君の隣に立つために。
とある日の朝。東京具留米学園の廊下を、二人の一年生が歩いていた。
「なあ辰樹!今日までの宿題、見せてくれ!頼む!」
「えぇ!?また!?もう……仕方ないな……自分でやらなきゃ意味ないっていつも言ってるのに……。」
「まぁまぁ!いいじゃんいいじゃん!」
「よくないよ……。」
小柄なヘアバンドの少年、浅野虎太郎が、楽しそうに笑って先を歩いていく。その後ろを、長身の眼鏡の少年、三好辰樹が呆れた顔でついていく。
その二人を、廊下の反対側から眺めていた男がいた。
「あれは……。」
宍戸弦之介だった。弦之介は、二人の姿に見覚えがあった。
入学初日。いきなり斎浦玲司と清永航平に勝負をふっかけた一年生。
「噂の一年の凸凹コンビ……。」
弦之介は目を細める。
「……ノッポの方、今日もチビに振り回されてんなぁ。」
二人を見かけると、いつもそうだ。虎太郎が忘れたプリントを辰樹が持っていたり、虎太郎が飲みかけのペットボトルを置きっぱなしにすれば、辰樹が回収する。虎太郎が勢い余ってどこかへ走っていけば、辰樹が「待ってよ!」と追いかける。
どうやら二人は、そういう関係らしい。
「……仲いいんだな。」
弦之介は、少しだけ笑った。
その日の放課後。弦之介は帰宅しようと廊下を歩いていた。1-Cの教室の前を通りかかったとき、教室から聞き覚えのある声がして中を覗いてみる。
「じゃあ、俺、先行ってるぞ!」
「うん。気をつけてね。すぐ追いつくよ。」
「おう!早くしろよー!」
虎太郎は手を振ると、元気よく廊下を走っていった。
「……廊下は走っちゃダメなんだけどなぁ。」
辰樹は苦笑しながら、その背中を見送った。教室には、もうほとんど人が残っていない。今週掃除当番になっていた辰樹が教室の掃除をしている。
「おい。」
弦之介は辰樹に声をかけた。
「俺は2年経営科の宍戸ってもんだ。」
「ど、どうも。宍戸先輩……?えっとー…僕に何か用ですか……?」
「お前と今出てったチビだろ?入学初日に斎浦玲司と清永に喧嘩ふっかけたっつーのは。」
「喧嘩なんてそんな!……まぁ、虎太郎くんのあの感じだとそう思われるかもしれないけど……別に喧嘩するつもりだったわけでは……。」
「まぁ何でもいいけどよ。お前、いっつもあいつに振り回されてんな。」
辰樹は少し困ったように笑った。
「そう、ですね」
「嫌じゃねぇのか?」
「え?」
「あのチビのわがままに付き合わされてよ。」
「……ふふ。」
辰樹は小さく笑った。
「虎太郎くんは、昔からああなんです。」
「昔から?」
「はい。」
辰樹は少し懐かしそうな顔をした。
「でも、ただわがまま言ってるだけってわけじゃないんです。僕のことを気にかけてくれてて……それに……。」
そこで、笑顔が少しだけ曇る。
「僕は虎太郎くんがいないと、何にもできないから……」
「…………。」
弦之介は真剣な顔つきで話を聞いていた。今の辰樹の言葉が、どうにも引っかかる。弦之介にはむしろ、辰樹の方がしっかりしているように見えていたのに、虎太郎がいないと何もできないとは、どういうことなのだろう。
「……そうか。」
引っかかっているものが何なのか、それはわからないままだったが、弦之介は、それ以上は聞かなかった。
翌日。一年C組では、調理実習が行われていた。
「今日の課題は棒棒鶏だ!」
教師の声が響く。
「棒棒鶏!」
虎太郎が嬉しそうに声を上げる。
「やってやるぜー!」
「虎太郎くん、実習中なんだから大きい声出しちゃダメだよ!」
「分かってるって!」
辰樹はいつものように虎太郎を諭し、二人は手際よく作業を進めていく。豪快で感覚的な虎太郎と、丁寧で繊細で基本に忠実な辰樹。対照的な二人だが、二人とも料理の腕はさすがなものだった。
「よし!こんなもんだろ!」
「うん!虎太郎くんの、すごくおいしそうだよ!」
「お前のもなかなかうまそうだぜ!」
性格が、そのまま料理に出ているようだ。
豪快で勢いのある虎太郎。
丁寧で、細部まで気を配る辰樹。
二人の棒棒鶏は、同じ棒棒鶏でもその性格はまるで違うものに仕上がっていた。
そして昼休み。実習で作った料理を、それぞれ昼食として食べていたときだった。突然、実習室の扉が開いた。辰樹が振り返ると、そこには弦之介が立っていた。
