この道を行けば。
とある日の、東京具留米学園。授業が終わり、生徒たちが帰路につく中、調理実習室では、一人の少年が包丁を握ったまま、黙々と作業を続けていた。
斎浦玲司だ。
まな板の上には、狂いなく、細く綺麗に切り揃えられた野菜が並んでいる。一つ切り、また一つ切り。玲司は次々に野菜を切っていく。包丁を引き、返し、また引く。一定のリズムで、刃が食材を捉えていく。
「……ふぅ。」
玲司は最後の一片を切り終えると、一つ息を吐いて、包丁を置いた。
完璧だ。少なくとも、以前の玲司ならそう思っていた。だが脳裏に、あの試験で見た光景が浮かぶ。清永航平が花刀を入れる姿が。そして、「慎」の文字が刻まれた包丁が。
玲司は、自分の包丁を見つめた。
「…………。」
試験の前から、航平の包丁技術が上がっていることには気付いていた。以前とは明らかに違う。刃の入り方も、手首の返しも、食材をとらえるほんの一瞬の精度。ほんの僅かな感覚の違い。それに、玲司は気がついていた。
そして、それは試験で確信へと変わった。
――清永は、また一段上へ進んだ。
そして、あの包丁。自分の包丁と同じ、「慎」の文字が刻まれた一本。
玲司の口元が、僅かに上がる。
「……面白い。」
不思議と胸の奥が熱くなった。
そして、もう一人、玲司の脳裏に浮かぶ人物。
真田和馬。
和食コースの三年生で、和食の異端児と呼ばれる男。去年、斗麿たちを抑えて、二年生で文化祭の頂点に立った男。その男の言葉が、ずっと耳から離れない。
「包丁だけなら、今はお前のほうが遥かに上だろう。」
玲司にとって、包丁は自分の一番の武器であり、何よりも拘ってきたものだ。包丁なら、誰にも負けないと思っている。だから、和馬のあの言葉が、どうしても引っかかる。
「今は……か…。」
玲司は、自分の包丁を強く握り直す。
そのまましばらく、じっと包丁を見つめたまま考え込んでから、もう一度小さく息を吐く。包丁を丁寧にケースへ納め、そして、静かに立ち上がった。
翌日。玲司は和馬に会うために、三年生の実習室を訪ねていた。
「……斎浦?」
和馬は、珍しい来客に目を向けた。
「……何か用か?」
「真田先輩に、聞きたいことがあります。」
玲司は真っ直ぐに和馬を見る。
「この前、あなたは俺に言いましたね。」
「…………。」
「『今はまだ、お前が上だ』と……。」
和馬は眉ひとつ動かさない。
「それがどうした。」
「……その言葉が、ずっと引っかかっているんです。」
「……。」
「俺は、料理では誰にも負けたくない。特に包丁は、俺が何よりも大切にして積み上げてきたものだ……!だが、あなたのあの言い草は、いずれ清永が包丁で俺を超えるとでも言うようだった……!そんなこと……俺は絶対に認めない……!」
玲司の言葉を聞いても、和馬の表情は変わらない。
「それで?それが俺に一体なんの関係がある?」
「…………俺に、……和食の包丁技術を教えてください。」
その言葉に、和馬は少しだけ驚いた。玲司が誰かに教えを請う。東京具留米学園始まって以来の天才と言われている男がだ。意外だ、と和馬は思った。
「和食の異端児と呼ばれるあなたなら、確かな技術を持っているはずだ。中華には、一刀万能・万物融和という美学があります。きっと和食にも、技術だけじゃない、中華とはまた異なる美学があるはずです。それを学び、俺の中華に落とし込むことができれば……。」
表情を変えない和馬から目を離すことなく、玲司は続けた。
「俺は、清永の腕が上がっていることには気付いていました。」
「…………。」
「そして、あの包丁……。」
玲司の脳裏に、「慎」の刻印が浮かぶ。
「清永の包丁……。あれは、俺の包丁と同じ……。神谷慎の打った包丁……。神谷の包丁は、持ち主を選ぶと言われています。」
和馬の眉が、わずかに動いた。
「包丁が、清永を認めたんです。」
「包丁が……か。」
「……俺は、得意な包丁であいつに負けるわけにはいかない。」
玲司の目には、強い意志が宿っていた。
「あいつが通らない道を進んで、差をつけたい……。だから、ここに来ました。」
しばらくの沈黙の後、和馬は実習室の冷蔵庫から大根を一つ取り出した。
「桂むきを知っているか?」
「もちろん。」
「やったことは?」
「あります。」
和馬は、一本の大根を玲司の前に置いた。
「やってみろ。」
玲司は包丁を取り出し、言われた通り、大根をむき始めた。
桂むき。大根などの野菜を回しながら、薄く、長く、一定の厚さでむいていく、日本の伝統的な包丁技術。玲司は眉間に皺を寄せながら、真剣な目で大根をむいていく。和馬は、その様子を黙って見ていた。
やがて、剥き終えると、玲司はそれを和馬に見せる。
しかし――。
「話にならんな。」
「…………!」
玲司が目を見開く。和馬は冷静な表情のまま、大根を見つめていた。
「刃を入れる角度が一定じゃない。上が薄く、下が厚い。典型的だな。それに……皮越しに向こう側が透けていない。新聞の文字が透けて読めるくらい薄く、かつ均一に。それが、和食の世界での完成基準と言われている。この程度では、俺に教えを乞うレベルにすら達していない。」
「……!」
「お前は中華の包丁を扱う技術には自信があるようだが……。」
和馬は玲司をじっと見つめる。
「その自信は、和食の世界では何の役にも立たん。」
玲司は黙った。悔しかった。だが、それ以上に、胸の奥が熱くなっているのを感じた。
「…………なるほど。」
玲司は、自分がむいた大根を見下ろす。
「わかりました……。」
玲司は大根を見下ろしていた顔を上げ、和馬に向かって言った。
「練習します。練習して、必ずものにします。」
「……勝手にしろ。」
「できるようになったら、その時は、俺に和食の包丁を教えてくれますか……?」
「……考えておこう。」
玲司は拳を強く握りしめる。
「……待っていろ、清永…。あいつが知らない道を、俺は進む……!」
その日から、斎浦玲司の、新たな特訓の日々が始まった。




