↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
44/70

最初が肝心。

 ある日の放課後、生徒たちが次々と校門を出ていく中、二年生になって学級委員に選ばれてしまった英人は、委員会の仕事で生徒会室を訪れていた。机の上には、まだ片付いていない書類が山積みになっている。


「なんでこんなに仕事あんだよ…。」


英人がため息をつく。


「その資料、今日中に確認しておけよ。」

「はいはい……って、玲司、お前もう帰るのか?」

「ああ。」


玲司は手にしていた書類を机に置くと、すぐに鞄を持ち上げた。


「珍しいな。お前が生徒会の仕事を途中で切り上げるなんて。」

「残りは明日でいい。今日は用があるんだ。」


それだけ言うと、玲司は部屋を出ようとする。


「料理の練習か?」


英人の言葉に、玲司が足を止める。


「ああ。」


玲司は振り返らない。


「そんなことだろうと思ったぜ。料理のことばっかりだな、お前は。今度は何の練習してんだ?」


英人は笑いながら聞いた。


「桂むきだ。」

「桂むき?和食の技術じゃねーか。それを毎日やってんのか?」

「そうだ。」


玲司は淡々と答えた。だが、英人は気付いていた。


 最近の玲司は、どこか険しい。生徒会の仕事をしているときも、いつも以上に口数が少ない。


何かを急いでいるような――いや、焦っているような。


玲司が焦ったり熱くなったりするときは、理由はいつも決まっている。


「……そんなに航平と仲良くするのが嫌なのか?」


玲司がようやく振り返った。


「……別に、清永に恨みもないし、嫌いなわけでもない。だが、馴れ合うつもりもない。清永に限らずな。」


英人が呆れたような顔をする。


「そうは言っても、特に航平には露骨じゃん。イベントとか、何かクラスで一緒にやるとき以外はほとんど口もきかないし。」

「何か問題があるのか?」

「……まあ、お前らしいっちゃお前らしいけどよ」


英人は頭を掻いた。


 玲司と航平。二人は料理人として互いを認め合っている。それだけは間違いない。それなのに、普段は妙に距離がある。英人には、それが少し不思議だった。


「お前、まさかまだ泰龍軒を奪るつもりなのか?」

「…………。」


玲司は答えなかった。


「なんであの店に、そんなにこだわるんだよ。」


しばらくの沈黙が流れ、やがて玲司は静かに口を開いた。


「別に、こだわってるわけじゃない。ただ――」


玲司は窓の外へ視線を向けた。


「これは、俺と清永だけの問題じゃないんだ。」


英人が眉をひそめる。


「これは“親子”の問題なんだ。」

「親子……?」


玲司はそれ以上、何も言わなかった。英人も、それ以上は聞かなかった。どうやら、自分の知らない事情があるらしい。


「なんか、ワケありってことか。」


玲司は窓の外を見つめ続けている。


「ま、よく分かんねーけどよ」


英人は椅子にもたれながら、玲司を見る。


「お前が航平を嫌いなわけじゃないって、それを聞いてちょっとだけ安心したわ。」

「……なぜだ?」

「あいつ、馬鹿だけどいいやつだからよ。」


玲司がわずかに眉を動かす。


「最初っから変な目で見てたら、うまくいくもんもいかなくなるからな。」

「最初から…?」

「切り抜き動画とか、その典型だ」


玲司の表情が止まった。


「……最初から…か…。」


英人が不思議そうに玲司を見る。



 玲司の脳裏に、一本の大根が浮かんだ。和馬に渡された、あの大根。

刃の角度が一定にならなかった。薄く、長く、剥こうとする。そればかりに意識を集中させていた。


だが――。


「…………!」


玲司の目が見開かれる。

「最初」。

大根を手に取った、その瞬間。

自分は何をしていた?

薄くむくこと。その前にやるべきことがなかったか。


「……そういうことか。」

「ん?」


玲司が動き出す。


「悪い、新藤。また明日な。」

「お、おう?」


玲司はそのまま生徒会室を飛び出していった。


「……なんだったんだ?」


英人は呆然としたまま、閉じた扉を見つめる。


「……まあ、なんでもいいか。」


そう呟いてから再び書類へと目を落とし、大きくため息をついた。




 数時間後、美味斎の厨房で、玲司は一本の大根を手にしていた。その様子はこれまでとは違う。まず、大根をじっくりと見る。当然だが、大根は完全な真円ではない。一本一本が異なる形で少しずつ歪んでいる。これまでの玲司は、そこを気にしていなかった。


薄くむくこと、刃の角度を一定にすること、大根を回すテンポ、そういったことばかり考えていた。だが――。


「肝心なのは最初…。最初に、形を整える……。」


玲司は包丁を入れた。大根の表面を丁寧に削っていく。少しずつ。少しずつ。やがて玲司は、大根を手の中で回した。


「……これなら。」


 大根の断面が、ほぼ綺麗な円になっている。玲司は静かに息を吐いた。そして、包丁を入れる。

スッと、薄い皮が伸びていく。一定の厚さ。一定の角度。玲司は大根を回していく。皮は途切れることなく、薄く、長く、伸びていった。


今までとは違う。


刃を無理に合わせる必要がない。大根の形が整っているからこそ、自然と刃の角度も安定する。最後までむき終えると、玲司はその桂むきをじっと見つめた。


「……できた。」


その声には、わずかな笑みが含まれていた。





「驚いたな」


 和馬は、玲司が差し出した桂むきを手に取った。均一に、薄く、長い。そして、向こう側が透けている。和馬は桂むきを光にかざしている。


「さすがは天才、というわけか。」


玲司は真っ直ぐに和馬を見る。


「これで、俺に和食の包丁技術を教えていただけますね?」

「勝手に盗め。」

「……え?」

「技術とは盗むものだ。」


和馬は桂むきを置いた。


「……だが、どうしても道標が必要になったら――」


玲司を見る。


「そのときは俺がお前を見極め、道を示してやる」


玲司は静かに頭を下げた。


「……ありがとうございます。」


顔を上げた玲司に、和馬がふと問いかける。


「お前、包丁が人を選ぶと言っていたな。」

「えぇ。」


玲司は自分の包丁へ目を向けた。


「神谷慎の包丁は、そういうものだと。神谷本人が言っていました。」

「神谷を知っているのか?」

「えぇ。本人から包丁を譲ってもらいましたから。」


玲司は腰に差した包丁へ手を添える。


「俺の包丁は、神谷が打った包丁の中でも、慎鉄と呼ばれているものの一本です。」


玲司の声には、はっきりとした誇りがあった。


「これは、俺の誇りなんです。」

「……そうか。」


和馬は玲司の包丁を見る。


「伝説の職人の至高の一本……。慎鉄がお前を選んだ、というわけか。」


玲司は小さく頷いた。




「では、今日は帰ります。」

「ああ。」


玲司は調理実習室を後にした。扉が閉まり、静寂が戻る。和馬はしばらく、その扉を見つめていた。そして、ゆっくりと部屋の隅へ歩いていく。そこに置かれていたケースを手に取った。留め具を外し、ケースを広げた。中には、美しい包丁がズラリと並んでいた。


 柳刃。出刃。薄刃。菜切。


その他にも、様々な形をした包丁がある。その数、二十本。


どれも同じような柄を持っている。

そして、そのすべてに、「慎」の文字が刻まれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。