泰龍軒、冷やし中華はじめました!
初夏。東京具留米学園のキャンパスを、新緑の葉が埋め尽くしていた。春の柔らかな陽気はすっかり姿を消し、日中は暑さで汗ばむほどだ。そして、その暑さの影響を受けているのは、学校だけではなかった。
「……最近、ちょっと客が減ったな。」
昼の営業を終えた泰龍軒。店内を片付けながら、航平がぽつりと呟いた。
「やっぱり暑くなってきたからかな?」
瑠衣が龍彦に尋ねる。
「ああ。うちはアツアツの料理が売りだからな。暑くなると、どうしても客足が遠のく。」
「何か対策しないのか?」
航平も心配そうに店内を見回す。しかし龍彦は、さほど気にしていない様子だった。
「まあ、この時期は毎年のことだ。夏本番になる頃には、また戻ってくるわい。」
龍彦はそう言っていたが、航平は納得しきれない顔をする。
毎年のことだから仕方ない。
それで済ませてしまうのは、航平には少し違うように思えた。
「……やっぱ、何かできないかな」
翌日の放課後。学校からの帰り道。照りつける太陽の下を、航平と瑠衣が並んで歩いていた。
「暑い……。」
航平は額の汗を拭う。
「本当だね……。」
瑠衣も制服の胸元を少しだけ扇いだ。
「この暑さじゃ、熱い料理を食べたいって人が減るのも分かるけど……。」
「でも泰龍軒の料理って、基本アツアツだもんな。」
二人はしばらく黙って歩く。
「冷たい中華料理って、何かないかな……。」
瑠衣が考え込んでいると、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。
「おーい!航平センパーイ! 瑠衣センパーイ!」
二人が振り返ると、真夏のような暑さなどものともせず、元気いっぱいに手を振る直緒が駆け寄ってきた。
「元気だな…お前…。」
航平は呆れた顔をする。
「え?そうですかー?」
直緒はケロッとしている。
「このクソアツいのに…。」
「えー?全然暑くないけど?」
「いや、暑いでしょ……。」
そんなやりとりをしながら、三人はまた歩きだす。
「二人とも何話してたんですかー?」
「ああ……実はな…。」
航平が泰龍軒の客足について話す。
「なるほど…。」
直緒は腕を組み、少し考えると、何か思いついたのか、「そうだ!」と声をあげる。
「それじゃあー!」
「ん?」
「冷やし中華がいいんじゃないですか!?」
直緒のアイディアに、航平と瑠衣が顔を見合わせる。
「冷やし中華……?」
「うん!暑い日に熱いもの食べたくないなら、冷やしちゃえばいいんですよ!」
「…………なるほど。」
航平の目が変わった。
「おもしろそうだな。やってみるか!」
「え?」
直緒が驚く。
「マジで!?ワタシ、役に立っちゃった!?」
「ああ。」
「やったー!」
こうして、直緒の何気ない一言から、泰龍軒の夏限定メニュー開発が始まった。
泰龍軒の定休日の放課後。航平、瑠衣、直緒の三人は、調理実習室にいた。目の前には、何種類もの冷やし中華。醤油ダレ。ゴマダレ。酸味を強くしたもの。辛味を加えたもの。具材も様々だ。
「これも美味しいけど……。」
瑠衣が試食しながら首を傾げる。
「なんだか普通の冷やし中華って感じだね。」
「そうなんだよな。これじゃあ泰龍軒で出す意味がない。」
「泰龍軒らしさかぁ…。」
航平も箸を置いた。直緒は試作品を眺めながら、好き勝手に具材をつまんでいる。すると、突然実習室の扉が開いた。
斎浦玲司だ。
「斎浦センパイ!」
玲司の顔を見て、直緒の顔がぱっと明るくなる。
「……何をしている」
「冷やし中華の研究です!」
「冷やし中華……?」
玲司はテーブルの上を見た。そして、眉をひそめる。
「……邪道だな。」
航平の眉が動いた。
「中華料理とは、火を使い、素材を操り、熱を扱う料理だ。炎の料理と呼ばれることさえある。」
玲司は冷やし中華を見つめる。
「冷やし中華など、本来の中華料理からはかけ離れている。少なくとも、俺はこれを中華料理として認めるつもりはない。」
「……てめぇ。」
航平の目つきが変わる。
「…食ってみろよ。」
「……何?」
「そこまで言うなら食ってみろよ。俺が絶対うまい冷やし中華、作ってやるよ。」
玲司は航平を見つめた。
