かき氷が溶ける前に。
七月。
梅雨の名残を感じさせる曇り空の日も少なくなり、東京具留米学園のキャンパスにも、いよいよ本格的な夏が訪れようとしていた。蝉の声が聞こえ始め、照りつける日差しは日に日に強くなっている。生徒たちも、いつの間にか夏服がすっかり馴染んでいた。
そんなある日のこと。
「なぁ、辰樹!この暑さだしよ、このあとかき氷食いに行こうぜ!」
廊下を歩きながら、浅野虎太郎は隣を歩く三好辰樹を見上げて言った。
「えぇ?近くの美味しいって評判のあそこ?」
「そう!そこ!行くよな!?」
「ダメだよ虎太郎くん!テスト前なんだから!僕は図書館で勉強する。一緒に勉強しようよ?」
「……最近さ……お前、ちょっと変わったよな?」
「え?」
辰樹が足を止める。
「そうかな?」
「なんつーか……前より真面目になったっつーか……。」
「僕、不真面目に見えてたの!?」
「そういうことじゃねぇよ!」
虎太郎はむっとして頬を膨らませる。だが、実際のところ、虎太郎が感じていたのは、そんな単純な変化ではなかった。
きっかけは、少し前のこと。辰樹が、二年生の宍戸弦之介と話していたあの日からだ。以前なら、宿題を忘れても、
「辰樹ー!宿題見せてくれ!」
と頼めば、
「虎太郎くん!宿題はちゃんと自分でやらなきゃダメだよ!」
と言いながらも、渋々ながらすぐに見せてくれていた。けれど最近は――。
「虎太郎くん!宿題はちゃんと自分でやらなきゃダメだよ!」
吐くセリフは同じでも、宿題を見せてはくれなくなった。その代わり、一緒に宿題をやって、わからないところは教えてくれるようになった。
「ちょっとくらいいいだろー!」
「ダメだよ!自分のためにならないよ!」
「前は見せてくれたじゃん!」
「前は前。今は今!」
そんなふうに、以前より説教が厳しくなった。
それだけではない。料理の授業が終わった後、一人で実習室に残って自主練習をしていることも増えた。包丁を握る姿は以前より真剣で、何度失敗しても、納得するまで繰り返している。
そして時々、授業の合間に、窓の外をぼーっと眺めていることもあった。何を考えているのかは、虎太郎には分からない。
ただ――。
何となく、以前の辰樹とは違う。そんな気がしていた。
「じゃあ僕、図書館で勉強してから帰るからね。虎太郎くん……、本当に来ないの?」
その日の放課後、辰樹が鞄を肩に掛けながら言った。
虎太郎は露骨に嫌そうな顔をする。
「いやだ!勉強はまだしない!ギリギリまでしない!じゃーな!」
虎太郎は辰樹の誘いと勉強から逃げるように、駆け足で教室を出て行ってしまった。
「うん……。また明日……。」
辰樹は寂しそうに虎太郎を見送った。
「……暑っ!」
校舎の外へ出た瞬間、強烈な熱気が全身を包み込んだ。帰り道を歩いて、虎太郎は空を見上げる。容赦なく照りつける太陽。アスファルトから立ち上る熱気。額から流れ落ちる汗。
「……ダメだ!暑すぎる!」
虎太郎は叫んだ。
「我慢できねぇ!」
そう言って、ちょうど目の前にあった店へ、吸い込まれるように入っていった。
「いらっしゃいませー!」
そこは、学校の近くにあるかき氷屋だった。辰樹を誘って行こうとしていた店。夏になると行列ができることで有名な、学校でも評判の店だ。
「かき氷、かき氷……!」
虎太郎は店内を見回す。しかし――。
「申し訳ありません。ただいま満席でして……ご案内までしばらくお時間を頂いております。」
「えぇ!?」
店員の言葉に、虎太郎が肩を落とす。
「マジかよー……。」
店内は確かに混雑していた。暑い日差しを避けて、涼しげな店内でかき氷を楽しむ学生たち。どのテーブルも楽しそうな笑顔で埋まっている。
「うーん……。」
待つとは言っても並びがなかっただけでもよかったのかもしれないな、などと思いながら虎太郎が腕を組み、どうしようか悩んでいると――。
「あれ?」
二人掛けのテーブル席に、一人で座っている少女が目に入った。長い黒髪。静かな佇まい。
「……あいつ、確か同じ一年の……」
柊木なでしこだ。虎太郎も何度か学校で見かけたことがある。
「よーし……。」
虎太郎は迷うことなく、その席へ向かった。
「よ!」
「……?」
なでしこが顔を上げる。
「俺、1-Cの浅野虎太郎!」
「……。」
「一緒に座ってていいだろ!?な!?頼む!」
「……?」
なでしこは黙ったまま虎太郎を見る。
「…………。」
返事はない。しかし、拒絶もない。
「よし!」
虎太郎は勝手に椅子を引いた。
「じゃ、よろしくな!」
なでしこは、ほんの少しだけ目を細めた。
――この人、勢いだけで入ってきた……。
そんなことを思ったが、口には出さなかった。
