東西の調理科高校、交わる技と想い。
善、豊との出会いの翌朝。大阪美食大附属との合同実習の日がやってきた。東京具留米学園の二年生たちは、朝食を済ませると、実習会場となる大阪美食大附属へと向かった。
校門をくぐると、すでに多くの生徒たちが行き交っており、東京具留米学園とはまた違う雰囲気に、航平たちは自然と周囲を見回す。
「おったおった!おーい、こっちや!」
聞き覚えのある声が響いた。手を振っていたのは豊だった。その隣には、相変わらず寡黙な善が立っている。
「よー!昨夜はちゃんと眠れたか?」
「朝からやかましいやつだな……。」
玲司が呆れたように返す。
「そう冷たいこと言うなって。今日は楽しみにしとったんやから!」
豊は満面の笑みを浮かべた。
「せっかくの合同実習。今日は楽しもうや!」
「……ああ。」
玲司が静かに答える。航平も笑った。
昨日は思いがけない騒動から始まった出会いだったが、こうして同じ料理人を目指す仲間として顔を合わせると、不思議と親近感が湧いてくる。
「それじゃ、各コースに分かれて実習を始めます。経営科の生徒は別プログラムですので、指定された教室へ移動してください。」
引率の教師の指示で、生徒たちが動き始めた。
「じゃあまた後でな!」
弦之介は経営科のプログラムへ向かう一団に加わり、航平たちと別れた。
「お前らの料理だけは認めてんだ!試食しに戻るからうまいもん作っとけよ!」
「はいはい。」
胸を張る弦之介に、英人が適当に返事を返す。笑い声を背に、調理科の生徒たちはそれぞれの実習室へと向かった。
中華料理コースの実習室には、すでに必要な食材と調理器具が用意されていた。中央の作業台には、今回の課題が掲示されている。
**課題料理――エビチリ**
「エビチリか……。」
航平は掲示を見上げた。中華料理の定番ともいえる一品だ。だが、定番だからこそ誤魔化しが利かない。エビの下処理、火入れ、ソースの味付け。どれか一つでも狂えば、仕上がりは大きく変わる。
「今回の実習では、味だけでなく、調理工程や食材費、提供時間も意識してください。完成した料理は、後ほど経営科の生徒たちにも試食してもらいます。」
教師の説明に、何人かの生徒が顔を見合わせた。豊が面白そうに笑う。
「どういうことだ?」
航平が尋ねると、豊は肩をすくめた。
「まあ、やってみたらわかるわ。」
そう言って、豊は自分の作業台へ向かった。善も無言でその後に続く。
生徒たちはそれぞれの持ち場につき、そして、実習開始の合図が響いた。
調理が始まると、実習室には包丁の音と、食材を扱う音が広がった。
航平はエビの状態を一尾ずつ確かめ、殻を丁寧に剥き、背わたを抜く。片栗粉と卵白を使って丁寧に下処理を進めていく。下味を含ませ、衣の状態を調整する。火を入れるタイミングも、ソースと合わせる瞬間も、頭の中ではすでに組み立てられていた。
一方、玲司もまた、寸分の狂いもない仕事を進めていた。
食材の扱いに迷いはなく、調味料の計量も正確。自家製のエビ油も用意した。白ねぎのみじん切りも丁寧で、ソースとの一体感も完璧だ。仕上がりから逆算して、必要な工程を一つずつ積み重ねていく。
その二人の作業を眺めていた豊が、感心したように口を開いた。
「へえ……。そこまでやるんか。」
「どういう意味だ?」
航平が手を動かしたまま尋ねる。
「いや、ええ仕事やと思うで。ただ……」
豊は二人の調理台を見比べた。
「そこまでやっとったら、明後日になってまうで?」
「うまいものを作るためなら、必要な手間だ。」
玲司は即答した。
「手を抜いて完成度を下げるつもりはない。」
航平も頷く。
「俺も同じだ。せっかく作るなら、最高のものを出したい。」
豊は二人の言葉を聞き、少しだけ目を細めた。そして、あっさりと頷いた。
「せやな。うまいもんを追求するんは、料理人として当たり前や。」
航平は意外そうに豊を見た。
「……反対するのかと思った。」
「なんでやねん。俺かて、うまいもんを作りたいんは一緒や。」
豊は笑いながら、自分の作業台へ視線を戻した。
「せやけど、一つ聞かせてくれへん?」
「なんだ?」
「それ、店で何分で、いくらで出すつもりなん?」
航平と玲司の手が、一瞬だけ止まった。豊は続ける。
「どんだけうまいもんを作れても、値段が高すぎたら食べられる人は限られる。時間がかかりすぎたら、たくさんの人に届けることもできひん。」
豊は航平や玲司が使ったものとは違う、冷凍のエビを手に取り、下処理を進めながら言った。
「うまいもんを、なるべく早く、なるべく安く。そうやって少しでも多くの人に食べてもらって、笑顔になってもらう。それが、俺の考え方や。」
その言葉には、気負いも誇張もなかった。豊にとって、それは当たり前のことなのだ。
