調理科高校生はツラいよ
玲司との炒飯対決から数日が経った日の午後、
放課後の教室の一番後ろの席で、航平は机に突っ伏し、魂が抜けたような声でため息をついた。
「帰りてぇ……。」
炒飯対決の後、龍彦にアルバイトとして迎えられたところまでは良かった。時給も出るし、まかない付き。金欠だった航平にとっては願ってもない話だった。
――ただし。
「毎日ちゃんと学校へ通え。サボった日は給料もまかないもなしじゃ。」
龍彦はそう言い放った。その日以来、航平は毎朝ちゃんと登校し、放課後はそのまま泰龍軒へ向かう生活を送っている。
「バイトだけならまだしも……学校まで毎日とか聞いてねぇよ……。」
机に顔を押し付けたまま呟く。すると、隣からクスクスと笑い声が聞こえた。
「お疲れ、清永くん。」
航平は顔だけ上げる。
「……泰中。」
瑠衣は笑いをこらえながら言った。
「この前、炒飯作ってた人と同一人物とは思えないね。あんなにすごかったのに、学校じゃ毎日これだもんなぁ。」
「うるせぇ。」
航平は再び机へ突っ伏した。
「眠い。」
東京に来たら、料理のことは忘れて、毎日自由に暮らすつもりだったのに、結局中華鍋を振る生活を送っている。
「……高校生ってこんなに忙しいのかよ…」
「今までサボってた人が言うセリフじゃないよ?」
「ぐっ……。」
瑠衣は肩を揺らして笑う。
「まあでも、ちゃんと学校来るようになっただけでも一歩前進か。」
航平は天井を見上げる。
「俺は給料と賄いを人質に取られてるだけだからな。」
「あはは!」
「笑い事じゃねぇよ。」
航平は両手を合わせた。
「頼む、泰中!今日だけバイト休ませてくれ!」
「ダメ。」
「即答!?」
「『料理人たるもの、人生の多くを経験し、毎日厨房へ立つ。すべての経験が、その者の料理となる。』」
瑠衣は人差し指を立てた。
「……。」
「おじいちゃんが言ってた。」
「またジジイか……。」
航平は椅子から立ち上がる気力もなく、ぐったりとうなだれた。
そんな航平の腕を瑠衣は笑いながら引っ張る。
「ほら。行こ?」
「ちょっ、引っ張んなって!」
瑠衣は構わず航平を引っ張って歩きだす。二人が教室を出ようとした、その時。
「おーい、清永。」
穏やかな声が廊下から聞こえた。二人が振り返る。そこに立っていたのは、眼鏡を掛けた男性教師だった。細身のスーツをさらりと着こなし、柔らかな笑みを浮かべている。落ち着いた雰囲気がありながら、不思議と若々しい。女子生徒たちが廊下ですれ違うたび、小さく会釈をしていく。
「渡邊先生。」
瑠衣が頭を下げる。
「やぁ。お疲れ様。」
先生はにこりと笑い、それから航平を見る。
「最近、ちゃんと学校に来てるな。先生嬉しいぞー。」
その一言に、航平は少し気まずそうに頭をかいた。
「それと…」
渡邊は指を立てて続ける。
「明日提出の宿題、忘れるなよ。」
「……。」
航平の動きが止まる。
「先生まで……。」
「ん?」
「俺から平穏な日常を奪うのか……。」
がっくりとうなだれる航平。それを見て、瑠衣は吹き出した。
「先生、それトドメです。」
「ははっ。」
渡邊も思わず笑う。
「面倒でも、留年はしたくないだろ?」
返す言葉もない。
「じゃあ失礼します!」
瑠衣がぺこりと頭を下げる。
「はい、気を付けて。」
二人は並んで歩き出した。その背中を見送りながら、渡邊信太郎は優しく目を細める。
「やっと学校に居場所ができたみたいだな。」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いて微笑んだ。
その日の泰龍軒の営業終了後。
「ありがとうございましたー!」
瑠衣が暖簾をしまい、店内の照明が一段落ちる。最後の客を見送ると、泰龍軒はいつもの静かな夜に戻った。航平はモップを手に厨房の床を磨いていた。