「……随分な自信だな。いいだろう。」
「決まりだな。明日の放課後、勝負だ!」
玲司が帰った後、航平は再び考え込んでいた。冷たくて、暑い日に食べたくなる。それでいて、泰龍軒らしい、おもしろい料理。
「……旨味、か。」
しばらく考えて、航平が呟いた。
「冷たい料理って、温かい料理より旨味を感じにくいんだよな。」
「そうなの?」
「ああ。だったら……。」
航平は冷蔵庫を開ける。
取り出したのは、昆布だった。
「これだな。」
「昆布?」
直緒が首を傾げる。
「中華なのに?」
「だから面白いんだろ。」
航平はニヤリと笑って、昆布を水に浸す。
「昆布は固く絞った布巾で軽く拭く。表面の白い粉は旨味成分が含まれてるから、軽くでいい。このまま一晩置く。」
「そんなに?」
「あぁ。だけど…これならきっと、斎浦をギャフンと言わせられるよ。」
翌朝。珍しく早起きした航平は、早くから実習室で放課後のための最後の試作と準備を行った。麺の茹で加減。麺とタレとの絡み具合。具材とのバランス。航平は一つひとつ調整していった。
「……よし。」
やがて完成した一皿。航平は確かな手応えを感じていた。
放課後、航平たちと玲司は再び実習室へ集まった。航平が早速作業に取り掛かり、一杯の冷やし中華を完成させた。
透明感のある冷たいスープに、艶やかな麺。
その上に色鮮やかな具材が並ぶ。
「これ……。」
瑠衣が目を輝かせる。
「これが俺の特製、昆布水仕立ての冷やし中華だ!」
「すごーい!綺麗!」
「さぁ、斎浦。これが俺の冷やし中華だ。食ってみろ。」
玲司が箸を取る。麺を持ち上げ、口へ運んだ。
「…………。」
「どうですか?」
直緒が尋ねる。玲司は答えない。ただ、何かを確かめるように食べ進めていく。
「…………なるほど。」
「お?」
航平が身を乗り出す。
「冷たいからこそ、昆布の旨味が際立っている……。」
玲司はスープを一口飲む。
「そして、その旨味が麺やタレの味を引き立て、全体を一つにまとめている。」
そして航平を見る。
「考えたな。」
航平の口元が少し緩んだ。
「だろ?ちょっと前に流行った昆布水つけ麺をヒントにしたんだ。」
「だが――」
玲司は箸を置く。
「俺はまだ、これは邪道だと思っている。」
「お前なぁ!」
「料理として美味いことと、中華料理として認めるかどうかは別の話だ。」
「ケッ!めんどくせぇ奴だな…。」
「何とでも言え。」
そう言いながら、玲司はもう一度箸を伸ばした。
「……とかなんとか言ってー?センパイめっちゃ食べてません?」
直緒がニヤニヤしながら言う。
「……うるさい。」
「斎浦センパイ、やっぱ美味しいんじゃん♪かわいい〜⭐︎」
「…………。」
玲司は無言で麺を食べ続け、「ご馳走様でした。」とだけ言って帰って行った。
そして数日後。
「いらっしゃいませー!」
泰龍軒の店内には、以前とは比べものにならないほどの活気が戻っていた。
「冷やし中華ひとつ!」
「こっちも!」
「昆布水仕立て、めちゃくちゃ美味しい!」
暑い日でも食べやすい冷たい中華。その評判は瞬く間に広がっていった。
「いやー、考えたのう航平。」
龍彦も嬉しそうに店内を見渡す。
「これなら夏場も何とか乗り切れそうじゃな。」
航平と瑠衣も顔を見合わせる。
「やったね!清永くん!」
「へへっ!おう!」
直緒も満足そうに胸を張る。
「私のアイデアのおかげですね!」
「ああ。その通りだ。ありがとな!」
「本当!直緒ちゃんお手柄だよ!」
「!」
航平と瑠衣の言葉に、固まってしまう直緒だったが、次の瞬間――
「航平センパイに褒められたー!!キャー!!」
泰龍軒は、久しぶりの大賑わいだった。
――さらにその数日後。日差しはますます強くなり、その日も一段と暑い一日だった。
泰龍軒の前を、風が吹き抜ける。その風に乗って、ひらひらと一枚の紙が店の前に落ちた。
「……なんだこれ?」
航平が拾い上げる。
「ビラ?」
瑠衣が横から覗き込む。そこには、大きくこう書かれていた。
『美味斎
冷やし担々麺、はじめました』
「…………。」
「…………。」
航平のこめかみに青筋が浮かぶ。
「……あんにゃろー!!」
初夏の空に、航平の怒声が響き渡った。