「もちろん、安ければええって話やないで。安くするために味を犠牲にして、お客さんをがっかりさせたら本末転倒や。限られた材料と時間の中で、どこまでうまいもんを作れるか。それを考えるんも、料理人の腕。そうやろ?」
航平は黙って豊の手元を見た。確かに、豊の作業には無駄が少なかった。食材の準備から調理まで、工程がきれいにつながっている。必要な手間は惜しまないが、意味のない手間はかけない。それでいて、手を抜いているわけではない。決して雑には見えなかった。
「……なるほどな。」
玲司もまた、豊の作業を観察していた。
「実習前の教師の言葉……。調理工程や食材費、提供時間も意識しろ……。そういうことか。」
「そういうことや。」
豊はニッと笑った。
「まあ、口で言うだけやったら簡単やけどな。結果は食べてからのお楽しみや。」
「言われなくても、そのつもりだ。」
玲司の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。航平も、自然と気持ちが高まるのを感じていた。自分たちとは違う考え方。だが、目指しているものは決して遠くない。
うまい料理を作り、食べた人を笑顔にする。
そのために、何を大切にするのかが違うだけなのだ。航平は改めて、目の前のエビに向き合った。豊の言葉を聞いたからといって、今までのやり方を捨てるつもりはない。だが、自分の料理が誰かの口に届くまでを、もう少し深く考えてみてもいいのかもしれない。そう思った。
やがて、実習室に香ばしい匂いが広がり始めた。
エビを油に通す音。鍋の中でソースが煮立つ音。ニンニクや生姜の香りに、豆板醤の刺激的な香りが重なる。航平はエビの火入れを見極め、チリソースを仕上げていく。
ソースの辛味、酸味、甘味、旨味。そのバランスを整えながら、エビに絡めるタイミングを慎重に計る。
玲司もまた、完成までの工程を一切崩さず、理想のエビチリを作り上げていった。
二人の料理は、見た目にも美しかった。
一方、豊の作業台では、すでに仕上げの段階に入っていた。
「……もう完成か。」
航平が思わず声を漏らす。豊は笑った。
「まだまだ、これからやで。」
その隣では、善が静かに調理を進めていた。大きな体に似合わず、手元の動きは驚くほど繊細で、美しいとすら思えるものだった。その善の姿に、航平は一瞬目を奪われたものの、すぐに自分の料理へ意識を戻した。
今は、自分の一皿を完成させることに集中する。
やがて、全員の料理が完成した。エビチリが作業台の上に並べられる。
同じ課題、同じ実習室。
それでも、盛り付けや香り、ソースの仕上がりには、それぞれの個性が表れていた。
「よっしゃ、できたで!」
豊が手を叩いた。
「ほな、食べてもらおうや!」
別プログラムを終えた経営科の生徒たちも実習室へ戻ってきた。
その中には、弦之介の姿もあった。
「待ってましたぁぁぁ!」
料理を見た瞬間、弦之介の目が輝き、いよいよ試食が始まる。
最初に口をつけた生徒たちは、それぞれのエビチリの味を確かめ、感想を交わした。
航平のエビチリは、エビの食感が際立っていた。丁寧な下処理によって水分と旨みが凝縮され、抜群の温度管理によって、まるでまだエビが生きているかのような弾力を残していた。ソースは辛味の中に旨味と甘味が重なり、後味まで計算されている。
玲司のエビチリも、ほとんど甲乙つけがたい完成度だった。エビの扱いからソースの仕上がりまで、細部に至るまで妥協がない。エビ油の濃厚なコクと、寸分の狂いもないネギがシャキシャキとしつつも一体感があり、エビの旨みを底上げしている。
「すごいな、これ……。」
「どっちもめちゃくちゃうまい!」
そんな声が上がる。二人の料理は、純粋に味を追求した結果として、高い完成度に達していた。
そして、豊のエビチリも負けてはいなかった。
航平や玲司に比べると、味の複雑さや細部の仕上がりではわずかに及ばない部分がある。しかし、エビの食感もソースの味も十分に満足できる水準だ。保水加工の冷凍エビが、良い意味で親しみを感じさせ、ケチャップなどの身近な調味料を使ったソースがわかりやすくインパクトのある味にまとめられている。調理工程には無駄が少なく、材料費や提供時間も抑えられている。食べた生徒たちからは、味だけでなく、値段を考えたときの満足度についても高い評価が集まった。
「なるほどな……。」
弦之介は三人のエビチリを食べ比べ、腕を組んだ。
「味だけなら、航平と玲司がほぼ互角だ。どっちも文句のつけようがねえ」
二人は黙って耳を傾ける。
「けど、価格や手間まで考えたら、豊のエビチリも相当なもんだ。うまさを保ったまま、ここまで効率よく仕上げるのは簡単じゃねぇ。これなら、かなり安く、早く客に提供できる。」
豊は満足そうに笑った。