「いやー、助かったぜ!」
虎太郎は席に座り、メニューを眺める。
「お前何食ってんだ?あ、この生いちごとヨーグルトってやつか!うまそうだなー!俺は……よし!すいませーん!クリーム宇治金時、ください!」
(この人……迷いがない……。)
なでしこは少し感心した。
「ここ来てみたかったんだよなー!あ!こんなとこに一人で来たからって、別に俺、友達がいないわけじゃないからな!」
「……。」
「ただ、今はちょっと一人になりたい気分だったっつーか……。」
なでしこは黙ったまま虎太郎を見る。
(……一人になってないじゃん……。)
なでしこは、心の中でそっと突っ込んだ。
「うめぇー!」
しばらくして、虎太郎の前に大きなかき氷が運ばれてきた。スプーンですくい、口いっぱいに頬張る。
「くぅー! これだよこれ!」
冷たい氷が、火照った体を一気に冷やしていく。抹茶のソースとバニラアイスの濃厚な味わいと甘さを、シャクシャクふわふわの氷が爽やかにしてくれて、くどさが全くない。
「生き返るぜ……。」
虎太郎は満足そうに息を吐いた。そして、ふとなでしこを見る。なでしこは静かにかき氷を食べている。
「なぁ。」
虎太郎は、スプーンを持ったままなでしこに聞いてみた。
「友達が、前と少し変わった気がすることってねーか?」
なでしこは黙って聞いている。
「俺の友達がさ、小学生の頃からずっと一緒なんだけど、前はすぐ見せてくれたのに、最近は宿題見せてくれって言っても、説教してくるんだよ。」
「……。」
「料理の練習も、一人でやるようになったし。前は、僕に料理教えてよーって泣きついてきてたのによ。」
「……。」
虎太郎はかき氷を一口食べる。
「多分さ……。」
少しだけ言葉を探すように、視線を落とした。
「自分でも、本当はわかってるんだよ。」
虎太郎は苦笑した。
「弱虫で、俺がいなきゃ何にもできないって、俺が勝手に決めつけて……。それで、散々振り回してきたんだ。」
スプーンを止める。
「そんなあいつが、自分で考えて、自分で行動するようになって……。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「それって、成長じゃん?」
「……。」
「いいことじゃん?」
なでしこは、黙って虎太郎を見つめている。
「それが……。」
虎太郎は小さく息を吐いた。
「それが、ちょっとだけ寂しいんだ。」
その言葉は、思っていた以上に素直に口から出た。
「勝手だよな、俺。」
笑って誤魔化すように、またかき氷を食べる。
「なんでこんなこと、初めて話すお前に話してんだろうな」
なでしこは何も言わない。
「……お前、全然喋らないから、話しやすいのかもな。」
虎太郎が笑う。なでしこは、ほんの少しだけ目を伏せた。それでも、虎太郎の言葉を遮ることはなかった。
「けど、わかるだろ?」
虎太郎は、今度はまっすぐになでしこを見る。
「身近な人が、自分の知らないところで成長したり、変わってたりするとさ。」
少しだけ間を置く。
「……なんか、置いてかれたような気がするんだよ。」
「……。」
なでしこの手が止まった。その言葉が、自分の中にも静かに響いたからだ。
久しぶりに会った聖羅。
昔と変わらない、優しくて綺麗な先輩。
けれど――。
聖羅には、好きな人ができていた。
その人の前では、自分が知らなかったような、幸せそうな笑顔を見せる。
それは、嬉しいことのはずだった。聖羅が幸せなら、それでいい。
そう思っている。
それでも、ほんの少しだけ、自分だけが、そこから取り残されたような気がした。
なでしこは、何も言わなかった。ただ、小さく、こくりと頷いた。虎太郎も、その小さな頷きを見て笑った。
「でもさー。」
虎太郎は、残り少なくなったかき氷を見つめる。
「そう思うなら、自分も成長しなきゃいけないってことなんだよな。」
なでしこは、もう一度頷いた。
「……よし。」
虎太郎が勢いよく立ち上がる。
「決めた!」
「……?」
「俺、この後、あいつのとこ行く!」
虎太郎は笑った。
「一緒に勉強する!」
鞄を肩に掛ける。
「話聞いてくれてありがとな!」
なでしこを振り返る。
「また学校で!じゃーな!」
虎太郎は店を飛び出していった。
「…………。」
残されたなでしこは、静かにその背中を見つめていた。
やがて、その瞳に、いつもの物静かな光とは違う、強い輝きが宿る。
自分も、変わらなければならない。自分の気持ちから目を逸らさずに。誰かの背中を追いかけるだけではなく。
――自分の足で、一歩を踏み出すために。
なでしこは、静かにかき氷を口に運んだ。外から聞こえてくる蝉の声が、夏の始まりを告げていた。




