終わらない宿題と、終わる夏。
夏休みも、残すところあとわずかとなっていた。八月の終わりを告げるように、蝉の声は少しずつ弱まり、夕暮れ時の風には、ほんのわずかに秋の気配が混じり始めている。
とはいえ、昼間の暑さはまだまだ厳しい。
そんなある日の午後。
「お邪魔しまーす!」
泰龍軒の扉が勢いよく開いた。
最初に顔を出したのは、藤咲聖羅。その後ろから宍戸弦之介、浅野虎太郎、そして三好辰樹が続く。夏休みも終わりだというのに、四人とも元気そのものだった。
「泰中さんー!腹減ったー!」
「まだ営業前だから!ちょっと待ってて!」
いつもと変わらない泰龍軒の光景。店内には、瑠衣の明るい声と弦之介たちの騒がしい声が響く。
ところが。
「……あれ?」
ふと、弦之介が店内を見回した。いつもなら、この時間には厨房か客席のどこかにいるはずの航平の姿がない。
「清永は?」
「ああ、清永くんなら……」
瑠衣はそう言って、店の奥にある階段へ視線を向けた。
「直緒ちゃんと二階で夏休みの宿題やってるよ。」
「…………。」
弦之介の動きが止まった。隣にいた虎太郎も、同じように固まる。
数秒の沈黙。
やがて、二人の顔に、同時に「何かを思い出した」という表情が浮かんだ。
「……宿題。」
「……そういえば。」
二人は顔を見合わせた。
そして――
「やべぇ……。」
弦之介が呟く。
「……俺たち、宿題やってなくね?」
「僕はもう終わったよ?」
辰樹の返事を聞き、虎太郎の額にじわりと汗が浮かんだ。
「俺やってねぇぇぇぇぇ!!」
泰龍軒に、絶叫が響き渡った。
「えっ!? 二人ともまだなの?」
聖羅が驚いて目を丸くする。
「夏休み、まだあると思ってたんだよ!」
「もうほとんど終わりだよ!?」
瑠衣の冷静な一言が、二人に現実を突きつける。
そう。夏休みはもう終わる。
そして、宿題は終わっていない。
「お前たちもか……。ならみんなで宿題をやっていけ。終わっている者は教えてやるといい。」
階段から降りて来た龍彦が提案し、夏休みの宿題を終わらせるため、泰龍軒に新たな戦線が築かれることになった。
その日の営業が終わると、泰龍軒の店内には、いつもの料理の香りではなく、紙をめくる音と鉛筆を走らせる音が響いていた。客席のテーブルはいくつも繋げられ、その上には教科書、ノート、問題集、プリントが所狭しと並べられている。まるで、即席の学習塾のようだ。
その中央に座るのは、航平、弦之介、虎太郎、直緒、そして遅れてやって来たなでしこ。
その周囲には、瑠衣、聖羅、辰樹。
そして、時折龍彦の鋭い視線が飛んでくる。
「清永くん、そこ違う。」
「え?」
瑠衣が航平のノートを覗き込む。
「ここ、計算間違ってるよ。」
「……マジか。」
航平は頭を抱えた。料理なら多少の失敗は経験になる。しかし、数学の計算ミスは何度やっても腹立たしい。
その隣では、弦之介が問題文と睨み合っていた。
「……何を聞かれてるのかわからん…。」
「落ち着いて、まずは問題文を最初から読んでみて。」
聖羅が落ち着いた声で教える。
虎太郎は虎太郎で、数学の問題を前に完全に動きを止めていた。
「これ……難しくね?高一の問題じゃなくね?」
「そこは中学生でも解けるところだよ…。」
辰樹が呆れる。
一方、直緒は英語の問題を前に、すっかり困り果てていた。
「これ、マジで意味分かんないんだけど……。」
「ここはこういう意味だよ。」
聖羅が隣からノートを覗き込み、丁寧に教えていく。
「うぅ…なんで日本人なのに英語なんて勉強しないといけないの!?もー!」
