最初が肝心。
ある日の放課後、生徒たちが次々と校門を出ていく中、二年生になって学級委員に選ばれてしまった英人は、委員会の仕事で生徒会室を訪れていた。机の上には、まだ片付いていない書類が山積みになっている。
「なんでこんなに仕事あんだよ…。」
英人がため息をつく。
「その資料、今日中に確認しておけよ。」
「はいはい……って、玲司、お前もう帰るのか?」
「ああ。」
玲司は手にしていた書類を机に置くと、すぐに鞄を持ち上げた。
「珍しいな。お前が生徒会の仕事を途中で切り上げるなんて。」
「残りは明日でいい。今日は用があるんだ。」
それだけ言うと、玲司は部屋を出ようとする。
「料理の練習か?」
英人の言葉に、玲司が足を止める。
「ああ。」
玲司は振り返らない。
「そんなことだろうと思ったぜ。料理のことばっかりだな、お前は。今度は何の練習してんだ?」
英人は笑いながら聞いた。
「桂むきだ。」
「桂むき?和食の技術じゃねーか。それを毎日やってんのか?」
「そうだ。」
玲司は淡々と答えた。だが、英人は気付いていた。
最近の玲司は、どこか険しい。生徒会の仕事をしているときも、いつも以上に口数が少ない。
何かを急いでいるような――いや、焦っているような。
玲司が焦ったり熱くなったりするときは、理由はいつも決まっている。
「……そんなに航平と仲良くするのが嫌なのか?」
玲司がようやく振り返った。
「……別に、清永に恨みもないし、嫌いなわけでもない。だが、馴れ合うつもりもない。清永に限らずな。」
英人が呆れたような顔をする。
「そうは言っても、特に航平には露骨じゃん。イベントとか、何かクラスで一緒にやるとき以外はほとんど口もきかないし。」
「何か問題があるのか?」
「……まあ、お前らしいっちゃお前らしいけどよ」
英人は頭を掻いた。
玲司と航平。二人は料理人として互いを認め合っている。それだけは間違いない。それなのに、普段は妙に距離がある。英人には、それが少し不思議だった。
「お前、まさかまだ泰龍軒を奪るつもりなのか?」
「…………。」
玲司は答えなかった。
「なんであの店に、そんなにこだわるんだよ。」
しばらくの沈黙が流れ、やがて玲司は静かに口を開いた。
「別に、こだわってるわけじゃない。ただ――」
玲司は窓の外へ視線を向けた。
「これは、俺と清永だけの問題じゃないんだ。」
英人が眉をひそめる。
「これは“親子”の問題なんだ。」
「親子……?」
玲司はそれ以上、何も言わなかった。英人も、それ以上は聞かなかった。どうやら、自分の知らない事情があるらしい。
「なんか、ワケありってことか。」
玲司は窓の外を見つめ続けている。
「ま、よく分かんねーけどよ」
英人は椅子にもたれながら、玲司を見る。
「お前が航平を嫌いなわけじゃないって、それを聞いてちょっとだけ安心したわ。」
「……なぜだ?」
「あいつ、馬鹿だけどいいやつだからよ。」
玲司がわずかに眉を動かす。
「最初っから変な目で見てたら、うまくいくもんもいかなくなるからな。」
「最初から…?」
「切り抜き動画とか、その典型だ」
玲司の表情が止まった。
「……最初から…か…。」
英人が不思議そうに玲司を見る。
玲司の脳裏に、一本の大根が浮かんだ。和馬に渡された、あの大根。
刃の角度が一定にならなかった。薄く、長く、剥こうとする。そればかりに意識を集中させていた。
だが――。
「…………!」
玲司の目が見開かれる。
「最初」。
大根を手に取った、その瞬間。
自分は何をしていた?
薄くむくこと。その前にやるべきことがなかったか。
「……そういうことか。」
「ん?」
玲司が動き出す。
「悪い、新藤。また明日な。」
「お、おう?」
玲司はそのまま生徒会室を飛び出していった。
「……なんだったんだ?」
英人は呆然としたまま、閉じた扉を見つめる。
「……まあ、なんでもいいか。」
そう呟いてから再び書類へと目を落とし、大きくため息をついた。
数時間後、美味斎の厨房で、玲司は一本の大根を手にしていた。その様子はこれまでとは違う。まず、大根をじっくりと見る。当然だが、大根は完全な真円ではない。一本一本が異なる形で少しずつ歪んでいる。これまでの玲司は、そこを気にしていなかった。
薄くむくこと、刃の角度を一定にすること、大根を回すテンポ、そういったことばかり考えていた。だが――。
「肝心なのは最初…。最初に、形を整える……。」
玲司は包丁を入れた。大根の表面を丁寧に削っていく。少しずつ。少しずつ。やがて玲司は、大根を手の中で回した。
「……これなら。」
大根の断面が、ほぼ綺麗な円になっている。玲司は静かに息を吐いた。そして、包丁を入れる。
スッと、薄い皮が伸びていく。一定の厚さ。一定の角度。玲司は大根を回していく。皮は途切れることなく、薄く、長く、伸びていった。
今までとは違う。
刃を無理に合わせる必要がない。大根の形が整っているからこそ、自然と刃の角度も安定する。最後までむき終えると、玲司はその桂むきをじっと見つめた。
「……できた。」
その声には、わずかな笑みが含まれていた。
「驚いたな」
和馬は、玲司が差し出した桂むきを手に取った。均一に、薄く、長い。そして、向こう側が透けている。和馬は桂むきを光にかざしている。
「さすがは天才、というわけか。」
玲司は真っ直ぐに和馬を見る。
「これで、俺に和食の包丁技術を教えていただけますね?」
「勝手に盗め。」
「……え?」
「技術とは盗むものだ。」
和馬は桂むきを置いた。
「……だが、どうしても道標が必要になったら――」
玲司を見る。
「そのときは俺がお前を見極め、道を示してやる」
玲司は静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
顔を上げた玲司に、和馬がふと問いかける。
「お前、包丁が人を選ぶと言っていたな。」
「えぇ。」
玲司は自分の包丁へ目を向けた。
「神谷慎の包丁は、そういうものだと。神谷本人が言っていました。」
「神谷を知っているのか?」
「えぇ。本人から包丁を譲ってもらいましたから。」
玲司は腰に差した包丁へ手を添える。
「俺の包丁は、神谷が打った包丁の中でも、慎鉄と呼ばれているものの一本です。」
玲司の声には、はっきりとした誇りがあった。
「これは、俺の誇りなんです。」
「……そうか。」
和馬は玲司の包丁を見る。
「伝説の職人の至高の一本……。慎鉄がお前を選んだ、というわけか。」
玲司は小さく頷いた。
「では、今日は帰ります。」
「ああ。」
玲司は調理実習室を後にした。扉が閉まり、静寂が戻る。和馬はしばらく、その扉を見つめていた。そして、ゆっくりと部屋の隅へ歩いていく。そこに置かれていたケースを手に取った。留め具を外し、ケースを広げた。中には、美しい包丁がズラリと並んでいた。
柳刃。出刃。薄刃。菜切。
その他にも、様々な形をした包丁がある。その数、二十本。
どれも同じような柄を持っている。
そして、そのすべてに、「慎」の文字が刻まれていた。