「宍戸先輩!?」
「ちょっと食わせろ!」
「えっ?」
弦之介は、虎太郎の前に置かれていた棒棒鶏を一口。
「ちょっ!何なんだよ!?」
続いて、辰樹の棒棒鶏を一口。
「…………。」
弦之介は何も言わないまま、もぐもぐと口を動かしている。
「おい、辰樹!何なんだよこの人!知り合いか?」
「2年の宍戸先輩…。経営科の…。」
「経営科の先輩がなんでこんなとこに来るんだよ!?」
「僕に聞かれてもわかんないよ!」
ヒソヒソと話す虎太郎と辰樹の横、弦之介は二人の料理をもう一度だけ見比べた。
そして。
「……じゃあな。」
それだけ言って、そのまま実習室を出ていった。
「はぁ!?」
「ちょ、宍戸先輩!?」
虎太郎が首を傾げる。
「何だったんだよ…一体…。」
「さあ……。」
辰樹も首を傾げた。
放課後。その週、掃除当番になっていた辰樹に、虎太郎が声をかける。
「じゃあ俺、先帰るぞ!」
「うん。ごめんね。」
「いいって!また明日な!」
「また明日!」
虎太郎が帰っていく。辰樹は一人、教室に残った。やがて掃除を終え、廊下へ出る。
静かな校舎を一人で歩いていると、一人の男子生徒に呼び止められる。
「三好。」
また弦之介だった。
「宍戸先輩……。」
「ちょっと話そうぜ」
「……はい?」
二人は校庭の脇にあるベンチに座った。弦之介は、昨日と同じように、真剣な顔つきで辰樹を見る。
「お前、なんでそんなに自信ねぇんだ?」
「…………。」
辰樹は答えなかった。
「俺にはお前が、浅野がいないと何もできないやつには見えねぇんだけどな。」
その言葉に、辰樹が少しだけ目を見開いた。
「…僕は……。」
辰樹は、ゆっくりと話し始めた。
「僕、小学生の頃から、背が高かったんです。でも、背が高いだけで、運動も苦手で、鈍臭くて…。」
スポーツでは失敗してばかり。気弱で人前に出れば緊張した。言いたいことがあっても、言葉にできなかった。
「気も弱かったから……よく、いじめられてました……。そんな僕を助けてくれたのが、虎太郎くんなんです。」
辰樹の顔に、ほんの少し笑みが戻る。
「虎太郎くんは、昔からあんな感じで……乱暴でむちゃくちゃで。でも、すごく優しいんです。本当はいつも僕のことを気にかけてくれてて、ああやって、いつも僕を引っ張ってくれてるんです。」
助けたことを、恩着せがましく言ったこともない。まるで当たり前のことのように、いつも自分の隣にいてくれた。
「あるとき、虎太郎くん、『お前には俺がいないとな』って言ったんです。」
虎太郎は、何の気なしにそう言ったのだろう。
「……僕、その言葉がすごく嬉しかったんです。」
初めてできた友達が、いつもそばにいてくれる。自分の居場所を作ってくれたような、そんな気がしたのだ。
辰樹の耳が赤くなる。
「じ、実は……最近、好きな人ができたんです……。」
弦之介は目を丸くした。
「……ほう。」
「すごく優しい人で……。」
辰樹は少しだけ笑った。
「でも、その人は歳上で…。たぶん、その人が好きなのは……もっと頼りになる人なんです。」
辰樹の表情が曇る。
「僕なんか……全然頼りにならないし……。」
辰樹は俯く。
「このままじゃいけないって、わかってはいるんです。いつまでも虎太郎くんに甘えていられるわけじゃない……。もっとしっかりしなきゃって。虎太郎くんが困ったときは、頼ってもらえる存在にならなきゃいけないって……。でも、どうしても自信が持てなくて……。」
弦之介はしばらく黙っていたが、辰樹の両肩をバンと叩いて言った。
「……シャキッとしろ!」
「えっ!?」
「男がそんなんでどうすんだ!」
「ヒィッ!す、すみません!」
「また謝った!」
弦之介は頭を抱えた。
「お前なぁ……!」
だが、その声には怒りよりも呆れが混じっていた。
「いいか。お前は全然ダメなんかじゃねぇ。」
「え……?」
「少なくとも――」
弦之介は昨日の昼に食べた棒棒鶏を思い出す。
「あのチビより、お前の作った棒棒鶏の方がうまかった。」
「え……?」
「お前の料理は丁寧だった。鶏肉の火の入り方も、タレのバランスもちゃんとしてた。」
派手さはない。けれど、確かな技術があった。
「お前は、料理ができるじゃねぇか。」
