約束の夏祭りと、僕らの居場所。
梅雨が明けたばかりの空はどこまでも青く、教室に差し込む日差しも、もうすっかり夏のものになっている。
東京具留米学園では期末試験が終わり、それまで張り詰めていた教室の空気が一気に弛緩する。そこかしこから、浮かれた声が飛び交い、窓の外では蝉がうるさいくらいに鳴いていた。いよいよ夏休みが始まる。そして、この週末には、恒例の夏祭りが待っている。
放課後、航平たちがいつものように泰龍軒へ向かおうと教室を出ると、廊下に明るい声が響いた。
「こんにちは!」
「あ、聖羅ちゃん」
瑠衣が振り返る。制服姿の聖羅が、いつものように上品な笑顔を浮かべて立っていた。
「清永くん、今週末の夏祭りなんだけど……約束、覚えてる……?」
「約束……?」
「うん。よかったら瑠衣ちゃんと、あっ、宍戸くんもまた一緒に……。」
瑠衣が一瞬固まる。
「ああ。もちろん覚えてるよ。」
そんな瑠衣を横に、航平はあっさりと返事をする。
「そのことなんだけど……。」
航平の脳裏に、去年の夏の光景が蘇る。たくさんの出店。人混みの中で笑う瑠衣と聖羅。やかましい弦之介。そして、あの日交わした約束。
『来年も、また来ようぜ。』
しかし、航平が申し訳なさそうに頭を掻く。
「実は、百田さんが祭りの日に田舎へ戻らなきゃならなくなって……。」
「えっ?」
聖羅の顔が曇る。
「急に実家のほうで用事ができたとかで……数日ほど戻らなきゃいけないらしくて……。」
百田は泰龍軒にとって、なくてはならない存在だ。厨房の仕事を手伝い、店内を見回し、忙しいときには何も言わずに航平たちを助けてくれる。
その百田がいない。祭りの日は、百田と龍彦が二人だけで店前で上海焼きそばを売るのが恒例だった。
「だから、今年の屋台は俺と瑠衣も手伝わないといけなくなっちまって……。」
航平はちらりと聖羅を見る。聖羅は少しだけ考えたあと、少しだけ寂しそうに笑った。
「そういうことなら、大丈夫だよ。お仕事だもん。」
「ごめん!藤咲!」
「気にしないで!百田さん、大変だね。お祭りはまた来年!」
そう言いながらも、その声にはほんの少しだけ寂しさが混じっていた。けれど、それを隠すように笑う。その顔を見て、航平と瑠衣は何も言えなかった。
その日の閉店後。客も帰り、店内の片付けを終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。窓を開けると、昼間とは少し違う、湿った夏の夜の風が入ってくる。
「ねえ、清永くん。」
皿を拭いていた瑠衣が、ふと口を開いた。
「ん?」
「聖羅ちゃんとの約束のことだけど……。」
「?なんだよ。それはさっき謝って……。」
「行ってきて。」
「え?」
「聖羅ちゃん、きっとずっと楽しみにしてたんだよ。」
「でも……。」
「約束したんでしょ?だったら、ちゃんと守らなきゃ。」
航平は黙り込む。
「大丈夫!おじいちゃんと二人でなんとかするから!」
「気にするな。中華鍋は振れなくなったが、鉄板でなら焼きそばくらいまだまだ作れる。行ってこい。」
「……うん。」
瑠衣と龍彦は笑顔で言ったが、航平が背を向けたあと、瑠衣の顔は曇り、その場で少し下を向いた。
夏祭り当日。昼の営業を終えた泰龍軒では、祭りの準備が始まっていた。鉄板を出し、材料を並べ、上海焼きそばの仕込みをする。いつもと違う店の雰囲気に、航平は少しだけ落ち着かない気分になった。
「航平、そっちの野菜頼むぞ!」
「はいよー。」
「瑠衣、そっちはどうじゃ?」
「もう準備できてる!」
普段なら、そこに百田の声も混ざっている。けれど今日は――。
「……やっぱ、百田さんいないと違うな。」
航平が呟く。
「そうじゃな。」
龍彦も苦笑した。それでも祭りは待ってくれない。夕方が近づくにつれて、店の前を通る人も増えていく。
「清永くん、そろそろ行かないと。」
瑠衣が航平に声をかけた。
航平が時計を見る。確かに、聖羅との待ち合わせの時間が近づいていた。
「でも……本当にいいのか?」
「大丈夫だって。」
瑠衣は笑う。航平は龍彦と瑠衣の顔を見て、そして、百田のいない厨房に目をやる。
