あの日の中華鍋。
航平の作ったあの日と同じ炒飯を前に、玲司はもう一度レンゲを口に運んだ。
味はうまい。間違いなく、うまい。
だが、あの日とは何かが違う。
あの日、自分を打ち負かした炒飯。あのとき口にした味と、目の前の炒飯の味は、よく似ているようで、どこかが決定的に違っていた。
(何が違う?)
レシピは同じ。材料も同じ。作り方だって、航平はあの日を再現するように調理していた。
そもそも、航平の料理の腕は、あの日よりも確実に上がっているはずだ。炒飯を作る技術が落ちたなどとは考えられない。
ならば、何が違うというのか。
玲司は目を閉じ、舌に残る味を思い返した。
「……場所、か?」
ぽつりと呟く。
「ん?」
航平が顔を上げた。
「場所だ。あの日と今では、調理した場所が違う。厨房の環境や火力、その他の条件が影響している可能性はある。」
玲司は自分の考えを確かめるように言葉を続けた。
(だが、それだけではない気がする。あの日の炒飯には、今のものにはない何かがあった……。この違和感は一体なんだ…?)
航平は、少しだけ口元を緩めた。
「それも少しはあるだろうな。だけど、今回はそうじゃない。もう一つ、あの日と違うところがある。」
「もう一つ……?」
玲司が眉をひそめた、そのときだった。
「あっ……!」
瑠衣が、何かに気づいたように声を上げた。
「鍋……!」
「鍋?」
玲司が瑠衣を振り返る。
「そう!あの日、約束の時間に少し遅れて来た清永くん、自分の中華鍋を持ってきたの!」
「……!!」
玲司の目が見開かれた。
そうだ。確かに、あの日の航平は鍋を持参していた。
そして今日、航平が使っていたのは、学校に備え付けられている中華鍋だった。
「……そういうことか。」
玲司は改めて、目の前の炒飯を見つめた。
材料も、手順も、作り手の技術も、同じだと思い込んでいた。肝心なものを見落としていたのだ。
「その鍋は、そんなに違うのか?」
玲司の問いに、航平は頷いた。
「ああ。あれは俺がガキのころ、親父からもらった鍋なんだ。島にいた頃から、ずっと使い続けてきた。」
航平は、学校の中華鍋へと視線を向けた。
「他の鍋だと、どうしても微妙に感覚が違うんだよ。厚みや重さ、柄の感触、手入れの具合……。いろいろあるんだろうけどさ。やっぱり、あの鍋じゃないとダメだったか……。」
どこか他人事のような口調だった。
その瞬間、玲司の表情が険しくなった。
「ふざけるな!」
「うおっ!なんだよ、急に!」
「つまり、お前は自分の本来の力を発揮できないとわかっていながら、ずっと学校の備品で料理をしていたということか!?」
「いや、だから……!」
「自分の火入れにどれほどの自信があるのか知らないが、わずかな感覚の違いが仕上がりを左右することくらい、お前なら理解しているはずだ!」
玲司の声には、明らかな怒りがこもっていた。
航平は困ったように頭をかいた。
「そんなに怒んなよ。確かに微妙に感覚は違うけど、正直、人に気づかれるほどだとは思ってなかったんだよ。」
航平の本音だった。
「ほとんど毎日働いてる泰龍軒から、毎日鍋を持ち帰って、また持って登校するわけにもいかねーだろ?めんどくせーし。」
航平は悪びれもせずに続けた。
「それに、弘法筆を選ばず、って言うじゃん。どんな道具でも、うまいもんを作れるのが一流だって。だから、俺の腕が足りないだけだって思ってたんだよ。」
「……っ!」
玲司は言葉に詰まった。
納得したわけではない。むしろ、そんな理由で自分の力を制限していた航平に、腹立たしささえ覚えていた。
だが、よく考えてみれば、自分だって毎日すべての道具を持ち歩いているわけではない。学校にある設備や道具を使って料理をするのは当然のことだ。それを一方的に責めることはできなかった。
玲司は悔しそうに唇を引き結び、しばらく黙っていた。
やがて、航平が口を開いた。
「けど、これでわかった」
その表情から、先ほどまでの気の抜けた様子が消えていた。
「俺、これから対抗戦が終わるまで、毎日あの鍋を持ってくるよ。」
「……何?」
「せっかく原因がわかったんだ。いつまでも同じことを繰り返してられねえだろ。」
航平は、玲司の目をまっすぐに見た。
「あの鍋で、豊と善と戦う。俺の火入れが、お前の足を引っ張るわけにはいかないからな。」
玲司は航平を見つめた。そして、小さく息を吐くと、何も言わずに背を向けた。
だが、航平にはわかっていた。あれは、納得したということだ。
「よし!これで一個、問題解決だな!」
英人が、ぱんと手を叩いた。
「そうだね!これで清永くんも本来の力を出せる!」
瑠衣もほっとしたように笑う。クラスメイトたちの間にも、少しだけ安堵した空気が流れた。
しかし。
「……いや。」
背を向けていた玲司が、もう一度航平に向き直る。
「もう一つ、問題がある。」
その一言に、実習室の空気が再び張り詰めた。
「……え?まだあんのかよ?」
張り詰めた空気に疲れた様子の大群が、うんざりした顔で玲司を見る。
「清永。自分の包丁を持って、俺について来い」
大群の言葉を無視して、玲司は航平についてくるよう促した。
「どこに行くんだよ?」
「合羽橋だ。」
「……は?」
あまりにも唐突な言葉に、航平は目を丸くした。
「ちょ、ちょっと待て!なんで急に合羽橋なんだよ!?」
「いいから来い。話はそれからだ。」
玲司はそれだけ言うと、さっさと実習室を出ていった。
「お、おい!待てって!」
航平は慌てて自分の包丁を手に取り、その背中を追いかける。
残された瑠衣たちは、顔を見合わせた。
「……今度は、包丁?」
瑠衣が呟く。
「なんだか、まだまだ大変そうだね……。」
英人も、「だな。」と苦笑する。
だが、二人の表情には、どこか期待するような色も浮かんでいた。
航平と玲司。
二人が本当の意味でタッグを組むまでには、まだまだ乗り越えなければならない壁がある。
そして、その次の壁は、どうやら合羽橋にあるらしい。




