を知っているかどうかは、本質的な問題ではない。」
「ですが……。」
「それに……。」
店主は航平を見た。
「こいつは、自分の手でその包丁を選んだんだ。」
店主は続ける。
「ワシは、それで十分だと思った」
玲司はしばらく黙っていた。やがて、静かに口を開く。
「……清永。よく聞け。」
その声は、いつになく真剣だった。
「この人は、ただの刃物店の店主じゃない。」
航平は玲司を見た。
「この方は、かつて数々の傑作を生み出した伝説の包丁職人、神谷慎だ。」
「……伝説の……包丁職人?」
「あぁ。俺の包丁、慎鉄『朱雀』も、この方が作ったものだ。」
玲司は腰から包丁を取り出した。
「そして、お前の包丁もな。その証拠に、俺の包丁にも、お前のと同じ『慎』の文字の刻印があるだろう。」
その刃に刻まれた銘を、航平は初めて意識して見つめた。
玲司は包丁を鞘へと戻した。
「俺が持っているこの包丁は、神谷慎の数ある作品の中でも傑作とされ、『慎鉄』と呼ばれるものの一本だ。」
航平は、玲司の包丁から自分の包丁へと視線を移した。
「……じゃあ、俺のも?」
「そうだ。」
玲司ははっきりと答えた。
自分が何気なく使っていた包丁。毎日のように握り、食材を切り、料理を作ってきた一本。それが、伝説の職人によって作られたものだった。
「……俺、そんなことも知らずに……。」
航平は自分の手元を見つめた。
「……すみません。俺、何も知らなくて。」
「謝ることはない。」
神谷は首を横に振った。
「お前さんはその包丁を大切に扱い、それを使って毎日料理をし、手入れをしてきた。それが何より大切なことだ。」
航平は顔を上げた。神谷の表情は穏やかだった。だが、玲司はまだ話を終えていなかった。
「神谷さん。俺たちの包丁を見ていただけませんか。」
玲司は自分の包丁に手を添えた。
「来月、大阪美食大附属との料理対決があります。俺たちは、どうしてもその勝負に勝ちたい。そのために、もう一度だけ、この包丁を看ていただけませんか。」
その言葉に、航平も顔を上げた。
「俺からもお願いします!」
航平は深く頭を下げた。
「俺、まだこの包丁のこと、何もわかってない。でも、こいつで勝ちたいんです。もっとこいつを知って、もっといい料理を作りたい。」
神谷は難しい顔をしたまま黙ったままだった。
そのとき、店の扉の方から声が聞こえてきた。
「俺からもお願いします。」
皆が振り向くと、そこに立っていたのは、真田和馬だった。
「真田先輩?」
航平が目を丸くする。和馬はいつもの静かな表情のまま、こちらへと歩いてきた。
「……君まで来たのか。」
神谷が和馬を見つめる。
和馬は背負っていた包みをそっと下ろした。中から現れたのは、二十本の包丁。
一本一本が異なる役割を持ち、それでいて、すべてがひとつの作品として完成している。一目でそれがわかるほどの美しい包丁たちだった。
和馬はそれらの包丁を見つめ、静かに口を開いた。
「俺の廿大天を……。」
一度、言葉を切る。それから、玲司と航平を見た。
「俺たち三人の包丁を、どうか……。」
和馬が深く頭を下げる。
「研いでいただけませんか。」
神谷は、三人を順番に見た。
玲司。
和馬。
そして航平。
それぞれが、異なる包丁を持ち、異なる料理を目指している。
けれど、今この瞬間だけは、同じ思いを抱いていた。
対抗戦に勝ちたい。
自分たちの料理で、勝ちたい。
神谷は、深くため息をついた。
「……まったく。ワシは職人はとうの昔に引退しとるんだぞ。」
神谷はやれやれと頭を掻いた。
「いいか。これが最後だぞ。」
そう言って、神谷は店の奥へと歩き出した。
「ついてきなさい。順番に看てやろう。」
三人は顔を見合わせた。
そして、それぞれの包丁を手に、神谷の後を追った。
かつて伝説と呼ばれた職人が、最後に手を入れる三つの作品。
慎鉄「朱雀」。
慎鉄「廿大天」。
そして、航平の包丁。
その刃が、神谷の手でその本当の力に目覚めようとしていた。
店の奥の作業場へ着くと、神谷は早速航平の包丁を手にとった。
「……よく手入れされている。大切に毎日使われていることがよーくわかる。」
そう言った神谷の顔は、どこか嬉しそうに見えた。しかし、続く神谷の言葉に、航平は驚きを隠せなくなった。
「だが、一つだけ言っておこう。お前さんの包丁は、慎鉄ではない。」
「……え?」
神谷慎の打った包丁の中でも傑作とされる包丁たち。それが慎鉄。
玲司の朱雀や、和馬の廿大天がそうだ。しかし、航平の包丁は違うと神谷は言う。
「慎鉄じゃない?」
「うむ。」
神谷は頷いた。
「だが、傑作かどうかという話なら……お前さんの包丁も、決して引けを取らない。」
その言葉に、玲司の表情がわずかに変わった。神谷は、航平をまっすぐに見据えた。
「お前さんの包丁には、特別な名前がある。」
そして、告げた。
「この包丁、名を裏慎鉄『黒龍』という。」
航平は息を呑んだ。
「……黒龍。」
その名を、確かめるように繰り返す。自分の包丁が、そんな名前を持っていたなんて。
神谷は静かに頷いた。
「ワシが作った包丁の中でも、ひときわ異質な一本よ。」