「よしよし、落ち着いて!直緒ちゃん、頑張ろ?」
聖羅は子どもをあやすように言った。
少し離れたところでは、なでしこが一人で黙々と問題を解いている。みんなの宿題を手伝いに来ないかと聖羅に誘われたのだが、到着したときのなでしこの顔を見て、聖羅は気が付いた。
「もしかして…なでしこちゃんも、宿題終わってないの?」
完全に図星だった。
ペンを握るなでしこの顔は真剣そのものだったが、しばらくすると、その手がぴたりと止まった。
「……。」
瑠衣が気づいて覗き込む。
「なでしこちゃん、そこ計算違うかも。」
「……!」
なでしこは目を見開き、慌てて途中式を確認する。
「……。」
「大丈夫。もう一回やればできるよ。」
なでしこは小さく頷き、再び鉛筆を走らせ始めた。
宿題に苦戦するメンバーを、すでに宿題を終わらせているメンバーが教える。最初はただの宿題地獄だったはずなのに、いつの間にか、そこには妙な一体感が生まれていた。時計の針だけが、そんな彼らを急かすように進んでいく。
夜は、思っていたよりもずっと賑やかに過ぎていった。
日付が変わる少し前。
「……終わったぁ!」
最初に声を上げたのは虎太郎だった。辰樹がノートを確認し、問題がすべて埋まっていることを確かめる。
「うん。これで大丈夫。」
「よっしゃ!」
その声につられるように、弦之介も最後の一問を書き終えた。
「……終わった。」
直緒も大きく伸びをする。
「もう二度と溜めない……。」
「そのセリフを来年は聞かないことを祈ってるよ。」
瑠衣が笑う。
「来年も言うかも…。」
「諦めが早すぎるって。」
笑い声が広がる。
なでしこも最後のページを閉じ、ほっと息をついた。
「……フゥ…。」
「お疲れさま、なでしこちゃん。」
聖羅が優しく声をかける。なでしこはうれしそうに顔を赤く染めた。
残るは、航平だけ。
「……。」
机に向かったまま、航平は最後のプリントと睨み合っている。
「清永くん、あとどれくらい?」
「……三ページ。」
「まだ三ページもあるの!?」
「仕方ないだろ!」
瑠衣は呆れながらも、航平の隣に座った。
「じゃあ、終わるまでみんなで待ってるから。」
「……ありがと。」
航平はもう一度鉛筆を握る。
それからしばらくして。
「……終わった。」
最後の一文字を書き終えた航平が、力なく机に突っ伏した。
一瞬の静寂。そして。
「終わったぁぁぁぁ!!」
泰龍軒に歓声が響いた。龍彦が顔を出す。
「……やっと終わったか。」
「じいさん……。」
疲れ切った航平が顔を上げる。龍彦は時計を見た。
「明日から学校だし、終わったならすぐに帰って休め。」
「……え?」
全員の動きが止まる。時計の針は、日付が変わる直前を指していた。長かった夏休みは、本当に終わろうとしていた。
「……短かったな…夏休み…。」
航平が呟く。誰も反論しなかった。
翌朝。東京具留米学園へ向かう道には、少し眠そうな顔をした生徒たちの姿があった。
昨日までの暑さが嘘のように、朝の風はほんの少しだけ涼しい。
夏休みの間にあった出来事を思い返せば、長かったような、短かったような、不思議な時間だった。
「夏休み、終わっちゃったね。」
瑠衣が空を見上げる。
「結局今年も、ほとんど泰龍軒にいたな…。」
ため息を吐いた航平も、その隣で空を見上げた。
青い空の向こうに、薄い雲が流れている。
「もう二学期か……。」
航平が呟く。
二人は並んで、学校へ向かって歩き出した。
夏が終わる。
そして、新学期が始まった。