「……わかった。」
航平はエプロンを外した。
「じゃあ、行ってくる」
「うん!」
瑠衣は手を振った。航平は店を出る。その背中が見えなくなるまで、瑠衣は入口に立っていた。
一度家に戻り、航平はシャワーを浴びる。適当に髪を乾かし、着替えて外へ出る。祭りへ向かう道には、浴衣姿の人たちが増えていた。遠くから祭囃子が聞こえる。屋台から漂ってくる、焼きそばや焼きとうもろこしの香ばしい匂い。子供たちの笑い声。蝉の声はいつの間にか遠ざかり、代わりに夜の虫たちが鳴き始めている。夏の夕暮れ。去年と同じ景色だった。
なのに――。
「……。」
航平の足取りは、なぜか重かった。去年は、もっと楽しみだった気がする。
屋台を見て回って。くだらないことで笑って。そして、来年もまた来ようと約束した。それなのに、今年は、どうしても、泰龍軒のことが頭の片隅から離れない。龍彦の顔。瑠衣の顔。そして、百田の顔。
今日、その百田はいない。自分が抜ければ、店には龍彦と瑠衣しか残らない。
「……大丈夫かな。」
駅前に着くと、聖羅が車から降りてこちらに小走りで寄ってきた。
「清永くん!」
聞き慣れた声が響く。
聖羅は淡い色の浴衣に身を包み、いつもより少しだけ大人びて見える。
「待った?」
「いや、俺も今着いたところ。」
聖羅は笑った。
「お店……大丈夫なの?」
「ああ。」
「そっか。今年も一緒に来られて嬉しい!」
航平も笑う。二人は並んで歩き始めた。射的や金魚すくい、去年食べたイカ焼き。色々な屋台を見て回る。けれど、しばらくすると、聖羅がちらりと航平を見る。
「……清永くん。」
「ん?」
「やっぱりお店のこと気になる……?さっきから、ちょっと難しい顔してる。」
航平は黙った。やはり、聖羅には分かるらしい。
「……なあ、藤咲…。」
「うん?」
「俺さ。」
航平は歩く速度を少し落とした。
「最近、ずっと考えてることがあるんだ。」
聖羅の表情が真剣になる。
「この前まで、まだ二年生って思ってたんだけどさ。」
航平は苦笑する。
「気づいたら、もう夏休みだ。」
時間は思っていたよりも早く過ぎていく。高校生活は、永遠じゃない。
「卒業したら、東京に残るのか、島に戻るのか」
「……。」
「料理を続けるのか。それとも、別のことをするのか。」
航平は空を見上げる。
「正直、まだ分かんねぇ。」
それが、今の航平の本音だった。
「俺、前は料理なんてやりたくなかったんだ。」
聖羅は黙って聞いている。
「親父から逃げたくて島を出て、入学してからもサボってばっかで、料理からも逃げてた。」
それなのに。泰龍軒へ来てからの日々を振り返れば、結局いつも料理があった。
瑠衣と一緒に料理を作って、龍彦に怒鳴られて、百田に助けてもらって、玲司と競い合って……。
そして――。
料理をすることが、少しずつ楽しくなっていた。
「……変だよな。」
航平が笑う。
「逃げてきたはずなのに、結局ここに戻ってきてる。」
聖羅は何も言わない。ただ、静かに航平の横顔を見ていた。
「だからさ。」
航平は一度、深く息を吐いた。
「どんな形でも、俺には料理しかない気がする。」
航平の声が、少しだけ強くなる。
「一回逃げた俺が、また中途半端な気持ちで料理やったら……なんか、全部ダメにする気がするんだ。」
自分が何のために料理をするのか。まだ答えは出ていない。父親のためでもない。誰かに認めてもらうためでもない。ただ、料理からはもう逃げない。その想いだけははっきりしていた。航平は祭りの喧騒へ目を向ける。
「俺、あの店が好きなんだよ。」
その言葉を口にした瞬間。航平自身が、少し驚いたような顔をした。
「だから、店が大変なのに俺だけ遊んでていいのかなって。」
「……そっか。」
聖羅が小さく笑う。
「じゃあ、戻ろう!泰龍軒に!」
「でも……。」
「行ってあげて。」
聖羅は少しだけ俯いた。そして、静かに顔を上げる。
「私ね、泰龍軒のことも、料理に対して真剣で、泰龍軒のことを大切にしている清永くんのことも好きだから……。」
航平は目を丸くした。