「……!」
「お前もこの学校で調理科に入ったんだ。」
弦之介はもう一度辰樹の肩を叩く。
「チビと仲良しは大いに結構だ。だがな、友達だからって料理まで負けてやることはねぇ。」
辰樹が顔を上げる。
「自信持っていいんだよ。お前は浅野に負けないくらいうまい料理を作れる。」
「…………。」
辰樹の胸の奥に、じんわりと何かが広がっていく。今まで誰かに助けてもらうことばかり考えていた。
でも。
自分にも、自分の力がある。
「……はい。」
辰樹は小さく、しかし力強く頷いた。
「僕、頑張ってみます!」
そう言って立ち上がったその顔には、今までとは違う強さがあった。
「おう!」
弦之介はニカッと笑った。
「応援してるぜ!」
「宍戸先輩……。」
「俺たちは先輩後輩の関係だがよ……。」
そして拳を突き出す。
「今日からは、ダチだ!」
「……!」
辰樹は目を丸くした。やがて、その拳に自分の拳を軽く合わせる。
「はい!」
そう言って笑った辰樹の笑顔は、弦之介が見てきた辰樹の中で一番晴れやかなものだった。
「なぁ。ところでよ!」
「はい?」
「お前の好きな人って誰なんだ?」
「…………。」
辰樹は恥ずかしそうに少し俯く。
「歳上ってことは、うちの二年か三年か?」
弦之介はニヤニヤする。
「それとも、まさか大学生!?」
「…………。」
辰樹の顔が、みるみる赤くなる。
「……あの…。」
「なんだよ?」
「…………。」
さっき「頑張ってみます!」と言い切ってみせた威勢はどこへ行ったのか。辰樹はもじもじと視線を泳がせている。
「何だよ、またモジモジして。ちょっとはたくましくなったと思ったのによ」
弦之介が呆れたように笑う。
「…………っ。」
辰樹は少し黙っていたが、意を決したように顔を上げる。
「じ、実は……。」
「おう。」
「僕……。」
頬を真っ赤に染めながら、辰樹は言った。
「泰中先輩が好きなんです!」
「…………。」
弦之介の顔から、笑みが消えた。
「…………は?」
「2-Cの泰中先輩が好きなんです!」
「…………。」
一瞬の沈黙。そして、次の瞬間――。
「なにぃーーーーーーー!?」
夕暮れの校舎に、弦之介の絶叫が響き渡った。
「ちょっと!声が大きいですよ!」
「僕なんかって思ってたけど……。」
辰樹は、まっすぐ前を見た。
「宍戸先輩のおかげで、少し、勇気が出てきました!」
「いや、待て! 俺はそういう意味で――」
「頑張って、男として成長して!」
「おい!」
「僕……。泰中先輩に、いつか告白します!」
「待て待て待て!」
「決めました!」
辰樹は笑った。
「ありがとうございました、宍戸先輩!」
「だから待てって!」
しかし、もう遅かった。辰樹は弦之介を置いて、颯爽と走り出していた。
「頑張ります!宍戸先輩!ありがとうございました!」
「お、おい三好!三好ーーー!!」
遠ざかっていく背中。弦之介は、その場に立ち尽くした。
「…………。」
弦之介は、しばらく一歩も動けなかった。
「…………こ、こんなはずでは……。」
拳が震える。
「こんなはずではァァァアアアアア!!」
弦之介の悲鳴が、再び夕暮れの校舎に響き渡った。
自分が背中を押した後輩が、まさか自分の恋のライバルになるなんて。そんなこと、誰が予想できただろうか。
その頃。少し離れた場所にある木の影から、一人の少年が顔を覗かせていた。
浅野虎太郎だった。虎太郎は辰樹を待っていた。辰樹の掃除が終わるまで待って、一緒に帰ろうと思っていたのだ。せっかくだから、木の影に隠れて驚かせてやろう。
そんな、いつもの悪戯だった。それが――。
目の前を走っていく辰樹の背中を見て、虎太郎は動かなかった。
「…………。」
声をかけることも、追いかけることもなく、ただ、その背中を見送っている。
いつもなら、辰樹が自分の後ろをついてくる。何かあれば自分を頼ってくる。
そんな辰樹が、今日は、自分の知らないところで何かを決めて、走りだしていた。
黙ってその背中を見つめていた虎太郎のその表情には、いつもの無邪気さとは少し違う、ほんの少しだけ、複雑な色が浮かんでいた。
やがて辰樹の背中が見えなくなっても、しばらくその方向を見つめ、そして、何も言わずに、虎太郎は静かに歩き出した。