「へぇ。わかってるやん。うまいだけやなく、どうやって届けるかまで考えてこそやからな。」
「……ああ。認めざるを得ないな。」
玲司が頷く。
「俺もだ。お前の技術と、そのバランス感覚はすごいと思う。」
航平も素直に認めた。
「俺たちとは違う方向から、料理を突き詰めてるんだな。」
「そっちの二人の腕も大したもんやで。ま、制限なしで味だけを競うんやったら、味でも負けへんけどな。」
豊は楽しそうに笑った。
「せやけど、こういう条件やからこそ見えてくるもんもあるやろ?」
「ああ。勉強になったよ。」
航平はそう答え、豊と笑顔を交わした。玲司もまた、豊と視線を交わす。
互いの実力を認め合う。その瞬間、昨日までの出会いは、確かな友情へと変わり始めていた。
だが。
まだ、すべての料理を食べ終えていない。弦之介は、最後に残された皿へと箸を伸ばした。
神前善のエビチリだった。
ひと口、口に運ぶ。そして、もうひと口。
弦之介の表情から、いつもの賑やかさが消えた。
箸が止まる。
航平は、その様子を見ていた。玲司も、誰も、何も言わなかった。その様子を見て、豊だけが静かに笑っていた。
善のエビチリは、確かにうまかった。
だが、それだけではない。
エビの火入れ。身の弾力を最大限に引き出す下処理。ソースの香りと味の重なり。口に運んだときの一体感。そのどれもが、極めて高い水準でまとまっている。
しかも、そこに至るまでの作業に、目立った無駄はなかった。
航平も玲司も、味を追求するために手間をかけた。
豊は、味と効率と価格のバランスを突き詰めた。
それぞれが、自分の強みを最大限に生かしていた。
善は、それらすべてを、当たり前のように成立させていた。
弦之介は、もう一度だけ皿を見た。
普段なら、うまいものを食べればすぐに騒ぎ出す。誰かの料理に感心すれば、本人よりも大げさに褒める。
そんな男が、黙っていた。
味覚に優れた弦之介だからこそ、わかってしまった。
この差は、簡単に埋められるものではない。
航平も、玲司も、豊も、同じことを理解していた。
誰も、善を称賛する言葉を口にしなかった。
言う必要がなかった。
全員が、わかっていたからだ。
神前善。
この日、間違いなく最高のエビチリを作り上げたのは、彼だった。
善は、そんな周囲の視線を受けても、特に誇らしげな様子を見せず、ただ、静かに皿を片付けていた。
合同実習を終えた生徒たちは、互いの料理について意見を交わしながら、充実した時間を過ごした。
豊は最後までよく喋り、玲司に何度も絡んでは嫌がられていた。航平も、善の無口さに戸惑いながら、少しずつ言葉を交わした。
多くを語らない善だったが、航平が話しかけると、短くともきちんと答えてくれた。
別れ際には、豊が笑顔で言った。
「また会おうや!次はお互いもっと腕を上げてな!」
「楽しみにしてるよ。」
航平が答える。善も小さく頷いた。
こうして、航平たちの修学旅行は終わりを迎えた。
京都の街並みも、大阪の食文化も、忘れられない思い出になった。そして何より、同じ料理人を目指す新しい仲間と出会えたことは、大きな収穫だった。新幹線に揺られながら、航平は窓の外を眺めていた。
まだまだ自分の知らない世界があることを知った。
「良い刺激になったね。」
隣に座る瑠衣が、微笑んだ。
「あぁ。そうだな。」
そう言って、航平は少しだけ笑った。
充実した修学旅行だった。
誰もが、そう思っていた。
だが、彼らはまだ知らなかった。
あの合同実習が、これから始まる大きな戦いの、ほんの序章にすぎなかったことを。
東京に戻った翌日。
2-Cの生徒たちが教室に集まると、渡邊が教壇に立った。
「さて、みんな。修学旅行は楽しめたかな?大阪美食大附属との合同実習も、いい経験になったと思います。お互いに学ぶことが多かったでしょう。」
渡邊は教室を見渡した。
「……ですが、あれで終わりではありません。」
生徒たちのざわめきが、ぴたりと止まる。
「今回の合同実習は、あくまで予行演習です。」
「……え?」
航平が顔を上げた。玲司も、瑠衣も、英人も、他の生徒たちも、思わず渡邊を見る。
「本番は来月。三年に一度のビッグイベント――大阪美食大附属との対抗戦が始まります!」
教室が、一気に騒がしくなった。
「対抗戦!?」
「そんなのがあるのかよ!」
「来月って、もうすぐじゃん!」
驚きの声が飛び交う。航平は、思わず玲司と顔を見合わせた。
豊の笑顔。
善の静かな眼差し。
そして、あのエビチリ。
あの二人と、今度は本気で競い合うことになる。
胸の奥で、熱いものが湧き上がってくるのを感じた。
修学旅行で出会った新たな仲間たち。
そして、来月に待ち受ける、三年に一度の大勝負。
東京具留米学園と大阪美食大附属。
二つの学園の誇りを懸けた戦いが、今、幕を開けようとしていた。