「だから、そんな顔してる清永くんを、無理やり祭りに連れていきたくない。」
「藤咲……。」
「戻ってあげて!」
聖羅は笑った。
「私は大丈夫だから。」
航平はしばらく何も言わなかったが、やがて――。
「……ありがとな。」
そう言って、航平は小さく笑う。
「じゃあ、俺、戻るわ!」
「うん!」
航平は踵を返した。今度は迷わなかった。泰龍軒へ向かって、走り出す。
その背中を見送りながら、聖羅は一人、立っていた。少し寂しい。でも、それ以上に嬉しかった。約束を守ろうとしてくれたこと。それ以上に、自分の大切なものを、自分の意思で選ぼうとしていること。それが、聖羅には嬉しかった。
「はぁ……はぁ……!」
泰龍軒の前まで戻ってきた航平は、息を切らしながら目の前の光景に驚いた。
「……うわ。」
そこには――。
「上海焼きそば一つ!」
「こっち三人前!」
「少々お待ちくださーい!」
店の前には長い行列。鉄板の前では龍彦が汗だくになりながら焼きそばを作っている。瑠衣も注文を取りながら会計をしている。
「……やっぱり……。」
航平は呟いた。
「大変じゃん……。」
次の瞬間航平は屋台の中へ入って行った。
「航平!?」
龍彦と瑠衣が振り返った。
「なんで戻ってきたの!?」
「いや……。」
航平は息を整える。
「やっぱ、こっちのほうが気になるわ。」
「……!」
瑠衣の胸が、きゅっと締め付けられた。
「でも、私が行けって……。」
「うん。」
「聖羅ちゃんとの約束だからって……。」
「うん。」
「だったら……。」
「行ったよ。」
航平は笑った。
「ちゃんと行って、戻ってきた。」
瑠衣は何も言えなかった。その顔を見て、龍彦が小さく笑う。
「戻ったなら、仕事だ!」
「おう!」
航平はエプロンを掴んだ。そして、鉄板の前に飛び込む。
「いくぞ!じいさん!」
「おう!」
航平の目つきが変わった。航平は上海焼きそばを作っていく。
「早っ……。」
瑠衣が思わず呟いた。龍彦も、その動きを横目で見ながら笑う。
屋台の中に、熱気と香ばしい匂いが満ちていく。忙しい。暑い。汗も止まらない。
それでも――。
航平の顔には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「すみませーん!」
その時、聞き覚えのある声が響いた。
「手伝いに来てやったぞ!」
「……え?」
瑠衣が振り返る。そこに立っていたのは――。
「宍戸!?」
「よっ!」
その隣には、直緒。
「私も手伝います!私も泰龍軒のアルバイトなんで!」
そして。
「私も……。」
「……藤咲?」
航平が目を丸くする。聖羅は少し恥ずかしそうに笑った。
「せっかくの夏祭りだから……。」
弦之介が腕を組む。
「今年は店が大変で夏祭りに行けないって泰中さん言ってたから、それなら手伝えばいいじゃん!と思ってよ!」
「お前……。」
航平は思わず笑った。
「意外といい奴だな。」
「意外とはなんだ!俺はいつでもいいやつだろ!」
笑い声が響く。
「ほらほら、二人とも!」
直緒が手を叩いた。
「喋ってないで働く!」
「はいはい!」
「おう!」
聖羅もエプロンを受け取る。
「私も何かやります!」
「じゃあ聖羅ちゃん、こっちお願い!」
「うん!」
いつの間にか、泰龍軒には、いつものメンバーが集まっていた。誰か一人が欠けた穴を、残ったみんなで埋めていく。
「いらっしゃいませー!」
「上海焼きそば、できました!」
「こっちお願いします!」
「はい!」
「次、三人前!」
「了解!」
祭りの喧騒に負けないくらい、泰龍軒も騒がしくなっていく。
「……ったく。」
龍彦が笑う。
「人が増えすぎだ。」
「でも、楽しいじゃん!」
瑠衣が笑った。
「そうだな。」
航平も笑う。
まだ、自分の未来は見えない。それでも今日、ひとつだけ分かったことがある。
――自分は、もう料理から逃げない。
その先に何があるのかは、まだ分からない。でも、一歩ずつ進んでいけばいい。そんなことを思いながら、航平は再び炎の前に立った。祭りの夜は、まだ始まったばかりだ。
今年もまた――熱い夏が、走り出す。