「ったく……。」
ゴシゴシ、と床をこする。
「人使いが荒ぇんだよ……あのクソジジイ。」
「誰がクソジジイじゃ。」
「うわっ!」
振り向くと、龍彦が腕を組んで立っていた。
「盗み聞きかよ!」
「お前の独り言は独り言になっとらん。」
呆れたようにため息をつく龍彦。
「二人とも。今日はこの辺でいいぞ」
「え?」
「航平、上がってこい。茶でも淹れてやる。」
航平の目が輝く。
「マジ?今日は話がわかるじゃんかじいさん!俺、茶菓子はせんべいね!」
「何を言っとるか、たわけが。もうすぐ中間試験じゃろ。二階で瑠衣と勉強していけ。」
「…………。」
航平の笑顔が固まる。
「そんなぁぁぁぁぁ!!」
「うるさい!さっさと行け!」
「横暴だ……。」
ぶつぶつ文句を言いながら階段を上る航平。その後ろ姿を見て、瑠衣は思わず笑った。
「おじいちゃん、清永くん、ちょっとかわいそう。」
「甘やかすと、あいつはすぐサボるからな。」
「たしかに。」
二人は顔を見合わせて笑う。
二階。ちゃぶ台の上には教科書とノートが広げられていた。航平は開始五分で鼻の下と口でペンをはさんで腕を組む。
「……泰中…何語だ?これ。」
「日本語。」
「何言ってるかサッパリだ!チンプンカンプンだ!」
「だから教えてあげるってば。」
瑠衣は苦笑しながら教科書を覗き込む。
「どこ?」
航平はページを指差した。
「ここ。」
瑠衣は問題を見る。
「あぁ、これね。」
説明しようとして、ふと口を止めた。
「ねぇ。」
「ん?」
「もうさ。」
少し照れくさそうに笑う。
「瑠衣でいいよ。」
航平がきょとんとする。
「へ?」
「毎日学校行って、一緒に働いて、勉強まで一緒にしてるんだし、その方が呼びやすいでしょ?」
「いや……。」
航平は頭をかく。
「でも、そっちだって俺のこと清永くんって呼んでるじゃん。」
「私はいーの。」
「なんだそれ。」
瑠衣はぷっと吹き出す。
「細かいことは気にしない!決まりね!」
「……。」
航平は少しだけ視線を逸らした。こんなことで照れる歳でもない。そう思うのに、なぜか少しだけ気恥ずかしい。
「……あ、あの…る、瑠衣。」
「うん?」
「ここも教えて…くれ…。」
一瞬、瑠衣は目を丸くした。それから、花が咲くように笑う。
「うん!」
その笑顔に、航平はほんの少しだけ見惚れた。
――なんか……こいつといると調子狂うな…。
心の中でそう呟きながら、何事もなかったように教科書へ目を戻す。
襖の向こう。湯呑みを持った龍彦が、その様子を黙って眺めていた。
「……若いのぅ。」
小さく笑って、お茶をひと口。
「何事も、火加減が肝心。」
そう独り言を言って、一階へ戻っていった。
翌日。教室に入ってきた渡邊は、いつものように穏やかな笑みを浮かべながら教壇へ立った。
「おはよう。」
「おはようございまーす」
教室に生徒たちの声が響く。航平は机に突っ伏したまま、小さく手を上げるだけだった。
「……眠い。」
その様子に、渡邊は苦笑しながら黒板へ向き直った。チョークを手に取り、大きく一行。『中間試験』と書く。
「みんなの高校生活、最初の中間試験まで、いよいよあと一週間だ。」
教室の空気が少しだけ引き締まる。
「もちろん筆記試験もある。」
航平が嫌そうな顔をする。
「ですが。」
渡邊は振り返った。
「調理科のみんなにとって、本番は実技試験。」
全員の視線が教壇へ集まる。
「というわけで――」
一拍置く。
「今回の実技試験の課題を発表します。」
ごくり、と誰かが息を呑む音がした。渡邊はゆっくりと黒板に文字を書いていく。一画、一画、丁寧に。やがて、教室中がその文字を見つめた。
「今回の東京具留米学園調理科中華料理コースの中間試験、実技課題は……『青椒肉絲』です。」




